2016年12月10日

第23回 四人組とその仲間たち 室内楽コンサート

昨夕、「四人組とその仲間たち 室内楽コンサート」を東京文化会館小ホールで聴いた。全体で5曲で、以下のような構成。
中村ありす「風の門 アルトサクソフォンとピアノのために」須川展也(sax)、羽石道代(pf)。金子仁美「味覚・嗅覚―基本篇― 2本のギターのための」鈴木大介(gt)、大萩康司(gt)。西村朗「ハラーハラ 独奏アルト・サクソフォンのための」須川展也(sax)。新実徳英「ピアノのためのエチュード ─神々への問い─ 第2巻」寺嶋陸也(pf)。池辺晋一郎「バイヴァランスXI 2人の声のために」工藤あかね(vo)、松平敬(vo)。
「風の門」はタイの古代医学を発想の源として作曲されたそうで、サクソフォンを上手に活かして闊達なもの。第3セクションのリズミックな音楽は単純な構成要素からなっていたがなかなか効果的だった。
「味覚・嗅覚―基本篇―」は食、味覚に発想を得ているようだ。しかし誰でもやる飲食の行為に照応しているとされるこの音楽はそれほど聴きやすいものではない。金子氏は風変わりな音楽観を持っているようで、安易には楽しませないぞという厳しさが感じられた。そういう音楽観の新しさを求める人たちにとってはこの曲は最も手応えがあったかもしれない。最後の楽章はふしぎに気色のいい紋様感覚の音楽。ちなみにギターの鈴木・大萩両氏はラジオやCDなんかでは親しんでいたが生で聴くのは初めてだったかもしれずステージ上のどちらがどちらかわからなかった。残念。
「ハラーハラ」はヒンズー教の神話(不死の霊薬アムリタと猛毒ハラーハラの)に沿った展開のようで、ヴィルトゥオーゾ・須川展也のサクソフォンの妙技を存分に堪能できる波瀾万丈のソロ曲。この音どものすべてが音符として五線譜に書いてあるのかと思うととんでもないことのように思われるのだが、それを堂々と吹き切る見事さ。
「ピアノのためのエチュード ─神々への問い─第2巻」は内実的には宇宙論の問いのようで、音楽に即して言えば超絶技巧のエチュード。そうとう上級のピアニストでないとこのエチュードには挑めないのではないか。今回のコンサートのなかでは最もオーセンティックな組み立ての姿勢の曲で、音楽の構造幾何学をとことん追求しようという意気込みが感じられる。所々で描き出される楽想の形象もあざやかに輝き、複雑な和音の一つ一つもずしんずしんと響いてくる。和音の奥深さ、構成のロジックのゆるみを排した精密度でつき抜ける曲。寺嶋さんの力まない的確な演奏に拍手。
「バイヴァランスXI」はいろんな組み合わせが可能だが今回の初演は一人の男声&一人の女声にしたとのこと。松平・工藤の両氏は夫婦なのだそうで息が合っていた。歌われる言葉はアンドレ・ブルトンと西脇順三郎の作品の断片(のパロディ)から構成したとのことだが、それだけでなく、犬や猫、蛙や牛、その他いろんな生物や自然の音が入り込んでいたような気配があって楽しく、二歳の坊やとお嬢が遊んでいるようで、根源的な音楽が生成しているような気がした。音楽はどんなものでも多かれ少なかれシュルレアリスティックな存在だというのが小生の持論だが、これは意識的に優れてシュルレアリスティックな音楽になっていたように思われた。歌い手の衣裳は今回は正装だったが、もっと演劇的な見せ方を追求するなら、派手な襤褸ファッションをまとっても面白そうだ。このコンサートを聴きにくる客はさすがに現代音楽になじんだ人たちばかりのようで、この尖鋭的な曲を嘘のない拍手とブラボーで迎えていた。
(池田康)
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2016年12月08日

19号編集完了

乾燥してますねえ。新聞紙も台所のふきんもカサカサパサパサになっている。こんなふうに乾燥を感じたのは初めてだ。今日はある会に参加するために外出したが、遠くの山々がよく見えた。空気が澄んでいるのだろう。
「洪水」19号は編集が完了し印刷所に入れた。遅れに遅れた原稿が三本ほどあったが、なんとかなり、結果的には早めに仕上がった。執筆の皆様ご協力ありがとうございました。
今回の特集は「日本の音楽の古里」で、邦楽、伝統音楽を考える。果たしてまとまるのだろうかと不安を抱きながら作っていたが、分量的にも50ページ近い重厚さで、なかなか面白いものになったのではないかとおもう。
(池田康)
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2016年11月29日

新実徳英の合唱世界

昨日、「合唱音楽の夕べVol.4“新実徳英の合唱世界”〜愛と祈りのかたち〜」を第一生命ホールで聴いた。演奏は樹の会(指揮=藤井宏樹、ピアノ=浅井道子)。
まず「やさしい魚」(詩=川崎洋)では合唱団の声の響きを満喫する。ステージ上には、百名を超えていただろうか、オーケストラ二つ分くらいの団員が立ってうたったのだが、この大人数でも整然と麗しい歌声を作り上げるのに、当然のことなのかもしれないが、感嘆した。よく鳴る、いい楽器が、明朗な音楽をうたうのは楽しい。
次に「三つの愛の歌」。その1は柿本人麻呂の長歌による「寄り寝し妹を」、独特の幽玄の〈陰〉の曲調で、創造のユニークな新しさという点ではこの夜のプログラムで最も刺戟的だった。以前ある新作歌曲の会でやはり万葉集をテキストにした曲を聴いたことがありそれも繊細な音の波立ちがあって良かった。いつか新実版万葉集シリーズをまとめて聴く機会があるといいと願っている。さてその2は「Thy mouth like the best wine」(旧約聖書「雅歌」より)。聖書の中の詩句ながら「濃密な愛の空間」と解説されている。その3は「Suavies cantus」。キーツの、「聞こえる音楽は美しい。だが、聞こえない音楽はもっと美しい」と語る、魂へ届く歌たろうとする詩。新実さんが大事にしている詩篇で、メシアンの初期の音楽を想わせるような単純な作りの音楽が崇高さをもって静かに立ち上がった。この三作をひとまとめにするというのはよくわからないのだが、ステージ上の解説によると、組曲というわけではないようで、一冊の楽譜にたまたまこの三作が集ったということか、小説の短編集のようなものだろうか。
コンサート後半は、和合亮一さんの詩による、5年前の大震災をふまえた作品「黙礼スル」。これは第1番「畏れる」「祈る」、第2番「闇夜」「決意」「青空に」から成る。ステージを埋めたとんでもない数の歌い手たちによる大合唱はさながら大壁画を創り上げるようだった。リズムの創出の面白いもの、譜割りのひっかかりを感じさせるものなど、変化も様々あり、大変ドラマチック。新実さんの作曲家としての特長は、過不足なく〈完璧〉を作り上げるという点に見ていいかもしれない。表現者は往々にして力こぶを入れるあまり「過」に傾きがちなのだが、新実さんはあるべき形を絶妙なバランスで構築していく。よく見えていて、手を変に動かしすぎない。従って作品が揺ぎないものになる。このような大作ではその特長がよりはっきりと表れるように見えた。立派に出来すぎていて、震災の歌だから、「つぶてソング」よりも恐いものになっているかもしれない。福島の人たちはこの曲をどう聴くだろうか。
「黙礼する」とは、おそらく「黙祷する」の意も込められているのだろう。青空に、小石に、波頭に、くるみの木の切られた跡に……世界の全てに黙礼する、つまり祈りを捧げるということを、ふだん我々はやらない。日常生活では身の回りのものはただ自然にそこにあるだけ。が、それら世界のすべてのものに祈りの「黙礼」をすること、その行者の意識によって日常空間はある種の非日常なものになるのだろう。そういう〈観のマジック〉を秘めた歌ということができる。
和合さんも福島から出てきていて、ステージ上からの挨拶を聴くことができた。
(池田康)
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2016年11月26日

やわらかい歌声

一週間ほどノラ・ジョーンズの新譜『DAY BREAKS』をCDプレーヤーに入れっぱなしで繰り返し聴いていた。最初の曲のイントロから引き入れられ、どの曲も耳をつかまえる。最後の「アフリカの花」(D.エリントン作)も非常にミステリアスなかんじの個性的な曲。ボーナストラックの「Don't Know Why」(ライヴ版)はデビューアルバムに入っていた彼女の代表曲だが、ここでの歌唱はオリジナル以上にはりつめた緊張感、力感があり、微細な表情にみちている。成熟。
そんなノラ・ジョーンズのCDを押し出して、昨日プレーヤーに収まったのが、香西かおりの出たばかりのライヴアルバム『The Live うたびと』だ。「ミュージックマガジン」12月号(ボブ・ディラン特集)をひらくとこの歌手の記事があり、この新作が紹介されていたのだが、民謡の南部俵積み歌をうたっていると書いてあったので、「洪水」次号の特集「日本の音楽の古里」で民謡を集中的に聴いていたこともあり、興味をそそられて手にとったという次第。俵積み歌はこのあいだの伊藤多喜雄ライヴでも堪能したが、この香西かおりヴァージョンも教条的な上手を目指さない自由な歌いぶりがいい。収録されている他の曲も楽しく聴ける。“お仕事”でうたうというのではなく、うたいたいからうたうという姿勢がこの柔らかさを生み出すのだろうか、ジャズ的なバンド編成にもうながされて、型通りの制約から解放された歌声のしどけなさが生彩を放っている。好き勝手な遊びのよさ。精一杯声を張り上げて高らかに歌い上げるというのではなく、マイルドな歌声が自らの響きに酔うような、気持ちよく自然な流れで踊るような、ゆとりの中のニュアンスの豊富さが身上となっていると言えるかもしれない。バックの演奏も積極性と活気があって、ジャジーな音の躍動が楽しめる。
(池田康)
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2016年11月23日

詩素1号

1号表紙S.jpg詩誌「詩素」を創刊した(洪水企画刊、A5判72頁、500円)。誌名は、水素や酸素のような、詩の原点を求めようという趣旨。今回の参加者は、海埜今日子、北爪満喜、小島きみ子、坂多瑩子、酒見直子、沢聖子、菅井敏文、大家正志、南原充士、二条千河、野田新五、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、八重洋一郎、吉田義昭の皆さんと小生。吉田・南原・野田の三氏と小生が編集委員になっている。吉田さんは大車輪の活躍で、特別企画の「SYMPOSIUM詩を考える」のページで自ら司会して小柳玲子・長嶋南子両氏に話を聞いて座談会記事にまとめるほか、長い高階杞一論を書いている。
この「詩素」では単に作品を発表するというだけではなく「詩を読む」という位相も重視し誌面に取り入れたいという考えのもと、提出されて集った詩を作者名を伏せて参加者に読んでもらい、気に入った作品を一つ二つ挙げていただき、票が多く集った詩を巻頭に出した。つまり参加者全員で編集をしたということになるだろうか。ちなみに巻頭は酒見直子「夕日かけごはん」、北爪満喜「葉の影 四つ葉」、沢聖子「暗」の三作。アンケート回答も掲載している。ほかにエッセイ(八重・南川)、作者ショートインタビュー(高岡修『胎児』、日原正彦『163のかけら』)、書評(小島・大家・南原)など。次号は来年5月に出す予定。
(池田康)
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2016年11月21日

大阪一泊二日

一昨日から昨日にかけて大阪に行っていた。平野晴子さんの詩集『黎明のバケツ』(洪水企画)が第18回小野十三郎賞特別賞を受賞し、その授賞式が19日午後に開かれたため(中之島フェスティバルタワーにて)。本賞は森水陽一詩集『九月十九日』。選考委員は金時鐘、倉橋健一、小池昌代、坪内稔典の四氏。授賞式の後この方々の座談会が行われたのだが、詩歌にテーマは必要か不要か、詩は言語芸術として最高最強か等の問題についての金・坪内両氏の意見の相違が刺戟的で、はらはらしながら聴いていた。倉橋氏は小野十三郎の詩と詩論が形成される歴史的経緯を語り、小池氏は小野詩を裏打ちする〈量〉的なことについて考えを述べた。坪内氏は『黎明のバケツ』の「秋の日の縁側で」を高く評価しこの一篇だけで受賞に値すると選評で書いていて判断の潔さに頭が下がった。金時鐘氏は伝説的存在のような感じがしていて、目の前に生きた金氏がいることが驚きだった。
ホテルがとれなかったのでサウナで一泊。
20日の午後には関西詩人協会の大会が大阪リバーサイドホテルであり、山田兼士さん(この秋洪水企画から詩集『月光の背中』刊行)が講演をするというので聴きに行った。題は「谷川俊太郎の世界・その作品をめぐって」。谷川氏の詩の技巧について少し語った後、しかし完全に無技巧と思われる、心から出てきたそのままの詩がおそらく三篇あるとして「かなしみ」(『二十億光年の孤独』)、「芝生」(『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』)、「さようなら」(『はだか』)が挙げられた。なるほど。谷川さんの仕事には通称〈思潮社系〉〈集英社系〉〈理論社系〉と言われる3つの詩のタイプがあることも論じられ、こちらもなるほどだ。第四詩集『絵本』はまさしく絵本のように大きな判の私家版で谷川さんが自ら撮った写真(手の形)に詩を合わせたもので、今はもう入手不可能という。その写真がなければ詩テキストだけ読んでも不十分というわけで、山田さんのプロデュースで澪標から判型を小さくして復刻されたということだ。実は山田さんはこの前日が娘さんの結婚式という大変な日程だったのだが、彼女は大学の卒業論文で山田兼士教授の指導のもと谷川俊太郎『みみをすます』論に挑戦したのだそうで、親子ともども因縁は非常に深いようだ。
この日の午前はテアトル梅田で映画「この世界の片隅に」を観た。満席。泣かせる映画。
(池田康)
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2016年11月09日

予断

米国大統領選挙の結果が出たようだ。予断を許さない、という言葉の真実を思い知らされる。予断、思い込みを裏切る展開はどんなときにもありうる。歴史はときに奇妙な賽子の目を発明するらしい。賽子がとまったとき、なかったはずの瞼があき、知らない異国の色の瞳が現れ、未知の言葉を語るのだ。
(池田康)
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2016年10月31日

福島泰樹第29歌集『哀悼』

昨夕は福島泰樹さんの第29歌集『哀悼』(皓星社)出版記念の短歌絶叫コンサートを吉祥寺の曼荼羅で聴いた。通常のレパートリーに加えこの歌集の内容を題材にした曲も演奏された。歌集から何首か引用する。

 (諏訪優に)
 諏訪さんが描いてくれたプロペラ機わが上空を飛びて幾夜さ
 透き通りひかりのように屈折しコップの中を過ぎた嵐か
 蓮の葉に胡瓜をきざみ酒を注ぎ灯をともしけり帰りこよ君
 (長澤延子に)
 みつめすぎてしまった罰か鏡割れこの自意識のつらい葛藤
 青酸のカリ活用 と笑いしは戯れならず死んでゆくため
 淋しくてならねば襤褸切かきあつめランルの旗はひとり顫える
 肉体の奴隷とならぬそのために自らを裂くペーパーナイフ
 わたくしの胎児は去りて薔薇色の雨に打たれているのであろう
 わたくしの内なる胎児かなしめば森に遠いピストルの音
 (黒田和美に)
 気に入らぬ雨に傘などさすものかびしょ濡れをゆくむね張ってゆく
 一糸纏わぬ冬の裸木の了見を忘れず生きてゆくよしばらく
 遠い夜のあなたの家の団欒の グランドピアノ黒鍵ばかり
 ガツン詩歌を叩き続けよ冥界で会うとき俺に寄り添ってくれ

ピアノは永畑雅人、ドラムは石塚俊明。石塚氏のドラムは21日の石橋幸コンサートで聴いたばかりだったが、この日は至近距離だったので音がすさまじかった。「つんざく」という言葉そのもので、刃のような鋭い音が乱舞する、それでいて音楽的思考も感じられる特上のドラムであった。福島さんの声も冴えていた。こういう重い真摯な抒情をかくも直截にステージにのせようとする演劇人やウタビトは他にいないだろう。
この日は昼に町田のまほろ座で民謡歌手・伊藤多喜雄のライブを、洪水次号の特集「日本の音楽の古里」の参考のために聴いており、ライブハウス特有の陶酔感にしびれた一日だった。曼荼羅の方は客が大入りに入りすぎたため空気の悪さがちょっと辛かったが。
(池田康)
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2016年10月25日

西岡光秋さん

昨夕は上野の東京文化会館小ホールでひらかれた「新作歌曲の夕べ2016」を聴いた。吉田義昭さんのご案内にて。吉田さんの詩による「花水木の手紙」を含めて23曲が演奏された。「落葉松」など古い曲もあったが大方は新作ということだろうか。前衛的な大胆さではっとさせられる曲、芝居気にみちた曲、シンプルな抒情に徹した曲、といったふうにいろいろ方向性に変化があって楽しめた。
「無花果」は西岡光秋氏の遺作と書いてあり、今年8月に急逝された由が記されていて、まったく知らなかったので驚いた。洪水誌に詩作品をご寄稿いただいたこともあった。哀悼の意をこめて「無花果」の一部を書き写しておきたいと思う。

 父は遠い雲になった
 町から遥かな山里で
 父は形のない魂になった
 住みなれた小さなわが家のうえから
 ふんわり覆う霞となった


 父よ覚えていますか

 可愛川の流れに近い裏庭に
 あなたが植えた小さないちじく
 いつの間にかぼくの太股ほどの太さになり
 緑の果実をいっぱいくっつけ
 あなたを喜ばせた
 明るかったあの季節のことを
 (後略)

(池田康)
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2016年10月22日

スラブ的哀愁をうたう

昨夕は新宿・紀伊國屋ホールで石橋幸コンサート「僕の呼ぶ声」を聴く。山本萠さんのご案内にて。ロシアの歌を専門にうたう歌手。スラブの哀愁が深いナンバーの数々。第一部「孤独」は芝居仕立てで9曲が切れ目なしに演奏された。第二部は伴奏のメンバーの意見も取り入れての選曲で、ヴァラエティがあった。力強く、艶を帯び、的確に形を描き出す、表現力のある歌声。コンサートのサブタイトルにも「ロシア・アウトカーストの唄たち」とあるが、ここまで重い悲哀を引き寄せ集めるのはどうしたことだろうか。虚無の小塊を裡にもつ人ともたない人の二種類あるとすれば、この歌手は前者なのかもしれない(と我が空想は勝手に走り出す)、そしておそらくその虚無はドーナツ型をしていて、その空洞ドーナツのなかで悲歌は堂々巡りをしているのではなかろうか……これはあくまで妄想。しかしプログラム最後の数曲は明るく楽しい雰囲気もあった。
音響がとてもよかった。ホールの設備が優れているのか、今回の音響バランス調節が絶妙だったのかはわからないが、ヴォーカルの音声も割れたり歪んだりせず、バックの各楽器も一音一音繊細に聞こえ、とても気持ちがよかった。ホールがほどよく狭いこともあるだろうが、PAを使ったコンサートでここまで理想的な音の響きになっていることはめったにない。バックの演奏がスリリングで一番楽しめたのは「ロシア平原」。メンバーは河崎純(コントラバス)、後藤ミホコ(アコーディオン)、小沢アキ(ギター)、石塚俊明(ドラム)。あれ、河崎さん、いたんだ。挨拶しておけばよかった。なんて今頃言っている迂闊さ、救いがたい。
(池田康)
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