2021年09月10日

新聞の記事のこと など

宇佐美孝二著『黒部節子という詩人』(詩人の遠征シリーズ11巻)が、8月23日の中日新聞夕刊〈中部の文芸/詩〉と、8月30日の同紙夕刊〈中部の文芸/小説・評論〉にて紹介、論評された。
また、秋元貞雄作品集『落日の罪』が6月24日山梨日日新聞にて紹介された。ぜひご覧下さい。
さらに。神泉薫著『十三人の詩徒』(七月堂)が刊行されたが、これはかつて「洪水」誌に連載された詩人論に2篇を加えて一冊としたもの。こちらもご注目下さい。
(池田康)
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2021年09月08日

支配される恐怖

ようやく夏も終焉、ひぐらしと入れ替わり秋茜が飛ぶようになった。
今年も内外に騒擾が少なくない。ミャンマーのクーデターが世界中に憂慮の声を沸き上がらせたのは2月だったが、この8月から9月にかけてアフガニスタンで米軍撤退とともに軍事力による政権交代が起こって、蜂の巣を突くような騒ぎになっている。
これらの動きをどう受け止めたらよいのか、正直なところ、受け止めようがない、狂った現実として傍観するほかないのだろうが、なにがどうであれ、まず基本的な指標は、国民の承認を得ているか、だろう。どんなに奇妙な政治形態でもその国の人々がよしとしているのであれば外からとやかく言っても仕方がない。しかしデモ隊を兵士が火器で制圧したり、メディアを理不尽に抑え込もうとしたり、国外へ逃れようとする人が数多くいるという事実があるなら、国民の承認を十分に獲得しているとは言い難い。そもそも武力によって政権を奪取するというやり方は(20世紀を終えた人類の歴史物差しで言えば)百年前二百年前の国盗り物語の作法であり、そんな時代の支配者層の政治感覚は、民草は上手に支配すればよいという考え方であろうから、承認を得るという必要性は感覚できないのではないか。たまたま国政の手綱を握った者が真の統治者になるためには、国土の生命から、そして世界の理性からのフィードバックは必要であるはずだ……制御工学で言うところのフィードバックの機能は、機械が安定して作動するために重要な要素であり、フィードバックを軽視、除去するならば、システムは暴走して地獄の沙汰へと赴いても不思議ではない。
「みらいらん」次号では「恐怖」をテーマにした特集を考えているが、「支配される恐怖」は、われわれが経験する恐怖の無数の可能性のうちでももっとも深刻なものだろう。
(池田康)
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2021年09月01日

高橋馨詩集『それゆく日々よ』

それゆく日々よ002.jpg高橋馨詩集『それゆく日々よ』が洪水企画より刊行された。A5判並製、88ページ、定価税込1980円。この本は春から編集を開始していて夏に入る前にすでに仕上がっていたのだが、予定していた発行日(9月8日)に合わせて印刷しようと、一ヵ月ほど寝かせていたのだ。そうやって思考の連続が途切れると、どの紙をどう使って一冊を構成するかという思い描いていたバランスの感覚を忘れかけてしまい、再開するときに少々慌てたが、完成してみると割合うまくいっており、ほっとした次第。
1938年生まれの著者はすでに傘寿を越えており、老年の日々に浮かぶ切実な(ときにとりとめのない)詩想を書きとめた26篇が集められている。帯文には、
「招かざる客のあてどなき彷徨
詩を重いものにしない精神の軽やかさ、ささやかなことを面白がる好奇心。ユーモアと諦念の混ざり合う老境の心象は日常的で彼岸的な絵をえがく。生まれてくる奇妙にこんぐらがった描線を真の自画像として読み解く鍵をさがしながら。エッセイ「映画〈異端の鳥〉と戦後少年」が付される。」
とある。自らの存在を「招かざる客」と見定めているところに、感じておられる刻々の危うさ、世界との関係の覚束なさが表出されている。
装丁(装画も含め)は高橋さん自身の手によるもので、シンプルに美しくまとまっているように見えるが、相当な試行錯誤を経ている。本文中には詩と連繋する形で著者撮影の写真が数葉はさみ込まれていて、この詩集の特色になっている。
帯の裏側には作品「アブストラクトな散歩」の末尾の部分が引用されているが、その同じ部分をもう少し前から長めに引用紹介しよう。

 川の名は知らない
 橋の名も知らない
 ひっきりなしに行き交う
 産廃ダンプやライトバンや乗り合いバス
 国道の名も知らない。
 川沿いの散歩道
 ときどき足を止めて川面を眺めている
 この男は何者
 澄んでいるとはいえない川を遡って
 どこまでやってきたのか
 どこにも通りの名は見あたらない
 無名の街に
 無名のものであふれかえっている。
 八一の男は相変わらず
 水藻の揺らぐ川底を眺めている
 どこまで来たのか
 迷っているのかも知れない。
 亀のような塊を胸に抱え
 鴨の詠嘆の響きはなく
 まして鯉は
 遠くで尾びれが 微かに揺れている。
 しかし、なぜ
 流れはいつも一方通行なのか
 明日は逆に流れないのか
 呼気と吸気が
 いつもセットなのに。
 亀も水鳥も鯉も
 生きとし生けるものは
 流れに逆らって生きている
 力尽きたものだけが
 女の髪のような水草から
 しがみつく手を離して
 悲鳴もあげずに流れていく
 男は知らずにため息をつき
 何時までも
 川面を見つめている
 もうそろそろ
 巣穴に引き返す コロあいかナ
 ひろった石を
 ぽとんと投げてみる
 ピリオドのように。

(池田康)
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2021年08月28日

訃報・新倉俊一さん

新倉俊一さんが8月23日に逝去された由、八木幹夫さんが知らせて下さった。享年91。(新倉家への電話はしばらくの間おひかえ下さいとのこと)
7月に弊社で詩集『ビザンチュームへの旅』を作ったばかりだったので、驚き、茫然とした。詩集が完成したとき電話でお話ししたのだが、お元気そうで、とても喜んでおられたのが思い出される。詩集制作の打合せのとき、自分の最後の詩集だからということを言われて、どういう気持ちでそんなことをおっしゃるのだろう、半分は冗談なのだろうかといぶかしんだのだったが、結果的にその通りになった。清らかな詩の奥津城をご自身で用意して逝かれた、みごとと言うほかない。コロナウイルス感染症の社会事情で直接お会いすることが叶わなかったのが残念だ。
6篇を集めた組詩「ヘレニカ」から「ニケ」を引用紹介する。

  ニケ

 鴎は風に翼を任せて
 自由に空を翔けていく
 もし風が私の運命なら
 風の力が駆るままに
 水半球を自在に私も
 駆け巡るだろう
 私は風の器または竪琴
 たとえば天界に昇る
 ベアトリーチェのように
 体と離れた霊を知らない
 風が好むところに吹く
 ように私の霊もまた
 気ままに私の体を駆って
 四海を支配する
 自然はいつも豊かな
 神の祭壇であり私は
 その自由な巫女だ
 私には過去と未来はない
 つねに生気に満ちた
 現在があるだけだ
 今日も風は私を駆って
 新たな海と立ち向かう


(池田康)
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2021年08月23日

訃報・蝦名泰洋さん

歌人の蝦名泰洋さんが7月26日逝去されたとのこと、兄妹のように親しかった野樹かずみさんから知らされた。昨年後半から病気に苦しんでおられたのは知っていたが、これは早すぎる、と恨み言をいいたい気分だ。
「洪水」の時代には毎号批評文を書いていただき、とてもお世話になった。鏤骨の走り書き、とでもいうべき独特の文章で、携帯電話を使って苦心惨憺書いておられたようだ。時々一緒に食事をして近況を聞いたり、それなりの友達付き合いも許してくれたのだが、一番の思い出は競馬だろうか。彼はそうとう好きだったようで、G1レースの感想などメールで交換したりもしていたが、一度だけ一緒に馬券を買ったことがある。2015年5月3日、この日は天皇賞があり、私はすみだトリフォニーホールでのコンサートを聴きに行く予定があったので、開演前の時間に錦糸町駅の近くで落ち合って、馬券売場(ウイング)で購入したのだ。私はゴールドシップの単勝を買って当たり、蝦名さんはキズナに賭けて負けていたことを思い出す。主に三連単を買うバクチの人で、当たることは少なかったのではなかったか。
今年1月に出した「みらいらん」7号に巻頭の短歌作品を依頼していたのだが、結局、病気で苦しくて書けないという返事だった。すでにそうとう進行していたのだろう。したがって小誌に最後に寄稿していただいたのが、5号の小特集・童心の王国のためのエッセイ「僧ベルナール ─季語の誕生」で、以下にそれを部分的に引用紹介する。

 * * * * *

  古池や蛙飛び込む水の音

松尾芭蕉の有名な俳句ですが、あまりいい句ではないのにどうして有名なのかなとずっと思っていました。
同じように考える人が少なくないらしく、いろいろな人がいろいろの解釈をしてきたようです。何か深い意味があり何か謎めいた意図が想像され、それがわかれば句の魅力が理解できるというような何かを探して。
どんな池なのか、ほかに人はいるのか、かえるは一匹なのか二匹なのかもっとなのか。いなかったのか。かえるは一度飛び込んだのか。飛び込まなかったのか。最近の流行は、飛び込まなかったという解釈らしい。
  〈〈中略〉〉
ならばどう読めばいいのでしょう。
この句に息づいているものはなんなのか、と思うのです。芭蕉がなにを意図したのか。どんなものを大事にして書いたのか。ふだんから俳諧に求めていたもの、ひるがえって俳諧が詩人に求めているものはなにか。そのように考えますとフォーカスは春の季語「蛙」に合焦します。
  〈〈中略〉〉
芭蕉は、俳諧は三尺の童にさせてみたらいいと述べています。おおまかに言って素直な五感でものを感じるのがいいということでしょう。芭蕉の想いが蛙に凝縮したとき三尺の童が発動した。ベルナールのようにわたわた走り回って叫びたいんだけれども、そこは黒船来航前の日本人のこと、抑えたのです。しかももの言えば唇が寒い。この句はわびさびに通じる地味な表現になっていますが、詩人の心は逆にうれしく晴れがましさが勝っていたと想像されます。それを季語に託してみようという詩人の動作に見えます。
出光美術館に「古池や」の句が書かれた懐紙があります。ところがその懐紙にはもう一句
  永き日も囀り足らぬ雲雀哉
という作品も並べて書かれています。古池の句よりわかりやすく直接的に春の喜びが表現されており、二句を並べたところに芭蕉の意図が見えるようです。どちらも十中八九フィクションでしょう。しかし、とうとう春が到来したといううれしさは写実的に表現されていると感じます。死生観は考えなくてもいいんじゃないかな。
芭蕉たちは、季語が大切なんだと想いつづけたのだろうと思います。季語の背後には巨大な季節が控えている、そのことを忘れないでいようと想いつづけたのではないでしょうか。俳諧からの詩人への期待もまたそうだと私は考えます。
季語は歳時記に載っているだけでは季語として十分だと言えません。季語はある言葉が俳句作品の中で季語として生まれ変わったときにはじめて季語と呼ばれるべきです。季語の誕生日と該当の俳句の誕生日は、一致します。
あまり良い句ではない、いいではないですか、蛙という季語が生まれ芭蕉の童心に春が来たのですから。

 * * * * *

5号のこの小特集を編集していた当時は、この原稿をもらって、何が言いたい文章なのだろうと首をひねった覚えがあるが、今読み返すと、少しわかる気もする。
詩歌人の玄人式の良し悪し判定の批評眼とは違う種類の、作品の重量(生きる風景の中の山となり川となるような重さ)をなさしめる軸があるのであり、その軸の一方の端は童子の感性が輝き、他方の端は言葉の営みが織り上げる人間の歴史=文化=季の世界の生成に向うのもであり、「芭蕉の童心に春が来た」とはある刹那この軸を握ることを得た詩人の「真実」なのだろう。この文章を書いた蝦名さんは晴れ晴れとしているように感じられる。
(池田康)
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2021年08月19日

二条千河詩集『亡骸のクロニクル』と美術展

二条千河詩集『亡骸のクロニクル』(洪水企画)の中の三篇「ユートピアン」「Universe」「服喪」が札幌の美術展で朗読されることになった。
8月27日〜9月5日まで札幌市民交流プラザで開催される美術家・演出家の高嶺格さんの展覧会「歓迎されざる者〜北海道バージョン」にて。
詳細は下記リンクからご覧いただきたい。
http://nijogawara.squares.net/2021/08/17/post-930/

(池田康)
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2021年08月11日

暑中御見舞い

昨日は猛暑の頂点だったかのごときで、外へ出ると陽の光で目が焼けてしまうように感じた。今日も同様に暑い。夏に昼寝をしたくなるのは、まばゆい光はもうたくさんと目が思うからなのではないか。酒の飲み過ぎはよくないように、光の摂り過ぎも危険だ。
コロナウイルスの猛威が衰えないとのこと、こんなに暑いのに、勤勉というほかない。勤勉さにおいて人間の側の(甘い部分のある)努力を越えているのだろう。なにせ人間は遊び好きだから。
いま、弊社史上最大となる見込みの本の編集制作に取り組んでいて、慎重にやらないと間違いが発生しそうで、しかも迅速に進めないと予定期日に間に合わず、こちらも日々ひたすら勤勉になる以外にない。この夏はこの本に捧げられることになりそうだ。ほかの用事は棚に上げて。
夏の暑さを忘れるのには、いい「夏休みの宿題」かもしれない。湧き来る汗がどうしても忘れさせてくれないけれど。
(池田康)
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2021年08月02日

夏から来た少年

DSCF2439.JPG夏も7月はまだ浅瀬、8月になるとdeep summerという気がする。猛暑の中、人間の方はかつがつなんとか持ちこたえているが、機械類がおかしくなってきていて、風呂釜がダウンし、冷蔵庫が霜ばかりこしらえ、置き時計が遅れ(その前まで少し進んでいたので丁度よくなった?)、といった具合にわずかなぎくしゃくが日常を揺らしている。
さて、カレンダーをめくり忘れることはよくあるが、昨日もめくるのを忘れていて、今朝めくったら、暗さの魅力的な少年が現われた(写真)。これは山本萠さん制作のカレンダーで、山本さんがときどき描く人の顔はどれも惹かれるものがあるが、これもそうで、思わず見つめてしまう静寂をたたえる。どうせなら朔日の昨日出会いたかったと、めくり忘れたことを残念に思った。
(池田康)
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2021年07月18日

7月17日東京にて

吉増剛造怪物君展002.jpg加納光於波動説展.jpg昨日の土曜日、緊急事態宣言中のことで恐縮しながら、いくつかの目的を果たすため、ほんとうに久しぶりに上京した。吉増剛造、加納光於両氏の個展を観て、コンサートを聴く、というハードなスケジュール。
東麻布のTAKE NINAGAWA(港区東麻布2-12-4信栄ビル1F、03-5571-5844)での吉増剛造展「怪物君」を見る。この日が初日(8月28日まで)。ちゃんと数えなかったので確かではないが、20ほどの作品が並んでいただろうか。細かい文字がびっしりと書き連ねられている紙に妖しく彩色するという画面構成で、色合いがそれぞれ違っていて、全体で見ると百花繚乱的なはなやかさになっているのだが、しかし「怪物君」であるから、東日本大震災をうけての深い瞑想から呪術的雰囲気を帯びることになる。画面に貝殻やら親しい人から来た葉書やらが塗り込められているのもその時々の念を強く刻み込んでいるように感じられる。展示されている作品は販売されるとのこと。駅からこのギャラリーへの道のりはわかりやすくはないので事前の調べがあるほうがいい。地下鉄の赤羽橋駅の中之橋口を出たら右に曲がりずっと歩いていくと2つガソリンスタンドがあるので、その2つめのところで右に曲がり5分ほど歩けば左手に見つかるはず。
地下鉄を乗り継いで京橋に回り、ギャルリー東京ユマニテ(中央区京橋3-5-3京栄ビル1F)で加納光於展「波動説」を見る。この日が最終日。「インタリオをめぐって」という副題がついているが、インタリオとは凹版印刷、沈み彫りのこと。「加納光於の代表作《「波動説」―intaglioをめぐって》シリーズを、1985年の発表以来、36年振りに全34点を展示いたします」と案内のはがきにある。そしてカタログに「変幻綾なす色彩の生成が、/光の、真っさらな化身であるのなら、/誰のものでもあり/そして誰のものでもない。」という加納さんの直筆のことばが載っている。波動説とはどういう概念なのか……世界のあらゆるものはすべて波動により生成顕現してくるという考えだろうか。吉増作品のような文学的呪術性はないが、こうしてシリーズ全34点の真ん中に立ってみると無言の呪術的思念が感じられるような気もする。殆どの作品に値段がついていたがいくつかは非売品となっていて、なぜかとギャラリーの御主人に訊くと、それらはもう一点しか残っておらず、欠けるとシリーズの全体性が損なわれるからだとのこと。やはり全34点で《聖域》を作ることが大事なのだ。
加納さんにも吉増さんにも会えず。
午後、上野の東京文化会館小ホールで「吉岡孝悦作曲個展」コンサートを聴く。生野毅さんの詩をもちいた合唱曲「混声合唱と4人の打楽器奏者のためのコスモフラワー」が演奏されるとの知らせを生野さんから受けて。前半は器楽曲3曲。さまざまな打楽器が活躍する。後半は上述の合唱曲ふくめ2曲。パーカッショニスト吉岡孝悦氏の作曲による作品でコンサート全体が構成されているが、プロフェッショナルであり、デューク・エリントンのような展開の巧さも感じられる部分があり、演奏家として演奏の実際を知悉しているから理にかなった音の動きや絡み合いになっていると思われる。とはいえ、打楽器の超絶技巧が炸裂する箇所はただ息をつめて対峙するばかりだ。個人的には、ティンパニの音を聴くことができたのが嬉しかった。和太鼓もそうだろうが、太鼓はそれが鳴るだけで勇壮、爽快な気分になる。鬱々とした日常の意識を叩き割ってくれそうな気の力がある。前半の「マリンバとティンパニと4人の打楽器奏者のための協奏曲」と合唱曲「コスモフラワー」でそれが聴けた。合唱演奏の伴奏にティンパニが入るのはすばらしいことで、合唱曲の次元が広がる思いがする。ふつう合唱はピアノ伴奏が一般的だが、ピアノだと近代音楽の枠内にすっぽりはまり込んでしまう嫌いがなきにしもあらずだが、ティンパニは音程をもっているとはいえ、撥と皮が衝突する荒々しい衝撃音が《外》のノイズを呼び込み、合唱を宇宙的な広がりへとつなげる。ティンパニ伴奏の声楽曲としては伊福部昭の「アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌」が思い出されるが、あれも無辺の音響空間を生み出す曲だった。この「コスモフラワー」の最後は、ティンパニに加え大太鼓にも直撃され、おおいに溜飲が下がった。
生野さんの詩だが、宇宙の花「コスモフラワー」をめぐる神話のような内容となっており、すべて平仮名の、平明な言葉遣いで書かれているが、本人に訊いたら、作曲者とのやりとりの中で相当苦労して書いたとのこと。最終楽章の「第五部 華」から前半を引用しよう。

 このよのはては おはなばたけ
 だれもみたことがない いったことがない
 こころのはては おはなばたけ
 みんなのひとみのおく ひろがるけしき
 このよのはては おはなばたけ
 だれもみたことがない いったことがない
 こころのはては おはなばたけ
 みんなのひとみのおく ひろがるけしき

 このよのはてと こころのはてと
 そんなにとおく はなれているのだろうか
 それとも おなじおはなばたけだろうか

 たびびとよ はなをうえなさい
 まっくらな さむい こごえるうちゅうに
 はじめてのはなを うえるのです
  (後略)

合唱団員はなんとマスクをしてうたっていたが、予想以上に聴き取れた。
(池田康)
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2021年07月16日

とても奇妙な味の……

とても奇妙な味の、ふざけちらすような賑やかさに満ちたトマス・ピンチョンの小説『ブリーディング・エッジ』(新潮社、佐藤良明+栩木玲子訳。帯に「膨大なトリビア」「怪しげな陰謀論」とあるとおりの物語)とつき合い、とても奇妙な味の、うきうきと痛痒とがくんずほぐれつするドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」を見守り、とても奇妙な味の、詩の課題の本丸を急襲するかのような野村喜和夫詩集『妖精DIZZY』(思潮社。函入りの二冊になっていて、一冊は詩のテキスト、もう一冊はそのテキストを使った、山本浩貴+hによる過激なレイアウトデザインの試みとなっている)をおずおずと目撃し……といったかんじで過ごしたこの晩春から初夏にかけての日々だったが、最近はなんの気まぐれからか、ビートルズ・チクルス、ビートルズのアルバムをすべて(すべて持っているかどうか確信がないが)通して聴くという遊びごとをしていた。彼らの曲にもとても奇妙な味のものが多く、さまざまに刺戟を受けるなかで、今回もっとも深いいやな引っかき傷のようなものを残していったのが「NOWHERE MAN」だった。定見を持たず、なにかやっているのだと思い込み、方向感覚を失った人間、それがあなたであり私であるとうたわれる。これが妙に痛く響いてくる。
平凡な日々を送る、平凡な生活にかけがえのない幸せを認める、そのこと自体になんら悪い点はない。しかしその〈平凡〉も時代が用意し規定したものであり時代の好むお手軽さ浅薄さを免れないとしたら、どうだろうか。平凡というNOWHEREは、迷子であることに目をつぶり隠蔽するための平凡だとしたら、やはりいくぶんか堕落の面を具えているのではないだろうか。(失礼、この解釈はこの曲の本来言いたいことと外れるかもしれない)
だからこそ、その〈平凡〉の不可視のバリアを破る〈奇妙〉の槍がときに求められるのであり、そんな狂おしい切先に出会いたいと、根っから平凡な我々はつねに心の底で願っているのだ、たぶん。
(池田康)
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