2018年10月20日

みらいらん3号の“対話の宴”

「みらいらん」次号の“対話の宴”の対談イベントが下記のように決定いたしました。今回はゲストに有働薫さんを迎え、外国詩とくにフランスの詩を取り上げます。是非ふるってご参加下さい。

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洪水企画&エルスール財団共同企画トークイベント

野村喜和夫の詩歌道行@
 野村喜和夫 × 有働薫

『現代フランス詩の地図を求めて』

舶来の詩はいかつい黒船か、いとしい渡り鳥か。今年ジャン=ミシェル・モルポワ『イギリス風の朝』(思潮社)を翻訳刊行した有働薫さんを迎えて、フランス詩の受容の現在を考え、詩の翻訳の意義や醍醐味についても語り合います。

日時:2018年11月17日(土曜日) 15:30〜17:30 (15時開場)
場所:ブックカフェ「エル・スール」(詩とダンスのミュージアム内。世田谷区羽根木1-5-10)
入場料:2500円(+1drink order)
申し込み方法:メールまたは電話で。
エルスール財団
03-3325-5668
info@elsurfoundation.com

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会場への地図はこちらのリンクでご確認下さい:

(池田康)
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2018年10月18日

嶋岡晨詩集『アメンボーの唄』

amenbo2.jpg嶋岡晨さんの新しい詩集『アメンボーの唄』が完成した。洪水企画刊、A5判88頁、1800円+税。この一年以内に書かれた32篇を収録、筆力の旺盛さ、頭脳の矍鑠さは驚くばかり。「みらいらん」に連載している「びっくり動物誌」のように動物を素材にした作品が多く、虚実を往還して変幻自在で、世界のあらゆる場所・あらゆる角度からの抒情が交錯する。帯の紹介文では「けなげな有象無象たちが哀切に私語=詩語する幻妖な世界寓話のパノラマ」と紹介している。風変わりにシンプルな装丁は嶋岡さん自身が設計した文字組みをそのまま活かして作ったもの。タイトル作は水面で生活するアメンボーに仮託しての独言の詩だが、ここでは動物詩ではなくかなりストレートな「ある領域」という作品を引用紹介したい。

 その世界では
 死んだ者は一人もいない
 祖父は磯釣りに行ったまま
 祖母は竃の前にしゃがんだまま
 母は息子のため毛糸を編みつづけ
 父は巡邏に出かけたまま
 従妹は片手もげた人形をおぶったまま

 帰らない叔母を待ちつづけ

 七十五年経つが
 死んだ者からの近況報告がない
 小型の旧いロボットのように
 倒れたとたんみなすぐ起き上がる
                らしい

 おれ自身 倒れるとすばやく立ち
 魂を そっと 他人のものと
              入れ替える。

(池田康)
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2018年10月09日

珍しくて懐かしい

itotonbo.jpg糸とんぼを見る。最近、自宅近くや駅周辺で糸とんぼを何度かみた。人によってはそんなのは珍しくないと言うかもしれないが、私にとっては子供のころ見て以来数十年ぶりだ。その繊細な姿は昆虫造型の粋。写真をご覧下さい。
モーツァルトを聴く。正直モーツァルトなんて珍しくも何ともないけれど、初めて聴く曲となると別だ。昨夜、NHKFMで或るコンサートの録音を流していて、アカデミッシェ・アンサンブルという室内オーケストラが交響曲第33番K319(初めて聴く、と思った)を演奏するのを聴き、正確な音の動きの中に生ずる溌剌とした喜悦にああモーツァルトだなあと無心に傾聴した。指揮はシュテファン・ドールというホルン奏者で、この作曲家の4曲のホルン協奏曲も演目として聴くことができた。これらは昔カセットテープに入れて繰り返し聴いていた曲。懐かしく、しかしカデンツァは新鮮に聴けた。
漢詩を読む。いま、池澤夏樹著『詩のなぐさめ』『詩のきらめき』(岩波書店、大胆にくつろぐという方針が気持ちのいいエッセイ)を読んでいるが、中国の昔の詩を紹介する章が意外に多く、漢詩独特の響きが懐かしい。中学校で、杜甫や李白や孟浩然なんかを学んだ経験はいまだに強烈で、腹の底であれらの詩句がまだ光を放っているように感じるのだ。さて李賀という詩人の名前はよく聞くが、今回初めて作品を読んだ(と思う)。この人の才能は「鬼才絶」と呼ばれたそうだが、奇想の走り方や修辞の鋭さが他の人と違うのだろう、古今和歌集に対する新古今と同じような、精緻の極みの趣があるか。李白がモーツァルトなら李賀はドビュッシーだろうかなどとも考えた。
漢詩に敏感になったのは、「みらいらん」次号で小特集「異国の詩歌と睦ぶ」を計画しているため。この小特集は、野村喜和夫氏がホストの小誌対談シリーズで今回有働薫さんを迎えてフランス詩を論じていただくことになっているのにちなんでの企画。そして肝心の両氏の公開対談はいまのところ11月17日(土)を予定している。
(池田康)
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2018年09月29日

秋の楽しみを見つける

秋には秋の食べ物が出てくる。果物では梨がその一つだが、この秋は豊水という種類の梨をよく食べている。幸水が直線的な味わいなのに対して豊水はふくらみをもった甘さがあるような気がする。どれだけ食べても味の芯に当たらないようなすれ違う感じがするのも梨のほのかな虚無主義のようで面白く、この果物の名前(ひっくり返して有りの実ともいう)にも相応している。
風呂。夏にはシャワーで十分という感じだったが、秋はむしろ風呂に浸かるといい。シャワーは水の音が邪魔で外の音が聞こえないのが惜しい。風呂の湯に浸かりながら秋の虫のすだきをじっと聴いているのは格別の風流なのだ。え?うちでは虫の音なんて聞こえない? それはあなたの居住地域の是非を真剣に考え直してみるほうがいい。秋風呂にコオロギ。
読書の秋、という標語はおそらく万年下位のプロ野球チームのファンが作ったのだろう。彼らは秋になると独特の悟りをひらくのであり、あらゆるそわそわを克服した明鏡止水の落ち着きで頁の上の無愛想な文字と向き合えるのだ。実際、夏には目を逸らしたくなるような重厚な本も、秋になるとなんとなく取り組めるような気がしてくるものだ。優勝チームのファンが無邪気に浮かれている間に、小難しい本を一冊読む、これが秋の最善の過ごし方だ。
(池田康)
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2018年09月20日

死してなお…

安室奈美恵が引退するとか稀勢の里が引退をまぬがれたとかいろいろ騒がしいが、この人も一種の引退だろうか。樹木希林死す。最後の最後まで映画の仕事をしていたようだ。彼女が出演した近年の作品に「歩いても 歩いても」(2008、是枝裕和監督)があるが、それと主人公とその姉(阿部寛・YOU)が同じのテレビドラマ「ゴーイング・マイ・ホーム」(2012)を最近DVDを借りて観ていた。同監督が脚本・演出を担当し、ホームドラマで父親が死に向かうという点も同じ。しかし全体の雰囲気がキャストに左右される点もあるのか、色合いはずいぶん違っており、前者が癒しがたい闇を抱えているのに対し、後者が穏やかにピースフルにまとまっているのは、母役の吉行和子のカラッとした朗らかさや妻役の山口智子の自然体の陽旋律に引っ張られているようにも思われた。「歩いても 歩いても」の樹木希林(母役)はたえず闇を分泌し、人間のダークサイドを露呈させることに巧みで、罪業を許容する懐をもち、いたって冷静な道のりで狂気に辿りつく。まことに希なる「恐いおばあさん」。女優という人たちの大多数はいつまでも美しさを磨くことに精進するのだろうが、彼女はその逆の方向に歩いていたようにも見えるのだ。まだ未公開の映画もあるようだから、死してなお引退せず、と言わなければいけないのかもしれない。
(池田康)

追記
テレビで追悼放映された映画「わが母の記」(2012、主演=役所広司・樹木希林)を観た。原田眞人監督作品にこんな逸品があったのですね。作家の主人公が子供時代に作った詩についてのエピソードもすばらしい。
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2018年09月16日

七月堂の古書店

この夏から秋にかけて、案内をいただいたいろいろな催しにまったく足を運ぶことなく、狭い範囲での暮しに終始した。鬱というほどではないが出不精が嵩じているのか、行こうかどうしようか一応迷いはするのだが前向きの結論が出ないままどんどんタイムアウトになっていく。冬眠ならぬ夏眠の状態で、あいつはどこかの山の穴の中で惰眠をむさぼっているのだと許していただきたい。
そんななか、先日仕事の打合せで七月堂(世田谷区松原)へ行ってきた。七月堂は最近本格的な古書店を事務所の隣に併設したとのことで、覗いてみると堂々たるもので、しゃれた感じの店内に面白そうな本がたくさん並んでいる。さすがに詩書が多い。同人誌もありがたい品揃えで目立つところに置いてある。代表の知念明子さんによれば明大前の駅周辺には本屋が少なくなってきているそうで、その趨勢に抗して街に出版文化の灯をともすべく思い切って店を開いたのだそうだ。なにかのついでにでも是非一度行ってみて頂きたい。京王線明大前駅から徒歩3分。
(池田康)
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2018年09月07日

自然災害所感

今日が無事の一日であったように明日も無事の一日であるという保証はどこにもない……
自然災害が多発する初秋である。台風や大雨はそれでも天気予報である程度予測がつくから備える行動も可能だが、地震はどうしようもない(今のところ)。青天の霹靂ならぬ地の闇からの霹靂、防御のしようがない。日頃から震度7が襲ってきても大丈夫なように建物から調度、小物まで頑丈に壊れないように飛散しないように目を光らせて整備しておけということなのだろうが、そんなこと到底できるわけがない。震度7で倒れない醤油の瓶があったら教えてもらいたい。そしてその揺れはどれだけ小さな確率であれいつでもどこでも起こり得るという妄想すれすれの恐怖。自分が今立っているこの地でまさに今震度7が起こりませんようにと祈ることは、日常意識ではかなりナンセンスだろうけれど、もっとも純粋で現実的な宗教意識の芽とも言える。そういう意味では地震が生み出す不安の断層は、我々も実は何万回に一発のロシアンルーレット、列島ルーレットをやっている(やらされている)のだという気づきへと導く点で、負の意義を呈するとも言える。
(池田康)
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2018年09月05日

ハバネラを毎日聴く

メゾソプラノの波多野睦美が映画の中の歌を集めたアルバム『CALLING YOU 〜追憶のスクリーン・ミュージック』をこの夏に出した。共演はギターの大萩康司とベースの角田隆太。おなじみの曲が多く収録されていたので聴いてみた。
クールだとかホットだとか歌手のパフォーマンスを褒め称えることがあるが、波多野睦美はそのどちらでもない、中庸の優美を繊細なバネの作動と眠り/覚醒の間をゆく中間色トーンの歌声の独自のスタイルでつきつめる歌手であり、最近の映画音楽でも三百年前の古典曲であるかのように気品ある姿に仕上げるその典雅さが魅力だ。しかしまた「イパネマの娘」「クライ・ミー・ア・リヴァー」「コーリング・ユー」などを聴くとジャズにも入っていけそうな隠微な雰囲気も感じる。
歌劇「カルメン」の「ハバネラ〜恋は野の鳥〜」も収録されていて、芯の静謐さを特長とするこの歌手にはミスマッチのようにも思われたが、聴いてみるととてもよく、能の清浄な空気があると言っては言葉が過ぎるだろうけど、涼しげな風が吹いているようだ。「カルメン」は色彩強烈な音楽なので聴くのは年に一回くらいで十分だと思うのだが、この「ハバネラ」なら毎日でも聴きたい。その前に置かれた「アイルランドの女」もフレージングが的確に寂寥の形を洗い出していてシンプル極まるところの美しさがある。
大萩康司のギターも超絶技巧を披露するわけではないが一つ一つの音のタッチがものを語るようで、聴き入る。
(池田康)
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2018年09月01日

世界爺

近所の図書館で多田智満子のエッセイ集『森の世界爺』(人文書院、1997)を見つけて読んでいる。植物、草や木や花についての文章を集めた本で、持ち前の端正な語り口で古典の教養と博学を駆使して出会った植物たちのことを彼らと対話するようにうっとりと物語る。この詩人は書斎にこもって幻想・夢想の内部を飛翔することに長けているような印象があったが、この本を読むとまめに世界各地に足を運んで土地土地の木たちと対面し、その実際の姿をおのが目に焼きつけるという経験を大切にしており、聖書に出てきた木を実際に見ることがかなって喜んだり、案外に生身での見聞を重視する方であることがわかった。「樹々との出会いも、人との出会いに劣らず、私にとっては重いものになっている」(「文字を指す木」)、「栗拾いとか茸狩とか、そういったたぐいの土くさい遊びは大好きなのである」(「木の実をひろう」)とも述べている。
書名にある世界爺(せかいや)とはセコイアの日本語表記で、ジャイアント・セコイアはアメリカのヨセミテ国立公園に生えている巨木で背丈は大きなものは百メートル近くにもなり、樹齢は二千年あるいは三千年に達するものもあるそうで、「この木は、ひとりでには死なない」とも断言されていて、びっくりしてしまう。ジャイアント・セコイアの生態は山火事をも計算に入れ、それを種子の拡散に利用してさえいるのだそうだ。なにがあっても動じることがなさそうなこの金剛のポエジーの人が三千歳の“世界爺”を見上げてあんぐり口をあけている様を想像するのは楽しい。
日常生活で毎日のように目にしている樹木だが、このような特例中の特例の話を聞かされると、木ってなんだろうと改めて考えさせられる。著者の考えによると、人間も動物たちと同じく森の中に入っていって死ぬのが理想のようで、「森に生まれ、森に生き、森に死ぬ野生の禽獣とちがい、人間は森を離れることで文明への道を歩んできた。永久に木から降りてしまった猿は、彼を育ててくれた樹林の限りない恵みを忘れてしまったかのようだ。/しかし私たちのふるさとである森は、今なお人間のもっとも自然な、もっとも望ましい死に場所であるように思われる」(「森に死す」)とも書かれる。草木と同化する極楽の法悦が夢見られているのだろう。庭に百花を栽培して愛しむ姉は「これが私の浄土なの」と言ったとか(「わたしの浄土」)。
その他、エジプトのパピルスや睡蓮、中近東のなつめ椰子の話、ぶらりとやってきた花咲爺さんの話、東アジアのノアの方舟であった大ひょうたんの話も興味深い。「ゆりの木の花咲く頃」でのエドガー・ポオとチューリップ・ツリー(リリオデンドロン・テュリッピフェルム、和名ゆりの木)のエピソードでは、著者の幻想への執着がやっぱり露わになって楽しかった。また「松の倖せ・不倖せ」では「明治の文明開化このかた、木はとみに短命になった」とあり、慄然とさせられる。
(池田康)
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2018年08月27日

案外平気(という強がりの一席)

夏には麦茶なんかを作って冷蔵庫に入れておくことが多いが、この夏は食料の箱の中に残っていた3年前の麦茶のパックと6年以上前の烏龍茶のパックを使って作っていた。消費期限をはるかに過ぎているけど茶葉だから大丈夫なのではないかと思い、試してみたら、なんともなかったのだった。案外平気なのだ。
平気といえば、この夏はビールを一滴も飲まななかった。アルコールをたくさん飲むと頭が痛くなる種類の人間なので、飲まなくても困ることはないけれど、夏としては珍しいことだ。100%の下戸の人にとっては当然のことだろうけど、ビールなしの夏もありですよと、飲兵衛の方々に提言したい。あり得ないと言われるか。
旅行らしい旅行もしなかった。一つ計画があったのだが、台風が来ていて出かけるのをやめた。最近、逗子の神奈川県立近代美術館に「貝の道」展を見に行ったのが唯一の遠足らしきものか。宝貝の装飾品や財貨としての古からの世界的流通にスポットを当てた企画で、台湾のパイワン族の女性用衣装はみごとだった。南洋の平たい大きな貝の貝貨もこれがお金として使われたのかと興味深い。快晴の日の逗子の海岸は賑わっていた。
(池田康)
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