2019年08月23日

伊万里のことなど

IMG_7193.JPG3日かけて九州を旅行した。長崎・伊万里・柳川。長崎の原爆関連の場所や柳川のどんこ舟川下り・白秋記念館などについてはガイドブックの類にも詳しく紹介されていて周知のことと思うので、ここでは伊万里について書きたい。
この地を訪れたのは、以前洪水企画の刊行物の発売を委託していた草場書房の社主の草場氏の故郷であり、現在氏はここに戻って暮らしているので遊びにいき、氏の案内でいろいろな名所や急所を見聞することができたという次第。
伊万里で有名なのは伊万里焼だが、大川内山なる山あいの場所に窯元がたくさん集まる村があり、たまたま夏ということで「風鈴祭り」が開催されていた。店の軒先につるされた磁器の風鈴が風を受けていい音で鳴っていて、ことに大振りの風鈴の低い響きが神秘的だった。写真は伊万里焼の器を焼く登窯。青磁を得意とする窯元の店にも寄る。また鍋島藩御用窯の店の焼きものは伝統の重み、独自の風格が感じられる。
江戸時代、伊万里の津から国内外に出荷された磁器が古伊万里と称されるそうで(隣町の有田の産物も含めて)、伊万里が海に面しているという観念は私の頭の中にはなかったのだが、伊万里湾の方向に行ってみると文字通り風光明媚な景観の連続で、造船所もあり、また生きているカブトガニも見ることができ、魅力にみちていた。築二百年におよぶ焼きもの問屋の古い家屋も見学することができて、当時の生活空間に自分の身を置く経験は玄妙。
竹の古場公園という海抜380メートルの山頂からは伊万里全体を海の方まで眺めることが可能で、絶景の形容を献上するのにためらいはない。物語の舞台にもなりそうな、地形についても生活文化の面でもメリハリのある土地柄だ。
長崎から伊万里までは鉄道で来たのだが、大村湾沿いを走る大村線のルートは快適で、このほとんど閉じられた湾の、波があるようでない、ないようである、機嫌のよい静謐さを心ゆくまで味わうことができる。
(池田康)
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2019年08月19日

媒体の生死

あいちトリエンナーレでの騒動についてはいろいろ議論があるのだろうけど、一般論の範囲で考えても発表作品と発表媒体との関係は相当に悩ましい。決して一枚岩ではない。そこでは「表現の自由」よりもむしろ「表現の幸運」が問題になってくるのだ。
発表媒体は大なり小なり公の要素、パブリックな性格を持っており、そこに出ることではじめて作品は発表されたと言える。どんな作品でも望む媒体に発表できるかというとそんなことはない。一介の詩人が自作を大手全国紙に載せてくれと送っても採用される可能性は芥子粒よりも小さいだろう。そこには表現の自由が踏みにじられたとかいった問題はない、媒体は独自の編集権限を有する。少年漫画雑誌は性描写の激しい作品を受け入れないし、シュルレアリスム展にルノアールの絵は入らないし、クラシックの演奏会にはフリージャズの曲を入れにくい。夏目漱石の「吾輩は猫である」が俳句雑誌「ホトトギス」に載ったのは例外的で、人気を博して成功した稀な事例だろう。数限りない拒絶やすれ違いの中、ある作品がある媒体に掲載・発表され一般の鑑賞者に届いたなら、そこには「表現の幸運」が成立しているのだ。
しかし掲載してみても、いまいちだなとかテーマに照らして的外れだなとか批判や主張が過激すぎるなとか、媒体の運営側が不満や不安を抱く場合もよくあるのであり、往々にして「表現の幸運」の中に「表現の不運」が兆す。凡作にとどまるだけなら平穏無事だが、作品の掲載が媒体の評判・存立を揺るがし危ういものにする場合もときにはあり、そこで「表現の不運」が無視できない大きさに至る。問題を処理しきれず廃刊を余儀なくされた雑誌なども過去にあったはずだ。賭けに出てでも大いに意義ある表現を世に出したいという思いが一方にはあり、媒体を崩壊させたくないという防衛感覚が他方にあり、運営は神経をつかうものだ。私自身、いろいろな理由から雑誌「洪水」をたたんだ経験があり、雑誌の命がはかないものであることは肌身で知っている。媒体=メディアは多くの人が考えるほど堅固なものではない。案外脆いものなのだ。そしてただ無闇に専一に守ればいいというものでもない。予定外の力が働き、脆さが露呈すれば崩れる、それは自然なことであり、そこに意味がないわけではなく、媒体(という特殊な作品/運動の)固有の一期一会のドラマとも言える。
(池田康)
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2019年08月12日

ストーリーを欠きつつも

映画二本。
「世界の涯ての鼓動(原題:Submergence)」(ヴィム・ヴェンダース監督)観る。ストーリーというほどのストーリーはなく、便宜的な筋の骨組みの上に、恋愛、生命の起源、科学調査、宗教、国際政治、テロリズム、福利厚生事業といった様々な分野のトピックを意識的主題として集結させて世界全体像の知的把握を試みた塩梅で、ヴェンダースが今やりたい「旅」がこれだったのだろう。イスラムの医者あたりが作品の重心を支える軸となっているか。話が大きく枝分かれしたままに終わっているのは、科学的世界観と宗教・政治の世界認識との不可避の懸隔に照応するように見えるが、水の揺籃と恩寵の神話はあらゆる宗教や科学知見を超える、と暗に語られているようにも思われる。
もう一つ、DVDで「遺体 明日への十日間」(君塚良一監督、2013)を観る。「みらいらん」4号の志田未来小研究で見残していたもの。東日本大震災直後の岩手県釜石市のとある遺体安置所の様子をドキュメンタリーに準ずる形で描く。恐ろしい映画。泥まみれの死体が並ぶ光景が恐ろしく、死者の遺族と安置所の世話係との間の対話のかみ合わなさ、痛々しい衝突が恐ろしく、これをフィクション作品としてまとめようという鬼気おびた作品意志の執念が恐ろしい。主演の西田敏行の慈悲の強靭さをしぼり出す表現は圧巻で、代表作の一つとなったと言えそう。國村隼演じる僧侶が読経を始める瞬間の空気も印象的だった。同じく死者を葬る物語をつむぐ「おくりびと」はきちんとまとまったストーリーがあったように覚えているが、この作品は転結までいくほどのストーリーらしきものはないという点でどこかヴェンダースぽい。
(池田康)
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2019年08月10日

夏祭めいた華やぎいくつか

梅雨がやっと終わったと思ったら容赦のない猛暑が続き、しのぐのが大変だが、種を蒔くのが遅かったうちの朝顔がこの一週間でようやく咲き始めて、歌を聴くようで、毎朝のささやかな喜びとなっている。
今週は痛快な酒宴が二つもあって、いつもは静かで寂しげな我が生活にとっては非常に珍しいことだった。窮屈な日常の意識をにぎやかに無秩序に解放する、一種の祭であり、ふさぎの虫を吹き飛ばすこんな黄金の晩がたまにあるのは悪くないどころか有難い。
この夏は骨が折れるハードな本を読み進めているのだが、そればかりだと疲れるので途中でエーリヒ・ケストナーの『エミールと探偵たち』を読んだ。夏に読むのに最適の、休暇気分の涼しげな物語。ユーモアの風が快く吹き通っている。世界中の少年の一番の渇望はエミールの探偵仲間に入ることだ、疑いの余地はない。
さて、「みらいらん」次号の〈対話の宴〉の開催日は11月2日(土)と決まった。詳細は後日改めて告知するが、興味ある方は日付だけでも手帳に書き込んでおいていただきたい。
(池田康)
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2019年08月04日

トイ・ストーリー4の無邪気ではない遊び

映画「トイ・ストーリー4」を見る。戦慄。ヤバい人形たちの登場に、同情や痛みを通り越して恐怖を覚える。使い捨ての先割れスプーンからだだくさな工作で生まれたフォーキーは自分がちゃんとした人形ではなく所詮ゴミだと思い込み、何度もゴミ箱の中に「投身自殺」する、とんでもないキャラクター(cheapest toy with deepest anguish)。お嬢さん人形のギャビー・ギャビーはおしゃべり機能が壊れていて、この故障ゆえに自分は子供たちに可愛がってもらえる人形ではなくジャンク品なのだと劣等感にさいなまれ、主人公ウッディのおしゃべり機能を暴力団よろしく強奪しようとする鬼ぶり。しかし不思議にも一番同情を集める憂いのヒロインは彼女だ。フォーキーもギャビー・ギャビーもアイデンティティに飢え、合格/失格あるいは美品/ガラクタの境界に危うく立っていまにも自分の存在に絶望しようとする人形たちで、その揺れ動く不安さが観る者の心に鋭く突き刺さってくる。そして彼らを助けるウッディも秩序を守ろうとする「よい子」から保安官のバッジを外していたずらをしでかす「やばい子」に変身してしまう? ピクサーの脚本チームはあなどれない冒険者たちだった。
(池田康)
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2019年07月25日

映画「新聞記者」など

望月苑巳さんが「みらいらん」4号で紹介していた映画「新聞記者」(藤井道人監督)を観た。国家権力の暗部を暴くという本格的な社会派作品であるのに、非常に抒情味あふれていて驚く。主人公の女性記者のキャスティング(シム・ウンギョン)がみごと。切れるのか、不器用なのかよくわからないジャーナリストの姿が妙に生々しく、このちぐはぐさがもたらす割り切れない現実味が作品を図式的理解の平面から拳一つ分ほど持ち上げているように思われる。国家権力なるものの底知れない不気味さ恐ろしさが徐々にあらわになり、真綿で首を締めてくるような、顔のない手が虫を弄ぶようなその感触、地震やゴジラよりも怖いかも。
ついでに。
「びーぐる」44号散文詩特集のアンケートに寄稿したが、雑誌が完成したようだ、ご覧下さい。
(池田康)
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2019年07月16日

曲の架橋

ある曲が別の(昔の)曲を呼び出し参照することで特別な意味やより大きな歌世界を獲得する、そんなリンク、あるいはブリッジが架かることがある。大正時代の「船頭小唄」をもとにして「昭和枯れすすき」(さくらと一郎)があることはよく知られているし、民謡を本歌取りの種にしている流行歌もたくさんある。サザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」も「勝手にしやがれ」(沢田研二)と「渚のシンドバッド」(ピンク・レディ)を踏まえているとされている。キャンディーズの引退曲「微笑がえし」はこのグループの過去の代表曲からの“引用の織物”を試みていて感慨を大きくしていた。小田和正の「秋の気配」と「たしかなこと」も続編の関係だと小田自身がいつだったか語っていた(愛情の生理の春夏秋冬)。さだまさしの「関白宣言」には内容をまったく逆転させた続編があり、時代の変遷を暗示する異色の姉妹曲関係になっている。
渡辺美里の「シャララ」は近ごろ格別のhappinessを感じるようになった。前段のしゃべり歌いの部分の綱渡りの緊張感がよろしく、児童合唱団が加わっていることも効果大だが、「見上げてごらん」の詞の部分で坂本九がうたった名曲「見上げてごらん夜の星を」に直結する感じがあり、星空を媒として歌世界が遠く広がる(作曲者の岡村靖幸のセルフカバーも聴いてみたい)。
さてボブ・ディランの「風に吹かれて(Blowing in the Wind)」は、フォークの古曲「ドナ・ドナ(Dona Dona)」につなげて聴けるのではないかと最近考えている。両曲はこの世の理不尽の根源的疑問に対する「reason」「answer」を求める心、そして「風(wind)」でつながる。「ドナ・ドナ」は屠殺される可哀想な仔牛の歌として広く理解されているのかもしれないが、少し距離をとって、寓話的構図を描いてみせた歌としてとらえるのがよいのではないかと思う。仔牛とは現世の苦境や桎梏に囚われている我々であり、苦役・隷属・虐待・犠牲の普遍的符牒である。それをどう乗り越えるのか。お前は仔牛でいなければならない理由はなにもない、空飛ぶ燕のように翼を持って自由になればよいではないか、と歌は語る。「燕のように飛べるようになった者は自由を宝のように大切にする」。
「ドナ」とは英語の発音感覚で推し量れば「don't」だろうか。「Don't kill me」ということか。
「ドナ・ドナ」と架橋して「風に吹かれて」を聴くならば、世界の理不尽を問う幾多の疑問に対する「answer」とは、「blowing the wind」つまり燕になれ、飛ぶことを覚えろ、風の笑いを笑え、現世の重い桎梏から自由になる翼を持て、ということになるだろう。単純に「翼を」と言っても状況によってなすべき行動は様々変わってくるだろうが、そこは一切省いて自由の希求という理念だけ強く打ち出す。
もちろんこの架橋を絶対的なものとして確定してしまうと詩の韻きの広がりがなくなってしまうからあくまで一つの可能性として考える方がよいだろうが、60年代の思想詩の本質的洞察を示し重い問題意識を樹立する無視できない「幻影の橋」のように思われる。
(池田康)
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2019年07月09日

みらいらん4号

milyren4.jpg「みらいらん」4号が完成した。目次詳細は下記リンクよりご確認いただきたい。
特集・田村隆一は城戸朱理さんの発案で動き出した。結果的にこの特集が充実した形でまとまったことの大部分は城戸さんのおかげである。吉増剛造さんを迎えての鎌倉での対談は思い出深い。内容の濃さはぜひ読んで確かめていただきたいと思うが、私個人としては鎌倉駅前の待ち合わせのとき早く着き過ぎて二十分ほど吉増さんと立ち話をしていたことが思い出に残っている。鎌倉文学館も建物だけでなく庭園も含めてすばらしい場所だった。この特集にご寄稿下さった、新倉俊一、八木忠栄、山内功一郎、田野倉康一、和合亮一、中原秀雪、石田瑞穂、神泉薫、広瀬大志の皆さんにも感謝申し上げたい。
対話の宴「『安藤元雄詩集集成』をめぐって」は今年1月に水声社から刊行されたこの大冊をベースに詩人安藤元雄の詩の世界を野村喜和夫・福田拓也の両氏が議論する。安藤元雄さんは「洪水」誌で計4回ご登場いただいていて大変お世話になっているが、その出発点となったのが、9号での野村喜和夫さんに聞き手になってもらっての安藤元雄さんへのインタビューだった。その7年に及ぶ縁の集大成となったと言える。今回のために万全の準備をして下さった福田拓也さんにも感謝を述べたい。安藤さんご本人の言葉を最後の部分で収録できたのも貴重。
インタビュー〈手に宿る思想〉、今回はフリージャーナリストの古居みずえさんにお話をうかがった。パレスチナの取材を長年のメインテーマにし、東日本大震災以降は福島の飯舘村の取材も継続して行っておられる。三本のドキュメンタリー映画を制作し、著作も多い。フリージャーナリストの仕事とはどんなものかをたっぷりとうかがった。このインタビューでひりひりする「外の空気」を感じていただければ幸いだ。
今号は戦争を大テーマにしてまとめており、特集、対話の宴、インタビューでそれぞれつながってくるものがあると思う。
ほかに、河津聖恵さんの連載詩「神々の檻」が今号から始まる(3回の予定)。音楽家Ayuoさんの連載「言葉と音の間に」も今号から開始。ぜひ注目していただきたい。
表紙の下の方の骨格はパレオパラドキシアと呼ばれる古生代の生き物で、恐竜ではなく哺乳類である。ちょっと調べてみていただけると幸甚だ。表紙後側の卵型の作品(白薔薇の…)は小野原教子さんの作。
(池田康)

追記・書けなかったこと
今回「深海を釣る」の頁で、志田未来作品を中心に多くのテレビドラマを論じているが、視聴する時期が遅くなり言及できなかったものの中に「サプリ」(2006)がある。「浅い男」である父親(佐藤浩市)を「深い男」になるよう教育しようとする小学生なつきを志田が演じていて、小憎らしくいじらしい。父子の関係性が愉快。主人公達の恋愛劇はやや食傷するが。
それから田村隆一特集の最後の「特集おぼえがき」でいろいろ書いたが、一つ書き忘れたことがある。田村隆一の作品で印象に残っている詩があって、しかし見つからず書き入れることができなかった。今回、田村の既刊詩集をすべて読むだけは読もうと努めたが、読む順序もあり、最後の最後まで出てこなかった。「三級ウイスキーを飲みながら」という作品だ(詩集『灰色のノート』所収)。

 三浦半島の最先端
 岩場にひっそりと立っている
 相模亭食堂
 その小さな食堂には大きな薬缶から
 たえず湯気がふきだしていて
 イカ ハマグリ サザエは炭焼き
 古風なガラス窓からは相模の海が一面にひろがり
 燃える夕陽が伊豆半島の天城めがけて落ちて行く

 人間の心も燃えるものなら
 晩秋初冬の世界の中心にむかって落ちて行け
 人間の悲惨は悪魔の至福
 その両極に神の快楽があるならば

 海鵜の舞う断崖まで三級ウイスキーを飲みながら
 歩いて行くがいい

これはどこかの媒体に発表されたのをリアルタイムで読んで、ああこういう詩を書く詩人なのかと深く納得した覚えがある、懐かしい詩。田村隆一のキャリア全体の中に置いて、とくにどうということもないのかもしれないが。
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2019年07月03日

みらいらん4号完成ほか

「みらいらん」4号が完成した。無事に、と言えるかどうかはまだ確信がないが。今日明日明後日、納品やら発送やらの作業に忙しい。とりあえず報告まで。この号についての詳しい紹介はまた後日行いたい。
ついでに最近の見聞の覚書を少々。
福間健二氏の講演を聞いた(横浜詩人会現代詩セミナー)。詩と、“普通”であることとのかかわり、詩の歴史の中での“分岐”のこと、など。考えにくい部分を見つめようとする真摯な思考を感じた。
ギュスターヴ・モロー展を見る(パナソニック汐留美術館)。行列に30分並ぶという滅多にやらないことをするはめになった。人気があるのだ。一角獣の絵など。
くらもちふさこ『天然コケッコー』を一年がかりで読了。去年映画版を見てから、原作を読み始めたのだが、5巻あたりで一度挫折して放り出していた。9巻はさすがに長い。しかし地方の暮らしの細部(とりわけ方言)、女の子たちの姿の生々しさ、などにより特別に意義のある作品になっていると思われる。
(池田康)
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2019年06月27日

江田浩司『重吉』など

「みらいらん」に連載で書いてもらっている江田浩司さんが詩歌集『重吉』(現代短歌社)を出した。詩人・八木重吉を思慕した短歌作品がメインになっている。こんなふうな短歌の詠み方もあるのかと意表を突かれる。重吉の詩の姿勢を敬慕するところすこし信仰に似ている気味があり、宗教的短歌があるとしたらこのような感じのものになるのかもしれないとも思った。そんななかでもユニークな境地の希有さを示す作品もあり、たとえば、
 ひるさがりはやしにひかるみづの翳しんじつをいふ歌よ地にあれ
 「死にました」とたよりをもらふ秋でした もくせいの香がきこえるゆふべ
 「すこし死ねば/すこしうつくしい」としるされし詩篇にぬらす聖書の雨は
 ことの葉があきのひとみにうごくころ死ねないふしんをうたふ人がゐる
 いろづいたこみちをゆけば名をよばれうすやみに見ゆ手のやうなもの
など、とても不可思議なかんじがする世界の開き方だ。
ついでに、もう一冊。松岡正剛『少年の憂鬱』(角川ソフィア文庫)はブックナビゲーションサイト“千夜千冊”からこのテーマにそったものを集めたコレクションで、前口上に、「少年はこの世で一番わかりにくい哲学だ。/ピュアな存在のようでいて、遊べば孤独になるし、/一人になれば、妄想に耽って悪だくみばかりを考える。/いつも友を求め、オトナの魂胆を見抜いて、/誰と「ぐる」になればいいのか、こっそり決めている。/そんな少年の憂鬱な浪漫がたまらない。」とある。こんな問題意識でアンソロジーを思考する人はほかにまずいないだろう。まだ半分ほどしか読んでないが、子供の心世界をあつかった諸作品の読み解き・分析にはめざましいものがある。
二冊とも非常につかまえ難い心性の相をつかまえようとしている。
(池田康)
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