2017年10月07日

対談イベント 野村喜和夫×篠田昌伸

地面にどんぐりが転がる季節となりましたがみなさまご健勝でおすごしでしょうか。さて先日予告しました対談企画の詳細を告知いたします。お気軽にご参加いただければ幸いです。

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洪水企画&エルスール財団共同企画トークイベント
野村喜和夫とアーティストたち@
野村喜和夫×篠田昌伸
〈詩と音楽のあいだ〉をめぐって

野村喜和夫の『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』をはじめ、しばしば現代詩を作曲に取り上げる作曲家篠田昌伸氏を迎え、「詩と音楽のあいだ」をめぐって、また両者のコラボレーションの可能性について、語り合います。

日時:2017年11月4日(土曜日)
15:00〜17:00 (14:30開場)
場所:ブックカフェ「エル・スール」(詩とダンスのミュージアム内)
(世田谷区羽根木1−5−10)
入場料:2500円(+1drink order)
申し込み方法:メールまたは電話で。
エルスール財団
03−3325−5668
info@elsurfoundation.com

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(池田康)
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2017年10月06日

いよいよ激し

「エル」(ポール・バーホーベン監督)という映画が評判になっていたので秋口に観たのだが、異常な性の領域に思い切って踏み込んでいることに肝を潰すと同時に、老境の監督がこうした過激にSEX極に傾いた作品を撮った例としてスタンリー・キューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」が思い浮かび、一つの傾向が太く存在するのだろうかと考えた。鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」以下三部作も幻想的性愛の海に腰まで浸かっていて、それ以前の作品とやや違う。年を取ることで箍がうまい具合に自然に外れ、品行方正や良識なるものに頓着しなくなり、欲望の赴く果てを見てみたいと思うようになるのか。
そういえばと、読みそこねていたのを今回読んだのだが、谷崎潤一郎の激辛な「鍵」や奇矯至極の「瘋癲老人日記」もすさまじい(描き込まれている昭和三十年代前半の風俗・生活文化も面白い)。ほどよく枯れて石庭的境地に至る老境も望ましいのかもしれないが、人間精神が最後のメタモルフォシスを果して虹色に炸裂する最晩年も甚だ刺激的だ。
この春から秋にかけてテレビドラマ「やすらぎの郷」(倉本聰脚本)も世間をにぎわせたが、老いて弱るは当り前すぎて淋しいから、「老いていよいよ激し」を変り種の美徳と考えたい思いがどこかにある。親鸞もあっと驚く潤一郎浄土も二十世紀の文学的発明だ。
(池田康)
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2017年10月02日

杉中雅子歌集『ザ★カ・ゾ・ク II』

thakazoku2.jpg杉中雅子さんの第二歌集『ザ★カ・ゾ・ク II』が洪水企画から刊行された(本体1800円+税)。第一歌集『ザ★カ・ゾ・ク』の内容を引き継ぐという意味でこの命名となった。装幀デザインも色鉛筆をモチーフにしている点が共通する。
第一歌集の流れに沿い、両親、夫、子供たちと孫、祖母、伯母や叔父など家族の人々に対する様々な形の愛情が率直に歌われて短歌として結晶する──それを基軸として、そこにさらに大震災の報道や環境問題や戦争への思いが流れ込んで視野の深化をもたらしており、言葉を通じ、また短歌への愛を通じて家族が世界とつながるという、成熟した歌人の精神の境地がここにはあるように思われる。
「洪水」5号に発表された連作「異空間」が巻頭に置かれていて印象深い。

 茶臼岳にかかれる雲は波たちて吹き来る風はわが肌を刺す
 空中につり下げられし吊橋に命あずけて一歩踏み出す
 吊橋を踏みしめ渡る目交の裸木こぞりてわれにせまり来
 行き違う折しも橋の揺れに揺れ放り出される心地こそすれ
 いつまでも揺れの止まらぬ吊橋に彼岸の母の笑み浮かびくる
 足元の浮き立つ橋にわれありき対岸の滝とうとうと墜つ
 吊橋のすき間より見ゆ渓谷の流れしぶけり岩にくだけて
 橋の揺れにわが身任せる異空間に冬のむら雲張り付きいたり

日常の安穏を離れた不安な心象が映り込んでいる。
家族を詠んだものとしては、

 十二歳に父の買いくれしピアノなり居間の隅にてわれを見守る
 カステラの木箱も古りぬ折ふしに開けて読みおり母からの手紙
 「なあ〜んも、のうなったけん、できたんよ」広島復興を祖母はしみじみ

などがある。三首目は広島の被爆にからんでいてことに印象に残る。
この本はまた、洪水企画が発行だけでなく発売もする第一号の書籍となった(これまでは草場書房に発売をお願いしていた)。そのことも小社としては非常に意義深い。ちなみにISBNは978-4-909385-00-0となっている。
(池田康)
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2017年10月01日

文と音のセッション

昨日の午後、「朗読&音楽パフォーマンス 野村喜和夫×港大尋」に参加した。場所は、世田谷区の〈詩とダンスのミュージアム〉(野村さんがご自宅を改装して作った、ご夫妻の活動の記念館)。二十余名の観客。
野村さんの新詩集『デジャヴュ街道』(思潮社)発刊記念の会ということで、この中から幾篇か朗読し、ギターとパーカッションの港さん(いつもはピアノとのこと)とお仲間のギターのサワさんが音楽をつけるという形。音楽は厳密にはなにか専門的な言い方があるかもしれないが印象をひと言で言うなら、フリージャズをさらにゆったりと開放的にやった感じか。
「アピアピ街道」という詩に出てくる「アピ」とはマレーシア語で「炎の木」の意味だとか、「ウル街道」に出てくる「馬頭」にはフランス語の「バトー」つまり「舟」(ランボーの「酔いどれ舟」から連想)とも意味を重ねているとか、この詩集を読むためのヒントがいろいろと語られ興味深かった。「オルガスムス屋、かく語りき」は読む過程ではさあっと滑るように読んでしまいがちだが、朗読を聴くと(ハード・ロックのアグレシブな演奏を思わせる)情動の発露の迫力に満ちたものだった。
この詩集についてはまた改めて書きたい。
それから、これは計画がほぼ決定になっているので予告するが、来月、作曲家の篠田昌伸さんをこのミュージアムに招いて野村さんと対談をしてもらい、新雑誌「みらいらん」創刊号に収録しようということになった。お二人は野村さんの詩を篠田さんが何作か作曲しているという間柄で新たなコラボ作品の発表も数ヶ月後に控えているそう。詳細が決まったらこの対談イベントについても改めて告知いたします。
(池田康)
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2017年09月26日

佐々木幹郎著『中原中也 沈黙の音楽』

長年にわたり中原中也の研究をしている佐々木幹郎さんの最新リポートとも言えるこの本が岩波新書で出た。最重要ポイントを示すのであろうサブタイトル「沈黙の音楽」については、中也が音楽に接近しなにがしか学びながらも(具体的には諸井三郎たちが構成するスルヤという音楽集団)、彼が生涯にわたり詩に求めた“音楽”は現実の音楽とは違うものであり、その厳しい響きを「曇天」や「雪が降つてゐる……」といった作品に聴き取るよう読者は促される。中也が言葉によって探りcomposeした「無言の「歌」そのもの」、「究極の「歌」」を聴き取ることが中也の詩を読むにあたって重要となるという主張がこの一書のすべての頁に込められているのだろう。
その他、代表作「朝の歌」や「サーカス」等のきめ細かい読解や、二つの詩集の成立過程の考察、「島田清次郎ブーム」に影響された天才主義、富永太郎や小林秀雄との交友の機微など興味深い内容が並べられているが、中也研究の観点から特ダネと言うべきは、晩年に入院した千葉の精神病院で作った民謡の歌詞の発見、そして安原喜弘宛の新発見の書簡に述べられる、チェホフの中編小説「黒法師」称賛であり、後者はとくに、黒法師の蜃気楼の姿が時代を超え国を超えて至るところで出現するという物語が著者により文学作品の伝播・受容に結びつけられ、成る程と唸らされる。
もう一つ面白く感じたのは、中也がまずダダにぶつかり、次にフランス象徴詩を知り、さらにハイネの「歌」に魅せられるといった、詩史的にはどんどん遡る意識の運動の形で、詩の本源を求めるという彼の本能的とも言えそうな努力が、他の詩人には滅多に見られない、詩に豊かな音楽を内包させる独自の成果となっていったことを考えると、目覚ましいことのように思われた。
著者の佐々木さんは文章家で、生半の観念作業の生硬さにつまずくことなく、水が岩の上を流れるように滑らかに気持ちよく読み進めることができる。そこもありがたい。
(池田康)
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2017年09月19日

鎌倉のギャラリーで画家の対話

昨日、鎌倉のドゥローイング・ギャラリーで「山口啓介/加納光於 往復書簡の周辺で」展を観た。この夏に実際に交わされた往復書簡が土台にあるということで、60センチ×84センチ(つまりA1判)の大きさの新聞のようにレイアウトされた紙に二人の手紙が刷られているものを渡された。レオナルド・ダ・ヴィンチやボッティチェリのことや、源平の合戦のこと、運慶・快慶の彫刻のことなど、多彩な話題が個性的な緻密さで語られている。美術家の若林奮が「旧石器時代の洞窟壁画と自分自身がある……その間に何も必要としない……」と語ったという話は非常に印象に残った。
展示されていた作品について書くと、加納作品は「星形の」「巡り来るものの」の二つのシリーズ。色彩の諧調の深さに見とれる。作品を眺めている段階では純粋な色と形の抽象的作品と受け取っていたが(なにかあるのかもしれないと思いつつ窺い知れない)、山口氏が手紙の中で「巡り来るものの」について源平の合戦に結びつけて見ているのにちょっと驚いた。山口作品の「共存・分断する3つの顔」「山水の構造」、なにか裏に物語があるのかもしれないと想像しつつまずクエスチョンマークが浮かんだが、往復書簡中に挿画とされている異形の顔(目が6つ、鼻が4つ、口が2つある)のドローイングを見ると焦点が定まるような気がした。
会期は今月24日まで。
(池田康)
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2017年09月12日

三度目、全く正直でなく

是枝裕和監督の新作映画「三度目の殺人」を見た。その年のトップ3とかベスト5に挙げたくなるような作品を常に撮る人だなあと映画制作者としての腕前に吃驚する。
最後の最後で、弁護士(福山雅治)は殺人犯(役所広司)に一点の非常に崇高なものを見たのではないか。しかし殺人を犯した三隅という男はサイコの病いあるいは異能を有しているようでもあり、とても知的で生来の役者なのだが、自分自身の裡の虚暗を自分で理解できないでいるようにも見える。その自分を持て余すような、自己を放棄するようなところは、「幻の光」の自ら命を絶つ夫につながるものがあるかもしれない。この監督はそういう、自分の存在に積極的な価値を見出すことができない、絶望とひたと向き合ってしまった、どこか投げやりな、断崖から片足を踏み外しているような人間の姿に執着する面があるのだろうか。
被害者の娘・咲江(広瀬すず)の表情もマリアナ海溝のような重さをたたえて印象的で、ことに一瞬右半分に明るく光が当たり、左半分は暗く影になった大写しの顔はシンボリックでよかった。
(池田康)
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2017年09月01日

玉城徹全歌集

tamakitoruzenkashu.jpg『玉城徹全歌集』がいりの舎から刊行された。本体12000円。『馬の首』から『石榴が二つ』までの9冊の既刊歌集の他に未刊の「左岸だより」、長歌集『時が、みづからを』、詩集『春の氷雪』を収める。短歌は総計4400首余り。912頁。
先日、いりの舎の玉城入野さんと会って話す機会があったが、この本の編集には5年かかったとのこと。大変だったろうと想像する。
第一歌集『馬の首』から幾首か引用しよう。

 いづこにも貧しき道がよこたはり神の遊びのごとく白梅
 積みてある貨物の中より馬の首しづかに垂れぬ夕べの道は
 ひえびえと青き塗料のはげおちし貧しき空にひばりあがれり
 泥水より体をなかばあらはして鳴ける蛙か夜ふけに聞ゆ
 くらやみの襞より見ればいしみちは脆き夜空につづきてゐたり
 いやはてに海ばらよりも蒼ざめし太陽一つおらびつらむか

「後記」では「これらの作品に、わたしは、自己の刻印を示そうとしたのではなかった。抽象的思考──言葉をかえていえば、一の「美」への祈願──は、つねに、自己の抹殺の企図をふくむのである」とも記されている。
この柄の巨きな歌人に教えを受けたり親炙したりした人には大切な一冊だろう。
(池田康)
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2017年08月27日

精神の運動神経、黒田喜夫の場合

昨日は現代詩人会の総会(早稲田奉仕園スコットホール)に出掛けた。冒頭に細見和之さんの講演「60年後に読む、黒田喜夫「ハンガリヤの笑い」」があり、それから総会(会則変更について多少波乱あり)、名誉会員に推挙された安藤元雄さんの小スピーチ(……薄味でなく濃い詩を……)を聴き、懇親会では吉田義昭さんの歌もあった。
細見さんの講演は1956年10〜11月に発生したハンガリー事件に詩人の黒田喜夫がいかに即座にヴィヴィッドに反応して力強い詩を書いたかを紹介するもの。スターリンが死んでスターリン批判がなされた後になお、このような強権的なソ連の他国軍事介入が起こるという事実にはリアルな政治の(支配欲望の)実態を見る思いがするが、その意味合いに鋭敏に自分たちの運命を投影する詩人の言葉も皮肉に富み凄みを帯びている。最後の八行:

 信じてくれ
 賢い同志たち
 これは可笑しい本当に可笑しい
 ぼくは哄笑った ぼくの屍体が
 笑うほかない屍体の身震いで
 辛いチャルダッシの
 笑い声でいっぱいな
 ハンガリヤで

(池田康)
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2017年08月12日

湯浅譲二さんの米寿の会

昨日、作曲家の湯浅譲二さんの米寿を祝う会がトーキョーコンサーツ・ラボ(新宿区西早稲田)であった。前半はミニコンサートで、テナーレコーダーのための「プロジェクション」(演奏=鈴木俊哉)、天気予報所見〜バリトンとトランペットのための(橋本晋哉&松平敬)、内触覚的宇宙III〜虚空〜(三橋貴風&吉村七重)、チェロのための「Congratulation for the 70th birthday」(堤剛)の四曲。いずれも立派な(がつんと来る)演奏で、音の思いがけない配置、ユーモアの過激な導入、音楽創造の原理を求める精神、など湯浅作品を特徴づける諸面を改めて感じることができた。後半の懇親会では翌日という誕生日のお祝いもなされた。体調を崩して晩冬の頃からしばらく入院しておられた由で、しかし相当回復され、まだ本調子とまではいかないようだがしっかりと立って挨拶されていた。
「洪水」20号の特集論考で、宗教的な(スピリチュアルな)音楽というものについてあれこれと考えてみたが、「現代アートを古代アートにつなぐ」という文句を最近思いついた。たまたまラジオで「現代アート」という言葉が話され、ならば「古代アート」という言葉もありうるわけだと思いつき、やや軽い響きになるが、古代あるいは有史前の芸術衝動の源に立ち返る心のベクトルの意味で、上記のような標語とあいなったわけだ。古代アートが生成するような心意識の次元に現代アートを根づかせよ、と。湯浅さんの「内触覚的宇宙」というタイトルも、宇宙の内側から宇宙に触れるという原始の形而上学的指向が感じられ、古代アートの蘇生が幻視された。
(池田康)
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