2021年01月20日

遺作集ふたつ

フランス文学研究家(フィリップ・ジャコテ研究など)の後藤信幸氏は、有働薫さんに紹介していただいたのだが、「洪水」にも「みらいらん」にもご協力いただく機会のないまま、2017年の夏に逝去された。その後藤氏の全句集『葛の空』(邑書林)がこのほど刊行された。生前に全句集は作りたいと語っておられた由だから、趣味道楽というレベルを超えて、文学者としての真剣な創作だったのだろう。すべて一定の水準の句にも見えるのでどれを選んでも可のような感じだが、印象深く読んだ数句を挙げる。

 枯野来るひと消炭のごとくなり
 あの世にもこの世の蝉の聲しかと
 走馬燈美しき闇置きにけり
 春の野をどこまでも子ら誘ひぬ
 丹澤の背に奇怪の冬の富士
 秋風や一穂の家藪の中(一穂は詩人吉田一穂)
 無縁墓地わが屍を埋めるところ
 七夕に捨て猫のゐて眠られず
 朝顔を遠くより見る妻を見る
 天の川堤長うして佇めり
 する墨のかげ圓かなる十三夜

詩人の(同じく仏文研究者でもある)清水茂氏は昨年の一月に逝去された。晩年の詩作の豊穣さには目を見張ったものだが、このほど更に遺作詩集『両つの掌に』(土曜美術社出版販売)が刊行された。その中から「籠いっぱいに 星を」という短い詩を紹介する。

 疲れ果てて 夏が凋むと
 夜が素早くやって来る。仮にそれが
 私にとっての最後の夜だとすれば
 もう秋は私に挨拶をしには来ないだろう。

 向こうで誰かがその秋を収穫する姿が
 幻に見える。私のいなくなった静かな夜、
 その人が手に提げた籠いっぱいに
 星を摘み集めている様子が見える、
 ひとつずつの星を丹念に吟味しながら。

巻末には詩的世界観を語った講演録(2012年)が収められている。
(池田康)
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2021年01月15日

冬のウタビト

ヘビーローテーションを訳すとしたら、どうなるか。蛇円環、じゃなくて、延々反復、諄々循環、徒然なる繰返し、堂々巡りのどつぼ……そんなようなかんじで、近頃、中島みゆきが昨年師走に出した二枚組選集アルバム『ここにいるよ』を聴いている。真冬の底でこの歌手を聴くのは、水を得た魚かどうかわからないがよく合う気もする。知らない曲も何曲か入っているのは新鮮。落涙級に聴き入ったのは「アザミ嬢のララバイ」だった。この最初期の曲について今更書くのは気がひけるが、「時代」といい、このウタビトは二十歳になるやならずの頃に旋律からしてすでに悟り切っている雰囲気がある。「春は菜の花、秋には桔梗」とあって、「夜咲くアザミ」とうたわれるのだが、今の季節に聴いていると、春、秋と来たのだから「冬咲くアザミ」なのだと勘違いしてしまう(実際の花の季とは違うのだが)。私の歌は、いい季節にうかれさわぐ遊興の歌ではないと言われているようなかんじがする。そしてそれは外れてはいないと、このCD全体を聴いて思う。厳しい歌をうたってきた人だ。
(池田康)
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2021年01月05日

みらいらん7号

milyren7.jpg「みらいらん」7号が完成した。この号から表紙を詩人の國峰照子さんの木彫オブジェ作品が飾ることになる。この7号は「交響」という作品。目次頁に載せた國峰さんのコメントをお読みいただきたい。撮影のために昨年10月に御宅にうかがったとき、相当に苦心をしての作品撮影を終えて、LUCKY STRIKEの極細タイプの煙草をいただいて一緒にふかしたことをありありと覚えている。
今号の一番大きな特別企画「いま、なぜビート詩か?」は、中上哲夫さんからビート詩研究会というのをやっているからその座談会をとご提案いただいたのだが、昨今の社会情勢では座談会は無理だろうということで、回覧書簡という形になった。五人の研究会メンバー、中上哲夫・油本達夫・飛松裕太・長田典子・野木京子の各氏がこの順番で手紙をつづる。前編と後編にわかれていて、今号は前編で、それぞれがどのようにしてビート詩に近づいてこの研究会に参加するに至ったかが語られている。後編は次号掲載予定。
そして連詩についての記事を二つ並べて掲載した。一つは、野村喜和夫さんによる「「しずおか連詩」の過去・現在・未来」で、故・大岡信を引き継いでこの連詩の会の捌き手(世話人?)をしているご本人による紹介は核心を捉えていて重みがある。大岡信が現在の連詩の形をどういう論理で構築したかもわかり理解がぐっと深くなる。もう一つは、その大岡信が谷川俊太郎、H・C・アルトマン(オーストリア)、O・パスティオール(ルーマニア)といった詩人たちとともに1987年に試みた「ファザーネン通りの縄ばしご ベルリン連詩」(岩波書店から本になっている)を三人の作曲家が共同作曲で音楽化しようとする国立劇場のプロジェクト(3月5日/6日の公演「詩歌をうたい、奏でる ─中世と現代─」で発表される予定)について、制作者の石橋幹己氏(国立劇場)と作曲家の桑原ゆう・Marc David Ferrum・川島素晴の三氏のお話・文章で制作の内側を語っていただいた。非常に興味深く読んでいただけるものと思う。
それから昨年末に弊社が刊行した『幻花 ─音楽の生まれる場所』(燈台ライブラリ4)の著者の、作曲家・佐藤聰明さんのインタビューを載せる。これも回答をご執筆いただいた。単行本と併せてご味読いただきたい。アメリカの音楽財団から作曲を依頼されたバイオリン協奏曲のエピソードは昨年の世界および佐藤氏ご本人の状況をよく物語るものだ。
巻頭詩は、川口晴美、新倉俊一、大木潤子、大橋英人、永方佑樹の5名の方々(とりわけ川口作品は昨年来の感染症災禍を反映して鋭く、お見逃しなく)。巻頭連載詩はこの号から和合亮一さんが担当(3回の予定)、この長篇詩は我々をどこに導くのだろうという不思議の念とともに辿っていただきたい。俳句は柴田千晶、短歌は野樹かずみの両氏の作品。
その他の内容については、下記リンクから目次紹介をご覧下さい:
(池田康)
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2021年01月02日

新春酔眼放吟


世界はリズムから成る

塔を建てる槌の音ファッションモデルの鋼のハイヒール詐欺師の立て板に水の駄法螺トウモロコシの黄の紡錘整列ジャブとストレートの高等漫才星辰の一億年に一の鼓動セコイアの年輪の時間旅行国語大辞典の蚤のノンブル赤んぼのあきらけき呵々山川草木の種の目覚め心道(ウラミチ)を走る霊気のパルス遮二無二止まらないしゃっくり野良猫の神のパトロール鉄路の正しい読点廃校は虫すだくオーシャン煮られる小豆のキンダータンツタイプライターの騒然たる無学文盲蜘蛛の巣のくすしき設計九十九番まである盆唄甲子園にとどろくへぼペットどぶ川沿いの桜の合唱禰宜のねごとを刻む包丁六日おきにめぐってくる日曜日五時間おきに飲むコーヒーライオンの牙と爪の古代家系図自転車のペダルたんぽぽのペタル夢のあかつきに立つ時計塔の点鍾

世界はリズムから生る


(池田康)
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2020年12月28日

レコードで聴く佐藤聰明初期作品

satosomeirecords.jpg作曲家・佐藤聰明さんの初期作品を収めたLPレコードがこのたびスイスのWRWTFWW Recordsから二点発売された。
一つは、マンダラ三部作と呼ばれる「マンダラ」(1982)、「マントラ」(1986)、「タントラ」(1990)という三曲の電子音楽作品、そして「舞」(2004、ハープとオーケストラの作品)を収録した二枚組の「MANDALA TRILOGY+1」(写真下)、そしてやはり電子音楽「エメラルド・タブレット」(1978)と「エコーズ」(1981)を収録した「EMERALD TABLET/ECHOES」(写真上)。写真の一番下には、大きさの比較のため、マンダラ三部作収録のCDを置いてみた。ジャケットデザインは杉浦康平氏とのこと。
マンダラ三部作は、音楽と音楽以前の中間領域で音が立ち上がっているようで、キャンバスを塗り込めた抽象絵画を思わせ、言葉が生まれる以前百万年の仄暗い精神史が音で描かれているかのように、霊気を帯びて聞える。三作目の「タントラ」になると、人声のような響きも感じられ、大分人間に近づいている気配もある。2004年の「舞」はすでに古代に踏み込んで、音楽らしい音楽になっている。
CDと聴き比べると、レコードはより柔らかく空気感のある音がするように思われた。佐藤聰明音楽の原点がここにあると言えそうだ。
(池田康)
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2020年12月23日

清らかさに賭ける

映画「蜜蜂と遠雷」(2019、石川慶)を見る(映画館でなく自宅で)。清い。若者のごまかしのない清さ、ドキュメンタリ的側面の清さ、音楽という創造物に固有の清さが重なっている。ここまで清らかさに賭ける映画はなかなかない。音楽の初心の歓喜が、その中心軸にあるように思われる。そこにプロコフィエフやバルトークが鳴る新鮮さ。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、ドビュッシー等々の曲の欠片も光を差し込んでいた。母親の死が精神的ダメージとなってステージでピアノが弾けなくなった女の子(松岡茉優)がその困難を克服する話が主筋となり、幼馴染みのエリートピアニスト、野生児のようなピアノ少年、生活者思想を抱く社会人ピアノマンのエピソードが絡み合ってくる。そして青年たちの苦闘に対して、斉藤由貴が大人の極を一手に引き受けコンクールの天空を支配して異彩を放つ。この作品の眼目の一つは、ツンといかめしい斉藤由貴を見ることだろうか。雷や馬や蜜蜂(?)といった象徴系をもう少し巧く物語にゆわえてくれるとよかったのだが。劇中の音楽があるだけで、いわゆる「映画音楽」がほとんどついていないのも特徴の一つだろう。
(池田康)
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2020年12月11日

虚の筏26号

「みらいらん」次号の編集はようやく終わり、印刷所に入れた。あとは無事に誕生してくれることを祈るのみ。
さて、「虚の筏」26号が完成した。今回の参加者は、生野毅、伊武トーマ、神泉薫、たなかあきみつ、二条千河、久野雅幸のみなさんと、小生。下記リンクからご覧下さい。

http://www.kozui.net/soranoikada26.pdf

(池田康)
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2020年12月03日

最近のびっくり四選

アメリカの大統領選挙。「レッド・ミラージュ」なる現象が起こるだろうという予測が報道されていたが、本当に起こってみるとやはり仰天。選挙という行事でこのような現象を目撃したのは初めてだ。次期政権では女性の副大統領の配置が注目されているようだが、この構えの深さは好ましい。
競馬のアーモンドアイ。これは説明不要か。二年前の桜花賞のときは一番人気ではなかったように覚えているが、それがG1=9勝とは、破格の記録。オルフェーヴル、ジェンティルドンナ、ゴールドシップといった過去の名馬たちは横綱の重量級のイメージがあったが、アーモンドアイは軽快な駿馬という雰囲気なのが不思議。
そしてプロ野球のソフトバンク・ホークスの強さ。あいた口がふさがらない。相手チームのふがいなさを言うよりも、ただただホークスが強いのだろう。サッカーの川崎フロンターレにも当てはまるが、確立された戦術の型と自分たちは強いという積極的な自己暗示(自信)が正のスパイラルを描いて手のつけられない“台風状態”を形作っているように感じられた。
平原綾香の今年開催のコンサートをビデオ視聴する機会があり、この人、ここまで巨きな歌手だったっけと驚く。福々しく強く、繊細で凄みがある。たしかに20代から十二分に上手かったが、ここ数年で一段の進境があったのだろうか、5年前の歌唱と聴き比べてもそんな感じがするのだが…。A級を超えた域にS級があるとして、更にそこから出てT級(typhoon)へと豹変かと思わせる瞬間がたびたびあった。今の平原綾香のうたう「BLESSING 祝福」に耳傾けるのは無上の体験だ。
(池田康)
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2020年11月22日

ヤンソンスの最後の演奏会のこと

昨年の11月30日に76歳で逝去した指揮者のマリス・ヤンソンスの遺された演奏を今年になって意識的に聴いているのだが、夏にNHKFMで放送された昨年10月11日のミュンヘンでの演奏会がこの人の最後の公式の演奏とうっかり思い込んでいたのが、このたび「HIS LAST CONCERT」として、11月8日のニューヨーク・カーネギーホールでの、バイエルン放送交響楽団との演奏会のライブ録音CDが発売されたので、入手して聴く。曲目はメインが10月の会と同じブラームスの交響曲4番(その他にR. シュトラウスの歌劇「インテルメッツォ」交響的間奏曲)。全体に、とてもいい演奏と思う。とくに第四楽章の、フルートと弦楽の静かな掛け合い、そのあとの管楽器と弦楽の掛け合いなど、たしかな語り方をしている。音が次第に裏返っていくむずかしい部分も実に上手い。
演奏時間は、10月の公演が43分30秒、11月の公演が42分10秒。
10月のミュンヘン公演と、11月のニューヨーク公演を比べて聴くに、好奇心を刺戟し珍味を堪能できるという意味で面白いのは前者のように思われる。これは録音やミックスの具合にもよるのかもしれないが、舞台の違いも大きいのではないか。カーネギーホールといえば世界の晴れ舞台であるから、一流オケが萎縮することはないにしても、下手なことはできないから、どこかしゃっちょこばる。余計ともいえる遊びや冒険は控えてきれいに立派にまとめることになる。しかし地元ミュンヘンではその点くつろいで肩の力を抜くことができ、好きなように遊び好きなようにうたい、結果、随所で思いきった動きを見せて、その意外さ新鮮さで聴き手の耳をそばだてさせることになる。一種の研究演奏会の面もあるのかもしれない。工作が馬鹿丁寧で、とにかく細かく、切れのある速度感は出てこない。息づきが親密で、部分部分の濃さと妖しさが全体像をぼやけさせる。バランスを崩しかねない優艶ないびつさが気になる人もいるかもしれない。しどけない、という形容詞があるが、悪い意味に転ずることもあるものの、しどけなさの美ということもあり、これがより多く発揮されるのが地元の特権なのではないか。山はその所在地に行かなければ見ることも登ることもかなわないが、オーケストラも山と同じでその本当の歌声は本拠地とする場所に行って聴くものなのかもしれない。
以下、余談。
このヤンソンス&バイエルン放響のコンビで、この秋、ブルックナーの交響曲をあれこれと聴いていた。ベートーヴェンやブラームスは曲によって大きく趣向を変えるのだが、ブルックナーはそういう志向はあまり強く感じない。どれも「あのブルックナーの曲」というかんじで鳴る。一曲だけ選ぶとすればなんだろうか。9番か。7番から9番までの三曲を聴いておけばとりあえずブルックナーは語れる、と言えなくもない。ハイドン、モーツァルトからブルックナーぐらいまでは、晩年になるほど良くなるという傾向が共通してあるが、マーラー、シベリウス、ショスタコーヴィチあたりになると、必ずしもそうは言えず、簡単な話ではなくなる。これらの人達の生涯は、文明の大きな転換期にひっかかり、現代音楽の時代に重なっていて、現代音楽や現代芸術はいい意味でも悪い意味でも「子供の遊戯」という面が少なからずあることも関係しているかもしれない。
(池田康)
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2020年11月19日

佐藤聰明『幻花 ──音楽の生まれる場所』

幻花画像ss.jpg作曲家・佐藤聰明さんのエッセイ集『幻花 ──音楽の生まれる場所』がこのほど洪水企画の〈燈台ライブラリ〉の第4巻として刊行された。新書判・192ページ・本体1300円+税。
以前、雑誌「洪水」に連載された文章やその第10号の特集「佐藤聰明の一大音」のために書かれたエッセイを中心に、未発表の文章も含めて編纂され今回の本となった。世界的に著名なこの作曲家の最近十年ほどの思考の粋がここに凝縮されていると言ってもいいだろう。それとともに、この百年で書かれた最も厳しい音楽論にして芸術論ではないかとも思う。
巻頭に置かれた「幻花 ──音楽の生まれる場所」と最後の「花はなぜ美しい」はこの本の核をなす二篇であり、宗教や人類学の領域にも踏み込みながら音楽の本領を苛烈に探求する。これらを読めば作曲家佐藤聰明の現在の精神の在りかがおおよそ判るのではないか。「詩と呪文」は詩と音楽の関係について考え、「気配ということ」では能という日本独特の特異な演劇ジャンルの魅力の深みを語り、「映画、舞踊、そして音楽」は映画やダンスのために音楽を作曲した経験を回想しながら太古における舞踊と音楽のありようを幻視し、「歌うということ」は音楽創造の真の厳しさを理論でなく実地の位置から伝え、「青春 一」「青春 二」では若い頃の切なくやりきれない思い出を甦らせる。この一冊を読めば、道なき道を歩いてきた一人の音楽家の内側にどんな広大無辺で豊饒な世界が広がっているかがわかり目眩を覚えるだろう。ぜひご注文いただき、手に取ってお読みいただきたい。
(池田康)
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