2020年09月17日

清水茂さん

一昨日部屋の中の整理をしていたら、そこここに積んだり散ったりしている本の山の中に、清水茂詩集『古いアルバムから』(土曜美術社出版販売)が目にとまった。清水さんを偲んで、読む。清水茂氏は今年一月に逝去された。かつて「洪水」誌にインタビューを掲載するなど大変お世話になった方であり、また今年初頭に刊行した「みらいらん」5号のなかで私は学校教育の非などという乱暴な論を書きなぐっていて、長く大学で教壇に立っておられた心優しい氏を深く悲しませはしなかったかと気にもなった。それでいながら、「みらいらん」6号で追悼のページは作ったものの、自分で追悼の言葉をつづっていないのは不義理であるので、この詩集『古いアルバムから』を手に取ったことをきっかけに、少しばかり書き留めたい。
清水さんは独自のつかみ難い人格の構えがあった。大抵は、この人はこういう詩人だという型嵌めがある程度できるように思うのだが、清水さんは既成の「詩人」のイメージからはみ出す部分が多く、それが魅力でもあり、お会いして言葉を交わすたびに知らない森に足を踏み入れたような感じがして、声の奥の声の谺に耳を澄ますことになった。
『古いアルバムから』は生涯で出会ったさまざまな「あなた」にあてて書かれている。幼くして亡くした自分の娘もふくめて。ヨーロッパの詩人たちについての詩が多いのだろうか。次の引用は「最初の日々」の冒頭より。これは長い詩で、自らの生涯を幼時から辿り直している。

 時間の水脈が消えてゆくと
 後にはなにも残らない。
 六十、七十、と数えられるのは
 水路図の上の数字だけで
 久しい歳月が宿したはずのものを
 私に語るどんな徴もそこにはない。
 水面には何も浮かんでいない。
 水辺の風景の影さえも揺れず、
 水面すらももう見えない。在るのは
 ここまで搬ばれてきた私の影だけだ。

    *

 母に手を引かれて歩いた道があった。
 黒くて、熱く、粘りっ気のある
 コールタールの臭気がまだ流されるまえの
 荷馬車の轍のある土を踏んで歩いた。
 路傍には ところどころに
 クヌギやコナラの木立が残っていて、
 私たちはそれを森と呼んでいた。(後略)

(池田康)
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2020年09月11日

佐藤聰明コンサートin東京「死にゆく若者への挽歌」

昨日、東京・南青山のMANDALAで開かれた、作曲家・佐藤聰明さんの作品を集めた上記コンサートを聴きにいった。都内へ赴くのは三ヶ月ぶり。こんな紛れもない都心に足を踏み入れるのは半年以上ぶりかもしれない。
第一部はピアノ曲二曲。ピアノ=佐藤慶子。最初の曲「星の門」は1982年の作品で、「この曲を書くまではわたしのピアノ曲といえば二台のピアノを多重録音したり、エレクトロニクスを用いた大音量の曲が多かったのですが、この曲を境に極端に音の少ない微弱な響きの音楽に一変しました。私にとって記念すべき曲です。」という作曲家自身の説明通り、音のまばらさに迷子になりそうな、幻のような浮遊感がある。
二曲目「藤田組曲」は映画「Foujita」(小栗康平監督)のために佐藤さんが作ったオーケストラ音楽をピアノ用に編曲し、組曲にしたもの。以前ある小さな会でこのピアノ版の一部を聴いたことがあり、そのときは鋭敏で透明な神経がすうっと伸びていって一本の樹木になるようなインスピレーションにみちた感覚があったが、今回は少し違っていて、冷静に用心深く音を置き重ねていく精密な創造活動というふうに聴こえたのは、組曲全体という絵巻を広げるためのデザイン的制御、すべてを予見する心配りが働いたからだろう。音を強く打ち出してその響きを十秒くらい聴いているといった箇所も印象的だった。重音の激しいフォルテシモの、パッションの爆発する瞬間があり、おそらく原曲のオーケストラ演奏では多数の楽器の音が豊かに重なって鬱蒼と鳴るところなのだろうが、ピアノだとその奥にひそむ作曲者のパッションの激した熱塊が前面に出てくる。オーケストラがコズミックなのに対して、ピアノは第一人称性が強いとも言えるだろうか。演奏する慶子さんは佐藤聰明氏の奥方だからさすがに曲に対する理解が深い。
第二部は歌曲集「死にゆく若者への挽歌」。バリトン=松平敬、ピアノ=中川俊郎。四曲からなる。一曲目はタイトル曲「死にゆく若者への挽歌」、これはWilfred Owenの詩で「どんな弔いの鐘があるというのか 家畜のように死にゆく者たちに」という詩句から始まる歌。もちろん英語でうたわれる。松平氏の質実剛健の歌声は、華麗に歌い上げるというよりも、歌声を石か煉瓦のように積み上げて堅牢な歌の建築をつくるような趣きがある。この曲は新しく作曲されたもので、あとの三曲はかつてニューヨークの音楽財団のために作られたものとのことだ。
二曲目は「凶器と少年」。やはりWilfred Owenの詩で、「さあ君にこの銃剣を触らせてやろう」から始まる。ピアノ伴奏のユニークな形のアルペジオ(分散和音)がとても魅力的で、きわめて美しい音の遊戯であり、いつまでも聴いていられる。しかし詩の内容は残酷で陰惨だ。
三曲目は「草」、これはCarl Sandburgの詩で、「高く積み上げよ アウステルリッツの死体と ワーテルローの死体を」で始まる。この曲のピアノは、佐藤さんの初期の曲を思わせるトレモロのような連続打鍵に終始し、その上に歌声が乗ると、やるせない、胸が塞がれるような感覚になる。
四曲目は「今日は死ぬのにとてもいい」、Nancy Woodの詩で、「今日は死ぬのにとてもいい」から始まる。この「Today is a very good day to die.」の部分が冒頭と中程と最後と三度にわたって繰り返され、素晴らしくよく響く。なだらかに上がっていくだけの単純な旋律なのに、なぜこんなにも感銘をもたらすのか、どうしたらこんなふうに訴求力強くうたえるのか。この夜の絶唱のピークをなしていた。
この歌曲集は戦争での若者の死をうたっているが、つい最近、S・キューブリックの「フルメタル・ジャケット」を見たばかりであり、またこのごろイタリアの詩人ウンガレッティが第一次大戦最中に戦場で書いた詩を読んでいたところだったので、相乗して余計に重く響いたように思われる。
(池田康)
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2020年09月02日

大橋英人詩集『パスタの羅んぷ』

パスタの羅んぷ画像s.jpg大橋英人さんの新しい詩集『パスタの羅んぷ』が完成した。洪水企画刊、四六判上製、88ページ。定価1800円+税。装丁は著者自身の手による。
帯文「寒いから死んでやる/サイレンも骨も知らず、ぼくは長くゴムのように時代を生きて来た。空き缶のように渇いた咳を声を宙へ 花と人と命の絵空ごとを旅してその伸縮を楽しんだ、言葉の詩空間。証明を生きる理由の珠玉の最新作17編。(川上明日夫)」
このベテラン詩人の最近5年の作品17篇を集める。子供時代に遡っての身近な人々にちなむ物語で第一部を、ダリ、ピカソ、ゴッホなどの画家やドン・キホーテなど小説上の人物をモチーフに、骨灰・砂・鉛などややネガティブな世界に多く足を向けたもので第二部を構成する。
詩集名の「羅んぷ」は、もともとは、作品「ピカソの、らんぷと仮面」に出てくる、ピカソの代表作「ゲルニカ」に描かれるランプに由来するのだろうと推測されるのだが、それが大橋さんの頭脳の中で高度にアクロバティックな化学反応を起こして「パスタの羅んぷ」となった模様だ。
読者はまず第一部の悲しいまでに重たい回想風景に胸が苦しくなり、次に第二部の、世界の現代に目を向けた、文明批評の要素も秘めたざらざらした諸篇に歩行の苦悩を経験することになるだろう。
作品引用は第一部の作品から取るのがいいような気もするのだが、この限りなくパーソナルな詩を気軽に引用していいのかという畏れも覚えるので、ここでは先に挙げた「ピカソの、らんぷと仮面」を紹介する。

 火じゃない
 炎じゃない
 私が問うのは
 ピザのようななまぐさいひづめ
 そのとっ先 ダチョウの足のような靴が
 闊歩する
 やわらかなこの世の、きしみ
 あらい砂
 爪とは
 やはり あつくておもいブリキのようなかさぶたであろうか
 こげるほど焼きすぎたかたいピザ
 ひづめも
 靴も
 その、膝がしらほどのはざま
 空きカンやビンであっても
 フライパンのように
 ランプのように
 ピザもパスタも
 笛の一つも 凶器のようなものだから

   アーちゃん、ボクはきっと
   ピカソのような 大きなおなかを
   まっかな空に描いてみせるよ

 あおむけの人形のような
 土かもしれない
 手足のような
 花かもしれない
 リアルなひまわりと凶器のらんぷ
 みぞとはいわぬ 人骨とはいわぬ
 さだかでない二つのらんぷ
 ま昼から
 いくたの仮面
 私は ただ
 その、とがったひづめの鼻で
 あまたの靴の、
 ピザとパスタを

(池田康)
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2020年08月21日

南原充士さんの小説

猛暑の山脈はそろそろ高度を低くしていくのだろうか。しかし今日も並大抵でなく暑かった。汗をバケツ一杯くらい出したような気がする。
さて、南原充士さんが小説「喜望峰」をAmazonでデジタル刊行した。下記のURLよりご覧下さい。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B08G4PM9W1/ref=dbs_a_def_rwt_bibl_vppi_i1
紹介文によると、大手商社勤務の主人公がある資源開発プロジェクトにかかわり苦労するという話のようだ。394ページとあるから相当な長編だろうか。

(池田)
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2020年08月20日

自然の多層を撮る

先日、カリフォルニアで夢のような農場を作るドキュメンタリー映画「ビッグ・リトル・ファーム 理想の暮らしのつくり方」(監督=ジョン・チェスター)を見た。広大な荒蕪地で夫婦が一から農園を作る困難な過程を描く。土を糞やミミズといった有機肥料とともに整備し、さまざまな種類の果樹や野菜を植えて、羊や豚や牛や鶏を飼い、という絵本の中の話のような農の生活で、商売的には大儲けできそうな農法とは思えないが、生命の循環が具合よく組み合わさり融け合った、まさしく「理想的」なあり方のように見える。これを何十年かけてというのではなく7年ほどで達成しているのが信じられない。いい導師を得たということだろうか。さらに、コヨーテや鷹や蛇までもを生活の仲間として迎えようというところまで農業生活思想が短期間に発展成熟していくところ、これも予想を上回った。監督がカメラマンということもあって、生きものたちの映像が美しい。
自然の驚異を伝える映像作品ということで言えば、ややスケールが小さくなるが、「さわやか自然百景」というNHKの小さな番組をよく見る(日曜朝)。特定の地域に住む小動物を追うのだが、見せ方が大仰でなく、さりげないところがいい。このあいだは北海道の森の粘菌の生態を紹介していて、南方熊楠はこういうモノを調べていたのかと、イメージとイメージがつながった。
(池田康)
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2020年08月13日

『八重洋一郎を辿る』の書評4

鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』の書評が新しく出た(「けーし風」107号)。新城郁夫氏による一文「鹿野政直氏の新著から考えること」。A5判の2ページ分だからかなりの分量だ。鹿野氏の思考方法、論じ方は、沖縄という既成イメージの陥穽におちいらないよう努力をしていて、それゆえの苦難や痛みもともなう、という指摘が重要ポイントか。以下は抜粋である。
「敵を指弾していれば沖縄「を」考えなくて済む。沖縄「を」問わないために問わせないために、必死になって沖縄「で」語るのである。このとき、沖縄は実に便利な方便となる。ところが、こうした書き方をこそ鹿野氏は遠ざける。あえて言えば、鹿野氏の沖縄に関する膨大な仕事の全てが、沖縄「を」沖縄「で」語ることへの抗いとして読みかえしていくことができると思うのである。」
「鹿野氏は、沖縄「を」語ろうとする自らの思考のなかに、沖縄「で」語ることのできない闇を抱え込む。しかし、この困難を迎え入れるときはじめて、沖縄「で」語ることのできない沖縄「を」予感していくことが可能となるだろうし、沖縄を生きようとする私たちのいのちのあり方が発見されていくことになるのかもしれない。八重洋一郎という「闇」を抱え込みながらいのちを問う鹿野氏の新著を読みながら、そうしたことを感じている。」
それから「図書新聞」3457号(7/25)の「2020年上半期読書アンケート」で鶴見太郎氏が本書を挙げて下さっている。
(池田康)
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2020年08月01日

遊音倶楽部 2nd grade その文学性

コロナウイルスの感染者がまた増えているそうな。もう「おしゃべり禁止」にするしかない。くだらない雑談も重要な打合せも直接面と向かってはダメ。会話は電話かメールか手紙でしてください。あるいは手話かテレパシーか伝言板か。沈黙は金、という格言をヴァージョンアップして、沈黙はダイヤモンド、にしよう。沈黙は純愛、でも、沈黙は仁義、でもよい。効果があるのなら。口に釦、舌に鎖。怪奇童話の世界だ。
余談はさておき。
絢香のカバーアルバム『遊音倶楽部 1st grade』はわが愛聴盤だが、このほど7年ぶりの第二弾『遊音倶楽部 2nd grade』が出た。聴いてみて全体的に感じるのは(この表現で射当てているか心許ないが)「文学性」への傾きである。それを説明するために、たとえばということで、中島みゆきの曲を挙げたい。『1st grade』には「空と君のあいだに」が入っていて、私としてはオリジナルの中島みゆきの歌唱よりも絢香のヴァージョンの方が好ましいように感じたのだが、それはなぜかというに、中島は芝居の感じで演じてうたっているのに対し絢香は真剣にその詞世界に没入してうたっているように聴こえるのだ。この曲はドラマ「家なき子」の主題歌だったから、フィクションですよという条件付けが中島の側にあるのだろう。絢香にはそういう意識はなさそうで、まさに「I mean it」というかんじでうたっている。そして今回の『2nd grade』には「糸」が収録されていて、やはりオリジナルと絢香ヴァージョンとは相当違っている。その違いが、今回の場合、文学性の方向への深彫りというふうに聴こえた。中島みゆきは歌詞を書く段階では言葉に寄り添って考え抜いて書いているだろうが、うたう段階では躊躇なく音楽的な美しさの高みを目指してうたい上げている。対するに絢香は朗誦風というか、音楽性への欲動を少し抑えて言葉をできるだけ裸形で表すように努力しながらうたっているように聴こえる。
「アポロ」や「フレンズ」でも同じようなことが言えそうだ。ポルノグラフィティの「アポロ」は、絢香がうたい始めたとき、「弱いな」と感じた。オリジナルの歌唱と比べ、楽曲の運動の速度も重量も抑えられている。この曲は難しいかと思いながら聴いていると、そのうちに説得され、聴き入ってしまっていた。そして何回か聴くうちにこのヴァージョンが「アポロ」だと思えてくる。純音楽的な強度を緩めながら、言葉をくっきりと立て、朗誦のゆとりの中に文学的なコメンタリーを刻み込むかのようだ。レベッカの「フレンズ」は、日本語でロック音楽は可能や否やの論争が激しかった時期を経て、自然に日本語ロック曲が作られ、うたわれ、流行歌としてロック愛好者のサークルを越えた大衆に浸透するようになる、そんな次の時期を代表するシンボリックな曲の一つであり、この曲をうたうとはその(ようやく自然に走れるようになった)ロックの疾走感とともにうたうことであるはずなのだが、絢香は走らせない。「脱ロック」を企てる。リズム感のやや乏しい弦楽中心の伴奏をバックに歩くモードでうたう。音楽の身体的運動性よりもむしろ言葉を彫り上げ刻みつけることに腐心するかのようだ。
ロックの身体運動重視に対してフォークシンガーは文学性が勝るとするも、絢香がフォークシンガーだというのは違うだろうが、言葉が言葉としてまざまざと立ち上がってくるうたいざまはフォークシンガーの理想型とも思える。島津亜矢もカバーアルバムを多く出しているが、この歌手は歌唱能力をポジティブに活かして音楽性の方向に思いきりアクセルを踏む仕方で独自色を作る。それに対してこのアルバムでの絢香は音楽性の方向へは適宜ブレーキをかけながら(グルーヴを殺して)、文学性とでも言うべき要素をそのゆとりの虚の部分に凝集させることによって自分の「自由研究」を営んでいるように見える。言葉と対話する歌唱。ポップソングを言語芸術として再誕生させようとする企図とも言えるだろうか。
(池田康)
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2020年07月23日

二冊の小説

最近、二人の女性作家の小説を読んだ。
まず、評判になっていた、ラーラ・プレスコット『あの本は読まれているか』(東京創元社、吉澤康子訳)、これはソ連の禁書『ドクトル・ジバゴ』の出版をアメリカ側が冷戦時の作戦とした話。CIAに勤める女性たちのもろもろの喜怒哀楽のエピソードも興味を引かないではないが、やはり作家ボリス・パステルナークとその周りの人々の法外な苦悩が胸に迫る。
もう一つは、ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』(講談社、岸本佐知子訳。フランス装が贅沢)、これはラジオだか雑誌だかで紹介されていたのをかすかに覚えていて、たまたま書店で見つけたので買って読んでみた次第。24篇の短篇小説のアンソロジー。重そうな鑿でためらいなくどんどん彫り刻んでいく豪快な筆致が魅力か。シニカルな意地悪い目、いや、なにも怖れない無敵の目の異様な輝き。タイトル作は、なるほど、ふてぶてしくて面白い。「いいと悪い」はこの難問の話にどうやって結着をつけるのだろうと思いながら読んでいったが、この作者らしくあっけなく現実的な、ゴルディアスの結び目を切るような終わり方になっていた。とりとめのない(詩のような?)小品もいくつもあるが、自伝的要素の濃い諸篇も並んでいて、この人の円満さを欠いた、無茶な傷だらけの人生が垣間見えてくる。暗転という舞台用語は実人生では無限のニュアンスをはらんで地獄の書き割りを動かすことがわかる。
(池田康)
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2020年07月14日

「虚の筏」25号

「虚の筏」25号が完成した。参加者は、酒見直子、海埜今日子、平井達也、たなかあきみつ、小島きみ子、二条千河、久野雅幸のみなさんと、小生。下記リンクからご覧下さい。
http://www.kozui.net/soranoikada25.pdf
(池田康)
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2020年07月12日

「一度も撃ってません」のことなど

雨が続いている。全国各地でひどい水害が発生しつつある。冬からのウイルスの大波と合わせ、一難去らずにまた一難で、2011年についで生きづらい年になっているようだ。
この一週間の水害報道で印象に残ったのが、濁流に破壊される橋の映像だ。一つだけでなくいくつも見たように思う。橋と言えば「troubled water」の上に雄々しく架かる頼もしいものというイメージがあっただけに、経年の傷みもひそんでいたのかもしれないが、もろく崩れ流される映像の悲痛さには言葉を失った。
やまない雨のたまさかの小休止の時間帯をとらえ、映画「一度も撃ってません」を見に出かけた。石橋蓮司主演作。監督・阪本順治、脚本・丸山昇一。昨年「あらかじめ失われた恋人たちよ」(1971)をDVDで見て一文をしたためた者としては、その主演二人が出ている今作は見逃せない。同窓会的な遊びの一本かとも予想したが、そうではなく、集中力をこらした本気が漲る。一つ一つのシーンが通常の映画とはちがう艶あるいはリズムを帯びているような微妙だが異様な感覚があり、映画は光でできているわけだが光が蜜やアルコール成分を孕むこともありうるのか、特別な被写体にカメラが感応することもままあるのかもと埒もないことを考える。変な言い方だが、「人間」が存在しているという否み難くしたたかな感じがあり、それは1960年代、70年代の真ん中をくぐり抜けてきた人間たちであり、その空気がスクリーン上に濃く現われている。地下バー「y」(原田芳雄にちなむ命名)での場面はことにその傾きが顕著だ。石橋蓮司、桃井かおり、岸部一徳、大楠道代のぶつかり合う演技の瞬間は、感心とか感銘とかを越えて、なにかガツンとくるものがある。このバーのカウンターに腰かけて桃井かおりが「サマータイム」をうたう場面はみごとで、ここだけ切り取って額縁に入れておきたいくらい。この前後の一連は今年の日本映画の一番の見モノとなるだろうと憶測するがどうだろうか。最初から最後までジャズが鳴っているのは60年代への懐旧か、そのスピリットを召喚しようとしているのか。「troubled people」ばかりが登場する映画で、その上に壮麗で立派な橋が架かるのかどうかわからないが(なさそうに見えるが)、それがないところでのジャズ祭的右往左往の放浪がこのpeopleの生きる本領なのだろう。
パンフレットはインタビューや座談会も収録されていてありがたく、金澤誠の文章「アウトローたちの50年/彼らの矜持が生み出した余裕のコメディ」は役者たちや映画制作者たちの歩んで来た道のりとその交差の歴史図を簡潔に描き出して、とても参考になる。

(池田康)
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