南川優子さんがメールでお知らせくださったのだが、彼女の詩作品がBBCで朗読されたのだそうだ。以下は南川さんの言葉:
別の話ですが、先週末、イギリスの国営放送BBCのラジオ番組Words & Musicにて、わたしの英詩が読まれました。BBCはラジオ番組については、受信料払ってなくても海外からオンラインで 聴けるそうで、この番組もあと24日間有効とのこと。
題名と名前は読まれませんが、18分13秒のところから始まります。
作品と音楽のリストは、ページの真ん中あたりのRead moreをクリックすると読めます。 もしご興味あれば。
https://www.bbc.co.uk/sounds/play/m001qfrv
ちなみにこの詩の日本語版は、詩集「スカート」にも入っています。
英語版は、
https://www.nationalpoetrylibrary.org.uk/online-poetry/poems/key
*****
もとの作品の日本語タイトルは「鍵」。
9月24日にもらったメールなので、有効期限は10月中旬か。
(池田康)
2023年10月01日
南川優子さんの詩がBBCで朗読される
posted by 洪水HQ at 10:31| 日記
2023年09月23日
カリカリの日々、そして壁画13号
このカリカリは擬音語ではなく、あゝじれったい、むしゃくしゃする、やりきれない!の方の意味である。その一番の要因は、「みらいらん」次号に予定している小特集「『夜のガスパール』と詩の場所」に参加してくれる人を探しているのだがなかなか見つからないこと。テーマが特殊だから仕方がないところもあるが、そうするとほぼ一人で仕上げなければならず、これはひじょうな重圧であり難題だ。
この小特集の資料として書籍をネット経由で古書店に注文するも、待てど暮らせど届かず、諦めかけていたところようやく届いたのだが、スマートレターで投函して8日目に届くという法外なのろさ、ありえない悠長さ、ひょっとしたら誤配達などを経由していたのだろうか、郵便局にはしっかりしてもらいたいもの。
壁画13号を作った。下記リンクからご覧下さい。連休のつれづれのおなぐさみに。
http://www.kozui.net/artnote/hekiga/hekiga13.pdf
(池田康)
この小特集の資料として書籍をネット経由で古書店に注文するも、待てど暮らせど届かず、諦めかけていたところようやく届いたのだが、スマートレターで投函して8日目に届くという法外なのろさ、ありえない悠長さ、ひょっとしたら誤配達などを経由していたのだろうか、郵便局にはしっかりしてもらいたいもの。
壁画13号を作った。下記リンクからご覧下さい。連休のつれづれのおなぐさみに。
http://www.kozui.net/artnote/hekiga/hekiga13.pdf
(池田康)
posted by 洪水HQ at 12:16| 日記
2023年09月07日
虚の筏32号
「虚の筏」32号が完成しました。参加者は、小島きみ子、生野毅、伊武トーマ、神泉薫のみなさんと、小生。下記リンクからご覧下さい。
http://www.kozui.net/soranoikada32.pdf
なお今回は、この夏に出会った百合たち(山百合、鬼百合、かのこ百合、鉄砲百合とその亜種)で飾った。
ついでに。
この夏は「星時計の書」という詩誌の制作にもかかわりました。こちらもご覧になる機会があったら注視していただければ幸いです。
(池田康)
http://www.kozui.net/soranoikada32.pdf
なお今回は、この夏に出会った百合たち(山百合、鬼百合、かのこ百合、鉄砲百合とその亜種)で飾った。
ついでに。
この夏は「星時計の書」という詩誌の制作にもかかわりました。こちらもご覧になる機会があったら注視していただければ幸いです。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 09:02| 日記
2023年09月02日
日々つづる思索の書
清水茂『カイエ・アンティーム』(土曜美術社出版販売)は昨年11月に刊行されたものだが、いただいたもののずっと棚上げになっていた。1983年から2001年にいたる日記のような覚書きを集めた550頁を越える大冊であり、ちゃんと読み通す根気を維持するのは難しそうで。
今回、本の山から取り出してみると、白いカバーが少し汚れてしまっていて、それで申し訳なく思い、現在の自分の関心に重なるような記述はないかと、かなり丁寧に頁を繰ってみた。
音楽についての覚書きが目につく。清水さんとは何度かお話しする機会があったが、音楽の話は出なかったので、これは意外だった。ミカラ・ペトリやフランス・ブリュッヘンといった木管楽器(リコーダー、フルート)の名手についての記述があり、これらの人たちの演奏は私も妙に感じるところがあって、たとえばブリュッヘンが演奏するコレッリのソナタはそんな特別な名曲というのでもない一通りのバロック音楽だが、なぜか聴き入ってしまうのだ。
ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場の「フィガロの結婚」を上野の文化会館で見た感想は熱が入っていて、モーツァルトの天才ぶりが力説される。私もつい最近DVDでカール・ベーム&ウィーンフィルの「フィガロの結婚」(1975年。往年の名歌手たちが出演している。映像は舞台そのままではなく別撮りで映画風に再構成されていて変な感じもする)を視聴し、モーツァルトはなんとしてもオペラ作品を聴くべしと痛感したところだったので、共感するところ大だった。
395頁の詩人論、403頁の夢論も目に留まる。夢といえば、最後のセクション「雲の動きのように1999-2001」では実際に見た夢の記述がいくつか残されていて、清水氏の意識が今そこにあるかのように生々しい。
次のような率直な、研ぎ澄まされた記述もある。
「いまここに、私はいて、ほとんどもののレヴェルで存在していて、その限りではテーブルや椅子やコーヒー茶碗と何ら変りないのに、その私がこうして考えたり、書いたりしているということの不思議さ。これはほとんど奇蹟のようなものだ。このことの最良の部分を愚にもつかないつまらないことのために費い尽してしまってよいものだろうか。」
この本に劇的なハイライトがあるとすれば、イヴ・ボヌフォアが愛媛県の正岡子規国際俳句賞第一回大賞を受賞して講演のために来日した時、駆けつけて再会を果したシーンだろうか。歓喜の特別の輝かしさが感じられる。
清水茂氏は2020年1月に逝去されている。
(池田康)
追記
アーノンクール&ウィーンフィルの「フィガロの結婚」(2006)もDVDで視聴、こちらは舞台上演をそのまま映像にしていて(ところどころで拍手も入る)、この方がポエジーの成分が多いような気がするのは、演出家の劇創造のリズムと狙いが純正な形で響いていくるからだろうか。「辛口の演出」と形容されていて、コメディであるはずの劇が今にもシリアスな出口なしへと突っ込んでいきそうな危うさがある。
posted by 洪水HQ at 18:00| 日記
2023年08月23日
ラヴェルがふかした煙草は……
本ブログ昨年9月6日の項で、ストラヴィンスキーとの関わりで作曲家フロラン・シュミットに言及し、初めて聞く名前とも書いたが、最近わけあってモーリス・ラヴェル関連の文献を読んでいて、その中にラヴェルの音楽学校の同級生としてこの人物が出てきた。ラヴェルもフロラン・シュミットの音楽を相当に認めていたようだ。
ラヴェルはドビュッシーと並び称されることが多いが、年代的にはむしろストラヴィンスキーと並べるのが妥当のようで、二人でムソルグスキーの曲のオーケストレーションの共同作業をしたりもしている。シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」を聴いて感銘を受けたストラヴィンスキーがラヴェルと語らって同じような編成の歌曲組曲をそれぞれが作ったという出来事もある。ストラヴィンスキーと、ラヴェルを含むフランス人作曲家たちとは親しくしていたようであり、それでフロラン・シュミットとストラヴィンスキーとのかかわりも生まれてくるわけだが、H・H・シュトゥッケンシュミット著『モリス・ラヴェル その生涯と作品』(岩淵達治訳、音楽之友社)には次のような記述もある。
「ロシア音楽に対するラヴェルの神経質な感受性は、彼を早くからストラヴィンスキーの先駆者かつ友人に仕立てあげた。一九一〇年から一九三二年に至る年月の間、このふたりの音楽家の間には、親密な一致と多面的な相互関係が存在していた。その関係は、純粋に色彩的なものを越えた和声的、リズム的な語法においても確認できることである。ストラヴィンスキーのバレエ総譜は、『春の祭典』に至るまで、ラヴェルをモデルにした二、三の箇所なしには考えられない。」
またジャン・エシュノーズのラヴェル晩年を描いた小説『ラヴェル』(関口涼子訳、みすず書房)では、1927〜8年のアメリカ渡航時、「ラヴェルは五十二歳で栄光の頂点にあり、世界でもっとも重要視されている音楽家の座をストラヴィンスキーと二分している」との記述もある。互いに認めあった二人だったから、音楽上の有形無形の貸し借りはあるのだろう。
ラヴェルの生涯には、ローマ賞を得られなかった件、ハウプトマンの「沈鐘」のオペラ化を第一次大戦によって断念したこと、悲愴感にみちた従軍のエピソード、死に至る数年の悲劇など、哀切な事どもも多い。そんな中で瑣細なことを持ち出すのは恐縮なのだが、ラヴェルについての謎の一つは、彼が愛好した煙草の銘柄はなんだったのかということだ。シュトゥッケンシュミットの本ではラヴェルは「カポラル」にこだわったと書いてあるが、エシュノーズの本には彼は「ゴロワーズ」をトランク一杯につめてアメリカ旅行に持っていったとある。ラヴェルの音楽に似合いそうなのはどちらだろうか?
(池田康)
posted by 洪水HQ at 16:19| 日記
2023年08月15日
宮崎駿新作とパルジファル
宮崎駿監督の新作「君たちはどう生きるか」は戦時中の一少年の心的体験の物語だが、亡き母が残した一冊の本の表紙に描かれた鳥がアオサギとなって主人公をファンタジー世界に案内するのだとしたら、このファンタジー部分は彼がこの本を読む行為に相当し、夢魔的(神経症的)空想を最大限に羽ばたかせて創造的読書を完遂したのだとも考えられる。
人間の役者を使ってリアリズムベースでドラマや映画にするとしたら、母の妹と父親とがどのように親しくなったか、母と妹との関係、この叔母(継母)と主人公との過去の出会い、などについて近代文学式に丁寧に書き込んで物語を重厚にするところだろうが、そこを省いて一気にファンタジー世界へと飛ぶところがアニメでありジブリの論理なのだろう。
ところで、この「君たちはどう生きるか」は、ワーグナーの舞台神聖祭典劇「パルジファル」にどこか通じていないだろうか?
そんなことは映画を見ている間はまったく考えなかったが(そんなひらめきが即座に出てくるほどワーグナー通ではない)、先日、2008年バイロイト上演の「パルジファル」をMDに録音してあったのを聞き直していて、ふと、そんな考えが浮かんだのだった。ファンタジー(クリングゾルの城)に飛ぶところもそうだが、時代の根幹が負った傷、社会が幾代も引き継いできた深い傷(それは悪でもある)と向き合い、癒しの可能性を問う、という点で近いところがあるように思われる。巨匠が晩年にそのような人類宿痾の問題に目を向け、それをシンボリックな物語の構成の中で神学的にあるいはメルヘンの理法で救済したいという思いと努力は両者に共通する志向として感じられる。老大家の熟れ切ったマナコがなにかを検知し懸命に見定めようとする凝視から、このような超現実の色濃い霊的怪作が生まれてくるのかもしれない。
(池田康)
追記
調べてみたら「パルジファル」の録音は上記のものに加えて、2005年バイロイト、2006年バイロイトと三種類あった。このころはワーグナーに熱を上げていたのだろう。この作品のタイトルは「パルシファル」だと思い込んでいたのだが、諸々の資料で「パルジファル」となっているのでそうしておいた。シンガーがジンガーになるとか、ドイツ語では濁って発音するのだろう。濁音がない方がきれいだが。
今ではFM放送のエアチェックは我が家では難しくなった。そこそこいい音で受信できるのだが、室内アンテナだからか、録音機をオンにすると何か拾うのか少しノイズが出るのだ。ICレコーダーを使う方法もあるが、ステレオミニプラグは不安であるし、音量調整が厄介だし、音声データのまま残しておくのはおぼつかないし、音楽用CDに焼くにしても80分しか収まらないし……と消極的要素が多くて実行する気になかなかなりにくい。
posted by 洪水HQ at 09:05| 日記
2023年08月13日
愛敬浩一著『草森紳一は橋を渡る』

袖の案内文は愛敬さん自身がまとめたもので、
「草森紳一の絶筆≠ニも言うべき連載「ベーコンの永代橋」では、死の間際までマンガ『スラムダンク』読み続け、その意志的な「雑文」のスタイル≠ェ天上の高みへとのぼりつめる。二〇〇八年三月十九日、永代橋近くの、門前仲町のマンションにおいて、草森紳一が七十歳で亡くなってから、十三忌も過ぎた。本書は『草森紳一の問い』、『草森紳一「以後」を歩く』に続くシリーズの第3弾。未刊の連載原稿(副島種臣論など)は、今後どうなるのか。慶応義塾大学中国文学科卒業後、ごく短い編集者生活を経て、様々なジャンルの文章を書き続け、毎日出版文化賞を受賞した『江戸のデザイン』の他、草森紳一の専著は六十四冊(増補版や復刊も含む)、対談本が一冊、共著が一冊。改めて、若き日の『ナンセンスの練習』の重要性に思い至る。」
となっている。
「橋を渡る」とは草森紳一の連想の働き方、思考の歩み方をシンボリックに表現したもので、ことに一つの現実存在「永代橋」は草森自身の生活拠点であり重要とされる。
絶筆の連載「ベーコンの永代橋」を読み込んで草森の雑文スタイルの意味を考える第一部が本書のメインとなると言える。草森論三冊目にして愛敬さんの思考は問題の本丸に最接近したかのようだ。草森紳一晩年の風呂敷を縦横に広げる文筆スタイルをこの時代の批評のもっとも可能性を孕んだあり方の一つとして、愛敬さんは評価しようとしているのではないか、そんな気がする。
第二部では、ドラマ『妻は、くノ一』を出発点とする松浦静山論、小説集『鳩を喰う少女』の「橋」的な眼目、『歳三の写真』の写真術創成期と土方歳三の生涯との交点の考察、対談集『アトムと寅さん』に見る草森の映画観、といった事柄が論じられる。
草森紳一の見えにくい本領にさらに一歩近づく一冊と言えるだろう。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 08:28| 日記
2023年07月21日
「現代短歌」9月号(98号)
「現代短歌」9月号が完成、私も寄稿しているのでご覧下さい(書評=佐々木漕歌集『天飛む』)。
なお、この号は特集「寺山修司没後40年」が組まれている。寺山と塚本邦雄の関係を考える瀬口真司「最後の読者」、寺山と尾崎左永子の関係を考える嵯峨牧子「二人のシンクロニシティ」、歌人・今野寿美と俳人・佐藤文香の対談「寺山修司は寺山修司をいかに創作したか」など。
特集で紹介されている寺山の短歌や俳句を読んでいると、彼の言葉との格闘での暴れぶり、そのなかでの細心さ、抒情と虚構の兼ね合いの卓抜さを強く感じる。
向日葵の顔いっぱいの種かわき地平に逃げてゆく男あり (歌集『空には本』より)
(池田康)
なお、この号は特集「寺山修司没後40年」が組まれている。寺山と塚本邦雄の関係を考える瀬口真司「最後の読者」、寺山と尾崎左永子の関係を考える嵯峨牧子「二人のシンクロニシティ」、歌人・今野寿美と俳人・佐藤文香の対談「寺山修司は寺山修司をいかに創作したか」など。
特集で紹介されている寺山の短歌や俳句を読んでいると、彼の言葉との格闘での暴れぶり、そのなかでの細心さ、抒情と虚構の兼ね合いの卓抜さを強く感じる。
向日葵の顔いっぱいの種かわき地平に逃げてゆく男あり (歌集『空には本』より)
(池田康)
posted by 洪水HQ at 16:19| 日記
2023年07月12日
通信の神秘
生野毅さんが今週末の15日(土)18時から、「新・剪灯新話 ─歌と詩と絵画と─」というイベントをYO-EN、黒須信雄の両氏とともに開催するそうだ。場所はギャラリー・ビブリオ(国立市)。3000円、要予約。生野さんのパートは怖い話(詩?)になるらしい。こういうお知らせをもらうと、ちょっとそそられる。そのありさまを空想するだけで心踊るような気分になる。
少し前、映画「インターステラー」(クリストファー・ノーラン)を見るのとほぼ同時に、佐藤史生のマンガ「夢みる惑星」の何度目かの読み返しをしていたのだが、たまたま重なったこの両者になにか共通点があるように感じた。どちらも天変地異の大災害にみまわれ、そこからどう逃れるかという話になっているのだが、そのなかで通信の神秘、交感の奇跡がクローズアップされる。その特殊な力が生き延びるための奥の手となるのだが、こういう危機的状況だからこそ目覚めた心的機能なのかもしれず、そんな状況だから一層その働きが映えるということもあろう。シャーマニックで魔術的な通信は重大局面では啓示となり、なにかのための手段であることを越えて、それ自体が価値となる、ように見える。しかしそれは案外いたるところにその萌芽がひそんでいるのではないか。描かれた絵も、ピアノの音も、鬼百合の姿も、風に翻る裳裾も、こちらになにかを伝えてくるわけで、それが「神秘」に格上げされる瞬間がまれにあり、我々はその時あたかも「カタストロフィから救われた」ような感覚になる……いや、もしかしたら、むしろ逆に、不気味なカタストロフィ幻想に急襲される、のだろうか。いつどこで生ずるかもしれない〈通信の神秘〉は世界を読み解く表徴であり、世界を刷新する亀裂の痛みである、と言われているような気がする。
そもそも通信が成立するということはささやかな神秘であり(かつ、世界が組織される基本となるアクションである)、特別な通信の成立はまさに特別な僥倖である。そしてなにげない通信が一転、特別な通信に変化する驚愕も、つねに期待したいところだ。
(池田康)
少し前、映画「インターステラー」(クリストファー・ノーラン)を見るのとほぼ同時に、佐藤史生のマンガ「夢みる惑星」の何度目かの読み返しをしていたのだが、たまたま重なったこの両者になにか共通点があるように感じた。どちらも天変地異の大災害にみまわれ、そこからどう逃れるかという話になっているのだが、そのなかで通信の神秘、交感の奇跡がクローズアップされる。その特殊な力が生き延びるための奥の手となるのだが、こういう危機的状況だからこそ目覚めた心的機能なのかもしれず、そんな状況だから一層その働きが映えるということもあろう。シャーマニックで魔術的な通信は重大局面では啓示となり、なにかのための手段であることを越えて、それ自体が価値となる、ように見える。しかしそれは案外いたるところにその萌芽がひそんでいるのではないか。描かれた絵も、ピアノの音も、鬼百合の姿も、風に翻る裳裾も、こちらになにかを伝えてくるわけで、それが「神秘」に格上げされる瞬間がまれにあり、我々はその時あたかも「カタストロフィから救われた」ような感覚になる……いや、もしかしたら、むしろ逆に、不気味なカタストロフィ幻想に急襲される、のだろうか。いつどこで生ずるかもしれない〈通信の神秘〉は世界を読み解く表徴であり、世界を刷新する亀裂の痛みである、と言われているような気がする。
そもそも通信が成立するということはささやかな神秘であり(かつ、世界が組織される基本となるアクションである)、特別な通信の成立はまさに特別な僥倖である。そしてなにげない通信が一転、特別な通信に変化する驚愕も、つねに期待したいところだ。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 19:44| 日記
2023年07月09日
「虚の筏」31号
「虚の筏」31号が完成しました。
今回の参加者は、海埜今日子、小島きみ子、二条千河、平井達也のみなさんと、小生。
下記リンクからご覧ください:
なお、音符たちは8分の9拍子の名曲からかっさらってきました。
(池田康)
追記
二条千河さんが『詩の檻はない 〜アフガニスタンにおける検閲と芸術の弾圧に対する詩的抗議』というアンソロジーに参加するそうです。
二条さん曰く、
「来る8月15日、北海道詩人協会事務局長・柴田望さん編集による書籍『詩の檻はない 〜アフガニスタンにおける検閲と芸術の弾圧に対する詩的抗議』がデザインエッグ社よりオンデマンド出版されることになりました。
オランダに亡命中のアフガン詩人ソマイア・ラミシュ氏(亡命詩人の家「バームダード」代表)がタリバン暫定政権から出された詩作禁止令に抗議するために今年3月に世界中の詩人から募った100編超の詩作品のうち、36名の日本詩人と21名の海外詩人の作品を収録したアンソロジーです。
私自身も書き下ろしの詩にて参加、また校正者としても奥付に名を連ねております。書籍はすでにAmazonにて予約受付中です。
※フランスでも同趣旨の書籍出版準備が進められておりそちらにも日本詩人一同の作品の仏語訳が掲載される予定です。」
この本と関連イベントのチラシ:
posted by 洪水HQ at 09:52| 日記