2019年10月10日

トークイベント 野村喜和夫×阿部日奈子「未知への痕跡〜読む行為が書く行為に変わる瞬間〜」のお知らせ

洪水企画&エルスール財団共同企画トークイベント
野村喜和夫の詩歌道行B
野村喜和夫×阿部日奈子
未知への痕跡〜読む行為が書く行為に変わる瞬間〜

阿部さんは主知的にして想像力あふれる詩人ですが、この秋、詩集『素晴らしい低空飛行』を上梓されました。一方私も、訳著『ルネ・シャール詩集 評伝を添えて』を刊行しました。この二冊を起点に、読む行為と書く行為のダイナミズムが浮かび上がればと思います。(野村)

日時:2019年11月2日(土曜日)15:00〜17:00 (14:30開場)
場所:ブックカフェ「エル・スール」(詩とダンスのミュージアム内)
(世田谷区羽根木1−5−10)
入場料:2500円(+1drink order)
申し込み方法:メールで。エルスール財団info@elsurfoundation.com

※ 会場への地図はこちらをご覧ください。

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2019年10月06日

カワセミ

今月から消費税が上がった。気が滅入るが、先ごろ石巻へ行って心の体重が10%ほど軽くなったような気がしていて、その「石巻効果」で相殺され今のところイーブンを保っているようにも思う。このありがたい効果がどれだけ続くかわからないが。
遠くへ赴くことはそれだけで生活意識の刷新のきっかけになるのかもしれず、最近出た、そんな気分にどこか通じていそうなCD、Ayuo「Outside Society」と、Marewrew「mikemike nociw」(アイヌの合唱アンサンブル)を入手して聴いたりもしていた。
そして今日、昼食のために散歩に出たら、近所の小川でとても珍しいもの、艶やかな青と緑のカワセミを見つけた。この鳥に出会ったのは初めて。こんな美しい生物がこの世に存在するのかと驚く。造物主か、進化論か、なにか知らないが、不公平じゃないか……と言いながらも、みごとに美しい鳥を見れば心も鳥の体重分くらいは軽くなる。
今日はまた遊ぶ少年をたくさん見た。グラウンドで野球やサッカーをする少年達、自転車をりんりんと乗り回す少年達、川遊びする少年達。躍動する彼らの姿のかがやかしさ。(池田)
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2019年09月27日

「詩人の家」のこと

24日から25日にかけて、石巻で開催されているReborn Art Festivalの一環である、吉増剛造さん主催の「詩人の家」(牡鹿半島の鮎川というところにある)に生野毅さんと宿泊の形で参加してきた。この旅の詳細については生野さんが「みらいらん」次号に書くと思うので、差し控えるが、少しだけ。
吉増さんが作品制作を進めているホテルニューさか井の一室を訪ねたのだが、机には詩稿の下書きと浄書の紙の束があり、海に面した窓のガラスには「鯨(いさな)」を中心とした詩のフレーズや黄色・黄緑色(ブラジルの色)の線が描きこまれてガラス絵のようになっていて、生々しい詩の生成の現場を呈していた。部屋にはヴァレリー・アファナシエフの弾くベートーヴェンのピアノ曲が流れ、壁の片隅にはゴッホの「カラスのいる麦畑」の写真版が飾られていた。ベートーヴェンは「むきだしの本気」の人であり、ゴッホもそう。吉増さんもここで「むきだしの本気」のモードに入っているのだろうか。
桃浦の小学校の展示や島袋道浩作品「白い道」など印象的な経験をへて、この「詩の部屋」は強烈なクライマックスであった。そして旅を通して石巻が幻めいて優艶に発光しているかのような感覚があった。
(池田康)
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2019年09月21日

背筋が伸びる

先日、仕事で信州に足を運んだ。空気がいいとか食べ物がうまいとか風景の(物語がまどろんでいるような)濃厚なのどかさとか魅力はたくさんありそうだが、なによりも北アルプスの堂々たる山容が素晴らしかった。ただただ高い。眺めているだけで、背筋が伸びる気がする。
育てている朝顔に白い花が咲いた。その株は遅れて芽を出したもので、他の先に大きくなった株に栄養を奪われるためかいつまでもひょろっとして貧弱で蔓もさほど伸びず蕾を用意する気配もなくこれはだめだと諦めていたのだが、9月も中旬になってやっと花をつけた。それが雪のように真白の花で、いきなりの出現に息をのんだ。もともと白い花の血筋なのか、それとも栄養不足で色素を作る力がないのか、それはわからないが、真白の朝顔はなんとも清らかだ。
ラグビーのW杯が始まった。ラグビーの魅力をわかりやすく紹介してくれるのでドラマ「ノーサイド・ゲーム」は途中から見ていたが、最終回、親会社の社長がどこかの外国のチームの試合前の儀式を解説するなかで詩(?)の朗読をして、ラグビーという競技の単なるスポーツを超えた、相撲に似た神聖な祝祭の性格を明らかにする一幕があり、これも心身に厳粛な感覚が流れた。
以上、背筋が伸びる話いくつか。
(池田康)
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2019年09月11日

修行僧よりも強い草木や虫

台風15号は一晩中吹き荒れていて、やたらと建具がきしみ、本当に恐かった。気象記録的にも強大な台風だったそうな。外に出していた朝顔がなんとか形と命を保っていたのは不思議なほどだ。翌日は台風一過の晴れで気温も上がり、世の中はもう正常に戻っているだろうと過信したのが間違いで、鉄道で近隣の街へ行ったら下りの電車はまともに動いておらず、満員のバスで長時間かけ苦労して帰ってくるはめになった。その疲れで頭痛を発症し、まだ余韻が続いている。停電などで困っているエリアもまだあると聞く。襲来の最中も恐怖の野分だったが、去った後に思いがけない諸々の困難が待ち伏せていたという次第。近所の木々は、たくさん枝葉をもぎ取られたものの、倒れた木はなさそうだ。夜になるとすだいていた虫のことも気になり、五分の魂の輩は軽く一掃されてしまったのではないかと心配したが、昨日の晩は何事もなかったかのように鳴いていた。生き延びたらしい。彼らはそれなりに強い。あの風雨に打たれて一晩立っているのは中世の不撓不屈の修行僧でも困難だろう。
(池田康)
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2019年09月04日

兄弟、姉妹、双子と父母

先月の九州旅行で伊万里〜柳川あたりを車で走っていたときに、そういえば九州を舞台にした「奇跡」(是枝裕和監督、2011)という映画があったねという話になった。主人公の兄弟(前田航基・前田旺志郎演じる)は、離婚した両親に一人ずつつきそい、兄は母と鹿児島に、弟は父と福岡に住んでいる。九州新幹線開通の日、上り下りの一番列車がすれ違う瞬間を目撃したら奇跡が起こるという説を信じ、仲間とともに北と南から出発し、熊本あたりの中間地点で落ち合い……という少年少女冒険譚。兄弟が願っていたのは再び一家四人で一緒に暮らすことだったはずだが(「世界か家族か」というけったいな二択に陥ってしまい願掛けせず)、結局その「奇跡」は起きなかったようだ。この結末のありかたが気になったのは、最近読んだ『ふたりのロッテ』(ケストナー著)が似たストーリー設定で絵に描いたようなハッピーエンドだったのを思い出したから。両親の復縁の糸口までもっていけば作品の感動の要素も増して下世話な話だが観客動員の面で当たりも一層とれただろうに、そうしなかったのは、納得できる形でそこまでもっていく脚本を作るのが難しいということもあったやもしれぬが、監督のあざとさを嫌う映画思想から来ているのかもしれない。あるいは『ふたりのロッテ』を意識して、なぞるのではなくひねりを加えたということか。父親から兄に伝えられた「世界」の観念はさらに兄から弟へと伝わる、しかし帰宅した弟が「とうちゃん、世界ってなんなんやろな」と訊くとお父さんはボケに走り、答え合わせの答えが合わないところ、可笑しすぎる。
『ふたりのロッテ』は(『エミールと探偵たち』を読んだ勢いで同じ作者のこれも楽しんだ次第)、双子のロッテとルイーゼが主人公で、両親は双子姉妹がもの心つかない頃に離婚して、ロッテは母とミュンヘンに、ルイーゼは父とウィーンに住んでいる。夏休みの子供休暇村で偶然出会った二人は両親をもう一度一緒にさせようと、ロッテはルイーゼになり切ってウィーンへ、ルイーゼはロッテの振りをしてミュンヘンへ行く……という話。いろいろ波乱はあるものの、最後は父と母が仲直りするというハッピーエンドで終わる。児童文学ゆえの常套で、そうでなければ子供の読者からやだやだときびしく文句を言われかねない。子供のための物語だからそうしてあげたいというやさしい要請のほかに、ただの兄弟というのではなく双子であることで互いの思い入れ、協力体制がより強いのかもしれず、さらにロッテたちは「奇跡」の子供たちよりも実際的で踏み込んだ大胆な作戦を遂行している。運命の大きな地形図を変えてしまう双子マジックおそるべし。
双子と言えば、川端康成の『古都』がある。京都を舞台にし、四季の祭を要所に配した、われわれ田舎庶民には手も足も出ない京都の審美感が随所に光る小説。千重子と苗子は双子だが、千重子は捨て子で、中京の呉服問屋の夫婦に拾われて育ち、苗子は父の生業である林業の仕事につき北山で暮らしている。二人は祇園祭の夜に出会い……という話。「奇跡」や『ふたりのロッテ』で考えたハッピーエンドという問題について言えば、千重子たちの実の両親は既に死んでいて、パーフェクトな一家団欒の可能性はあらかじめ無惨に刈り取られている。では二人の行く末はどうなるのかというと、それを描く前のところで物語は終わっている。男女のやりとりなど恋愛物的な展開もあるにせよ、それがどうなるかという興味よりもむしろ、古都の風物を描き込むとともに、捨て子だからだろう、千重子の結婚についてもなんについても「両親には絶対服従」という苛烈な覚悟や、苗子の感じる千重子との「身分差」、千重子の幸福の邪魔には絶対になるまいという寂しい決意がひびかせる抒情を感じることが小説にとって大事だったのだろう。最後の場面、千重子の部屋で苗子が一夜を過ごす、雪が降ってくる、というシーンは、三好達治の詩「雪」の引用のようにも思われる。この詩は与謝蕪村の「夜色楼台雪万家図」につながっているというエピソードを今の我々はどこかで聞き知っているのだが、川端が執筆時にそのことを知っていたかどうかわからない、しかしこの雪景色の絵は京都の風景であろうし、この絵、そして詩「雪」にインスピレーションを得て、そこから逆算して作家は京都の太郎・次郎の物語を組み立てていったのではないかと想像してみるのも一興だ。引用と言えば、小説のはじめの方で谷崎潤一郎の『細雪』の一節も引用されている。しかし谷崎の描く女人と川端の描く女人はずいぶん違う。『細雪』の主人公の雪子はでしゃばるでもなく姉や妹と比べても大人しい性格だが、それでも見合い話を幾度となくつっぱねるなど我を通すところは遠慮なく通す。谷崎にとって女はエゴイスティックで肯定的な、地上の幸福を体現する存在だ。しかし『古都』の千重子は義理の両親に「絶対服従」と言うし、苗子は千重子とは身分が違うから「お嬢さんの、おしあわせに、ちょっとでもさわりとうないのどす」と誓う。この古いと言えば古い、今どきの女性からすれば頭が変なんじゃないということになるのかもしれない、そのような峻厳な覚悟を心に抱くパセティックな女性は、この『古都』に限らず川端の他の作品にもよく出てくるような気がする。ある型の心性の人間はこういう希有な女性像に近づき難い崇高なものを感じるのだ。両作家の志向や感性の違いがゆかしく考えさせられる。
『古都』は何度か映画化されているようだが、監督・中村登、主演・岩下志麻のヴァージョン(1963)は小説の発表からあまり間を置かずに撮られたので、呉服店の内部の様子や京都の街の雰囲気など小説でイメージされているほぼそのままを目にすることができる。湯豆腐の装置、帯の図案の案配、平安神宮の庭の池におかれた飛び石の具合、機織りの作業風景、北山杉の整然とした景観など細部にも目が留まる。音楽は武満徹で、こういう鬼火のような音楽をつける人はもういなさそうだ。
(池田康)
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2019年09月01日

伊勢物語の合唱オペラ

31日午後に渋谷・さくらホールで行われた、合唱団樹の会のコンサート「新実徳英の合唱世界II 二つの愛の物語」を聴いた。作曲家の新実徳英さんの曲だけで構成した会。指揮・藤井宏樹、ピアノ・浅井道子。この合唱団の声のブレンドは、男声陣がしっかりしていることもあって大変力強く、鋼あるいは巌のようなたくましい響きを特色としているようだ。
前半は「三つの愛の歌」、この曲は以前にも聴いたことがあったが、柿本人麻呂の長歌、旧約聖書の雅歌、キーツの詩「ギリシアの壺に寄せるオード」にそれぞれ作曲した三曲からなる。二曲目と三曲目は外国語でうたわれ、聴いていても言葉がよく分からないということもあり、やはり柿本人麻呂の長歌の曲が一番面白く聴ける。この長歌も本の上で黙読するかぎりでは一本調子のリズムで最初から最後まで読んでしまうのだが、これを音楽にすると多彩な変化が加わってきてドラマティックで、ことに最後の「妹の門見む 靡けこの山」の部分の大きな展開は心が高揚する。全体に、細かい技巧で勝負するというよりは、大きな模様、大きな流れ、大づかみなバランスと構えで考えられていて、聴く側もゆったりと寛いで聴くことができる。有名な作曲家ではブルックナーなどもそうだろうが、耳の尖端で聴くのではなく身体を委ねるように聴くことになるのだろう。
後半の「二つの愛の物語」は今回の委嘱初演の合唱オペラ曲で、伊勢物語を題材にした二章の構成になっている。台本・和合亮一、演出・しままなぶ。第一曲「梓弓」は男を三年待っていたが諦め今や別の人に会おうとしているところに昔の男が帰ってきて、これを拒んだのにその衝撃で落命する女の話。二曲目「筒井筒」は、幼馴染みの男女が相思相愛で結婚したが女の家が没落して生活が厳しくなり(古代の男女関係は今と違っていたようだ)男が別の女を求めようとするのだが男の身を案じる留守居の女の姿を物陰から盗み見て男が改心する、という話。激しさの違いはあれ、どちらも哀切な話で、しかも匿名の男と女の話は影絵芝居のようで、雲の上のお伽話でも異国の物語でもなく、我々自身の愛の消息として見ることができる。見る、と書いたが、演出によって合唱団員たちの配置や身振り手振りも細心な注意で構築されていて、オペラとしての絵の面白味は十分にあった。普通のオペラと比べて、合唱オペラはオーケストラはないもののコロスの声が遍在して絶えず動き、物語を包み込み、充溢している点で、トーンの色彩感は乏しくてもより一層音楽的に濃く深遠であるようにも思われた。この合唱団の男声パートの充実ぶりにより恋愛劇としての立派さが際立った。この古雅で普遍的なラブストーリーの合唱オペラは多くの合唱団がやりたいと思うだろう。
伊勢物語を扱うなら、ぜひ、男(在原業平)がどこぞの家の姫を誘拐しようとする話、例の「白玉かなにぞと人の問ひし時露と答へて消えなましものを」の歌、日本の詩歌史上もっとも異界の妖気を強く帯びた名歌をふくんだあの話も、曲にしていただきたいもの。
和合さんによれば、台本・和合&作曲・新実のコンビで別の曲のプロジェクトも進行中で、近く別の合唱団の演奏会で発表される予定だそうだ。期待したい。
(池田康)
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2019年08月26日

菅井敏文詩集『コラージュ II』

collage2.jpg菅井敏文さんの新詩集『コラージュ II』が洪水企画から刊行された。A5判96ページ、1800円+税。前作『コラージュ』(2016)の続編という位置付けであり、詩誌「詩素」に発表されたものを中心に前衛的手法の詩から身辺を語るような詩まで様々なタイプの詩作品37篇が収録されている。この集合体を「コラージュ」と題しているところが肝のようで、一篇一篇の詩作品の表現もさることながら、それら詩表現の多様性をバランスさせ掛け合わせる中で世界をつかまえようとするところに菅井氏の観法としての詩の探求があるように思われる。そういうこともあり、帯には「純粋な詩的奇想と実生活の中から生まれる抒情とが出会う場所〈コラージュ〉、この混沌のマーケットの雑踏のどこかにこの世のすべてを美しくバランスさせる一点がきっと存在する。」という紹介文を載せた。私個人としては最後に収録されている「セールス」がもっとも深く印象に残る作品なのだが、長いので、ここでは「P」という詩を引用紹介する。

 Pドールは踊れない
 踊らない
 眠れない
 眠らない
 濁った眼で
 固くこぶしを握り
 取り戻せない夢を見ている

 Pドールは戦えない
 戦わない
 進めない
 進まない
 雲の小部屋に住んでいる
 見えない自意識を
 放り出せないでいる

 Pドールは考えられない
 考えない
 笑えない
 笑わない
 石を積み上げて
 その上に小便をしている

 Pドールは逃げられない
 逃げない
 求められない
 求めない
 あいまいな表情をして
 まだらな記憶をフラッシュバックさせる

 Pドールは応えられない
 応えない
 動けない
 動かない
 白いブドウを口に放り込み
 ルサンチマンに蓋をする

(池田康)
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2019年08月23日

伊万里のことなど

IMG_7193.JPG3日かけて九州を旅行した。長崎・伊万里・柳川。長崎の原爆関連の場所や柳川のどんこ舟川下り・白秋記念館などについてはガイドブックの類にも詳しく紹介されていて周知のことと思うので、ここでは伊万里について書きたい。
この地を訪れたのは、以前洪水企画の刊行物の発売を委託していた草場書房の社主の草場氏の故郷であり、現在氏はここに戻って暮らしているので遊びにいき、氏の案内でいろいろな名所や急所を見聞することができたという次第。
伊万里で有名なのは伊万里焼だが、大川内山なる山あいの場所に窯元がたくさん集まる村があり、たまたま夏ということで「風鈴祭り」が開催されていた。店の軒先につるされた磁器の風鈴が風を受けていい音で鳴っていて、ことに大振りの風鈴の低い響きが神秘的だった。写真は伊万里焼の器を焼く登窯。青磁を得意とする窯元の店にも寄る。また鍋島藩御用窯の店の焼きものは伝統の重み、独自の風格が感じられる。
江戸時代、伊万里の津から国内外に出荷された磁器が古伊万里と称されるそうで(隣町の有田の産物も含めて)、伊万里が海に面しているという観念は私の頭の中にはなかったのだが、伊万里湾の方向に行ってみると文字通り風光明媚な景観の連続で、造船所もあり、また生きているカブトガニも見ることができ、魅力にみちていた。築二百年におよぶ焼きもの問屋の古い家屋も見学することができて、当時の生活空間に自分の身を置く経験は玄妙。
竹の古場公園という海抜380メートルの山頂からは伊万里全体を海の方まで眺めることが可能で、絶景の形容を献上するのにためらいはない。物語の舞台にもなりそうな、地形についても生活文化の面でもメリハリのある土地柄だ。
長崎から伊万里までは鉄道で来たのだが、大村湾沿いを走る大村線のルートは快適で、このほとんど閉じられた湾の、波があるようでない、ないようである、機嫌のよい静謐さを心ゆくまで味わうことができる。
(池田康)

このたびの記録的大雨、お見舞い申し上げます。
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2019年08月19日

媒体の生死

あいちトリエンナーレでの騒動についてはいろいろ議論があるのだろうけど、一般論の範囲で考えても発表作品と発表媒体との関係は相当に悩ましい。決して一枚岩ではない。そこでは「表現の自由」よりもむしろ「表現の幸運」が問題になってくるのだ。
発表媒体は大なり小なり公の要素、パブリックな性格を持っており、そこに出ることではじめて作品は発表されたと言える。どんな作品でも望む媒体に発表できるかというとそんなことはない。一介の詩人が自作を大手全国紙に載せてくれと送っても採用される可能性は芥子粒よりも小さいだろう。そこには表現の自由が踏みにじられたとかいった問題はない、媒体は独自の編集権限を有する。少年漫画雑誌は性描写の激しい作品を受け入れないし、シュルレアリスム展にルノアールの絵は入らないし、クラシックの演奏会にはフリージャズの曲を入れにくい。夏目漱石の「吾輩は猫である」が俳句雑誌「ホトトギス」に載ったのは例外的で、人気を博して成功した稀な事例だろう。数限りない拒絶やすれ違いの中、ある作品がある媒体に掲載・発表され一般の鑑賞者に届いたなら、そこには「表現の幸運」が成立しているのだ。
しかし掲載してみても、いまいちだなとかテーマに照らして的外れだなとか批判や主張が過激すぎるなとか、媒体の運営側が不満や不安を抱く場合もよくあるのであり、往々にして「表現の幸運」の中に「表現の不運」が兆す。凡作にとどまるだけなら平穏無事だが、作品の掲載が媒体の評判・存立を揺るがし危ういものにする場合もときにはあり、そこで「表現の不運」が無視できない大きさに至る。問題を処理しきれず廃刊を余儀なくされた雑誌なども過去にあったはずだ。賭けに出てでも大いに意義ある表現を世に出したいという思いが一方にはあり、媒体を崩壊させたくないという防衛感覚が他方にあり、運営は神経をつかうものだ。私自身、いろいろな理由から雑誌「洪水」をたたんだ経験があり、雑誌の命がはかないものであることは肌身で知っている。媒体=メディアは多くの人が考えるほど堅固なものではない。案外脆いものなのだ。そしてただ無闇に専一に守ればいいというものでもない。予定外の力が働き、脆さが露呈すれば崩れる、それは自然なことであり、そこに意味がないわけではなく、媒体(という特殊な作品/運動の)固有の一期一会のドラマとも言える。
(池田康)
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