2020年01月23日

鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』

八重洋一郎を辿る表紙画像.jpg鹿野政直著『八重洋一郎を辿る ─いのちから衝く歴史と文明─』が完成した。洪水企画刊、四六判204頁フランス装、定価本体1800円+税。
長年、日本近現代の思想史を研究してこられた鹿野政直氏が、ライフワークの沖縄研究で行き着いた先として石垣島出身の詩人・八重洋一郎の詩業に注目し、幼少期から現在までを丹念に辿った詩人論であり、沖縄そして八重山諸島の苦難の歴史も踏まえながら、詩集ごとにその作品をよく見える目で読解・批評し、八重洋一郎がどういう意義を担う詩人であるかを浮彫りにして見事なのだが、まずなによりも歴史学者・鹿野政直が学問道の最後に「詩」とぶつかり、格闘したというそのことが「事件」であり、この事件性の大きさを理解し受け止めることが重要だろう。
「「自由とは、つまり己が生命が爆発していること、歴史よりも深く宇宙よりも深く実在よりもなお深く、静かに音もなく爆発していること、そしてその爆発の自覚であろう」。八重にとって、圧し拉がれてきた島の存在は体内を奔流し、歴史をひっくり返すことは心願そのものにほかならなかった。」(本文より)
こんな具合に詩人の内奥の核が摘出され、また「みらいらん」5号のインタビューでは、「八重山から来る世直し」という表現も用い、「沖縄本島のエリートの人にも読んでもらいたい」という意味深長な発言もされている。詩が歴史を貫く現場をおさえ、そのありさまを克明にあますところなく証言する驚異の真摯さに打たれていただきたい。
なお、現在、この本は在庫のすべてを取次に入れてしまい、こちらには残部がないので、ご注文は書店にて(あるいはネットショップで)お願いいたします。
(池田康)
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2020年01月16日

「現代短歌」寄稿

短歌の雑誌「現代短歌」3月号に寄稿した。特集「短歌にとって悪とは何か」の枠の中で。短歌のことではなくて恐縮だが、主にランボーとヴィヨンのことを書いている。雑誌はすでに完成しているので、よろしければご覧下さい。現代短歌社、定価1000円+税。
(池田康)
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2020年01月12日

三日遅れ坊主

三日坊主という言葉があるが、小生のここのところの生活は「三日遅れ坊主」になっているような気がする。年末にするはずの大掃除は正月に入ってから申し訳ばかりやるとか、元旦と二日はパンを食べていてようやく三日になって餅を食べようかという気になるとか。正月三が日に読んでしまうつもりだった小説も読み終わるのが一週間ほどあとになった。年末に予定していた室内スリッパの更新も昨日ようやく果たした、などなど。カレンダー通り生活するのも窮屈だし、予定表通り課題をこなすのも辛気くさい、というのは自己管理能力に乏しいずぼら人間の説得力皆無の言い訳だろうか。
「みらいらん」5号で望月苑巳さんが紹介していた映画「パラサイト」(ポン・ジュノ監督)はそれでも封切の翌日に見た。評判にたがわないショッキングな喜/悲劇。ちなみに、正月に読んだ小説とは、P・K・ディックの『スキャナー・ダークリー』だが(これは43年遅れ)、この小説の展開も「パラサイト」に劣らぬくらいに衝撃的だった。
(池田康)
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2020年01月05日

「男はつらいよ」の着地点

脚本は作品の単なる骨組みではない、思考であり思想であり意志表明である。
「みらいらん」の作業のすべてを終了した大晦日の前日、「男はつらいよ お帰り寅さん」(山田洋次監督)を見た。回想シーンでの寅さんの数々の語りには胸がジーンと来るし、歴代のマドンナたちのいい表情の映像の連射は神々しく圧巻だが、本筋の立て方はそれに劣らず衝撃的だった。寅さんの甥っ子でさくらの息子の満男(吉岡秀隆)が昔の恋人の泉(後藤久美子)に何十年ぶりかで再会するというストーリーなのだが、クライマックスは泉が高齢者施設に入居している父親に会いにいくところ、とくにその帰路に頂点があるように感じられた。しかしこの場面は決して華やかに盛り上がる物語の局面ではなく、むしろあまりにも凡庸でありふれた、みっともなく恥ずかしい、マドンナ泉にしてみたら自分で見たくもないし人に見せたくもない、親子の愛情生活のパンク、家族崩壊のうんざりの現実があらわになる、人生の底部のリアルが牙をむき出す場面なのだ。このような冷酷な痛々しいエピソードにクライマックスを持ってくる脚本はそうとうな度胸であり、制作責任者は心臓が縮むのではないか。男はつらいよシリーズ全体をマドンナのやるせない恥辱に着地させるこの逆ウルトラCのストーリーの組み方により、ファンタジックな車寅次郎絵物語が神話と歴史とがからみ合い融和するように我々の現実に地続きのものであるという感じがしてくるのだ。
(池田康)
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2020年01月02日

みらいらん5号完成

milyren5.jpgみらいらん5号が完成した。
「対話の宴 野村喜和夫の詩歌道行」ではゲストに詩人の阿部日奈子さんを迎え、「未知への痕跡 ─読む行為が書く行為に変わる瞬間─」と題して、フランスの詩人ルネ・シャールのことや阿部さんの新詩集『素晴らしい低空飛行』を中心に過去の詩集もふくめた詩業のことを話し合っていただいた。とても濃密な詩の思考のやりとりになっていると思う。
小特集「童心の王国」では、大人への敷居をまたいでいない子供の心には大人が喪失してしまったなにか大事なモノが息づいて輝いているのではないか、との問題意識から、加藤治郎、高貝弘也、青木由弥子、蝦名泰洋、長田典子、中本道代、川中子義勝、八重洋一郎、佐川亜紀、柏木勇一、生野 毅、嶋岡晨といった方々の寄稿とともに幼心と詩について考えてみた。
インタビューは日本近現代思想史の鹿野政直さん。石垣島の詩人・八重洋一郎を論じた近刊予定の詩人論『八重洋一郎を辿る』(洪水企画)のことをお聞きした。正義を重んじる、歴史への非常に熱い取り組みが印象的だった。
巻頭の詩は、中上哲夫、鈴木東海子、中村不二夫、菅井敏文、平野晴子の諸氏の作品が並ぶ。齋藤愼爾・高岡修の二氏を並べた俳句の頁も注目していただきたい。
それから昨年九月に生野毅さんとともに宮城県石巻市で開催されたリボーン・アート・フェスティバルを訪れ、吉増剛造さん主催の「詩人の家」に宿泊体験したが、そのときの模様を「光の海底へ登れ! Gozo in Ayukawa」と題して生野さんが寄稿して下さった。これもぜひご覧いただきたい。
(池田康)
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2019年12月26日

「虚の筏」24号

詩誌「虚の筏」24号が完成した。今号の参加者は、神泉薫、酒見直子、坂多瑩子、たなかあきみつ、小島きみ子、平井達也、久野雅幸、そして小生。下記リンクからPDFをご覧下さい。
http://www.kozui.net/soranoikada24.pdf
なお、左半分の枯葉は、小島きみ子さん提供のもの(プリント版では裏側になる)。
(池田康)
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2019年12月23日

金土日のかいつまんでの報告

この金土日の過密日程は踏破するのが少し骨だった。
金曜日は西の方から子供のころの友人がやってきたので、西湘のいくつかの場所をまわって遊ぶ。日暮れどきの満潮の浜辺の幽明おぼろなやさしい鬼気に見入る。
土曜日は詩とダンスのミュージアム(世田谷)にて、野村喜和夫・眞理子ご夫妻の運営するエルスール財団の新人賞授賞式に参加。現代詩部門・藤井晴美。朗読を聴いた限りでは、地獄をかかえた躁のパラノイアという感じ、だが間違っているかもしれない。コンテンポラリーダンス部門・下島礼紗。パフォーマンスはおっかないほど衝撃的。この人はfirst impressionがすばらしく、立って挨拶をするだけでも表情の生命力の光輝に打たれる。フラメンコ部門・内城紗良。まだ十代後半とのことだが踊ると非常に妖艶。フラメンコはダンスと音楽が完全に融合する自然さがみごとで、舞踊の原始、情念の原始が現出するかのようでそのことも有難かった。
日曜日は、国立のコミュニティスペース国立本店での「くにたちコミュニティ・リーディング」来訪。内容は、十人ほどの朗読と、対談・福間健二+大田美和。英文学研究の内実の話、近藤芳美の生地・韓国に対する深い思いの話、などなど。福間氏の短歌の選び方(「何となく変だったのに聞かなくてごめんね身近にあったセクハラ」「チョコレートの銀紙きらきら落ちて行く病棟の夜の青いバケツに」など)は意外性があって新鮮、また朗読されたディラン・トマスの「十月の詩」はこの詩人の裡の「少年」が飛び出してきて生気あふれていた。
間を縫うように、映画「この世界のさらにいくつもの片隅に」を見る。完熟度120%。
このようにして今年の最後から二番目の金土日は渡り切られた。
(池田康)
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2019年12月14日

〈しなやかな戯れ〉を聴く

昨夜、東京文化会館小ホールで「四人組とその仲間たち 室内楽コンサート〈しなやかな戯れ〉」を聴いた。勝手な覚え書きは次の通り。
1曲目は、薮田翔一「祈りの華」、ピアノそしてソプラノのヴォカリーズによる構成。ソプラノが驚異的な高い音を出していた。4曲目で〈夢〉というキーワードが出てくるが、この曲も歌なるものの母型を夢の空間の中に浮かべてみたといった感じがした。ソプラノ=小川栞奈、ピアノ=黒岩航紀。
2曲目は、金子仁美「ビタミンC─3Dモデルによる音楽V─」、サクソフォン2台で演奏。リズムや音程のちょっとした差異やずれを梃子に音の道程を活気づけていく。この作曲家はストイックに求心的に厳しい音楽を作る印象があったが、この曲はバイタリティと猥雑さも具えていて雰囲気が開放的で愉快。腐れ縁の二人組がとくに何をするという目的もなくじゃれ合いながらとぼとぼと歩いていく風で、ありふれた偶然の景の面白さが味となっており、この調子で最後までとぼとぼと進行するのかと思ったら、最後のところで意想外に華麗なクライマックスが構築されていてアッと言わされた。現代音楽としての独創性という点では(そういう視点が重要かどうかはまた別の問題だが)この曲が突出していそうだ。サクソフォン=須川展也、大石将紀。
3曲目は、西村朗「氷蜜(ひみつ)」、独奏フルートの曲。しわがれた低音からよく通る高音まで、光の囀から地を薙ぐ突風まで、さまざまな様相の音を奏者に要求する難曲で、尺八の領土を簒奪しようとするかのような瞬間もあった。細い芯の貫きが幻視される。タイトル「氷蜜」とは、蜜が氷ったのがフルートという楽器だという意味もあるのだろうか。蜜というより、プリズムを舞台にしたアクロバティックな舞という印象もあった。フルート=若林かをり。
4曲目は、新実徳英「ソニトゥス・ヴィターリスVI─Somnium─」、独奏ヴァイオリンの曲。「今回の無伴奏曲は、夢にも似た、摩訶不思議と言っても良いようなイメージの連続体となった」と作曲者はプログラムに書いている。強く印象されるのが中低音域での重音(複数の弦を同時に弓で鳴らす)で、自らヴァイオリンを弾く新実さんはどういう重音がどう鳴るかよく知っているのだろう、私もこの楽器の音の重ね合わせの繊細な豊饒に魅了される方なので、その動きを見つめた。ヴァイオリンはミステリーの城であり、それは夜と夢に親近しており、悦楽もありうるが罪悪もありうる。夢とは必ずしもきれいで美しいものばかりではなく、重く苦しい場合もある。夢は「眠れない眠り」であり、肯定と否定が相克する不条理さを抱えている。力強いヴァイオリンから出てくる重音の断想は、ワイン樽の囈言、冬眠獣の腸(はらわた)の音楽のような、重さのほうに傾いた夢を思わせた。我家のガジュマル(背丈一尺ほど)は枝からさかんに細い根を出して地に向かってつっこんでいて、実に奇妙な生態なのだが、昼の世界からダイレクトに夜に還ってゆこうとする倒錯の夢路の形もある、そんな連想もちらりと浮かぶ。今回の曲目のうち、もっとも「飛び道具」を使わない、質実にして謎めいた暗さを包含した曲。ヴァイオリン=渡辺玲子。
5曲目は、池辺晋一郎「ハーモニカは笑い、そして沸騰する」、独奏ハーモニカのための曲。なかなかなさそうな楽器選択で、近くで聴いていた伊藤弘之氏も、これは珍しい!と感じ入っておられた。こういう場では滅多に出てこない楽器を登場させるからには、その楽器の特長がもっともよく発揮され呈示されるように曲を作るのが上策となる。激しい跳躍やダイナミズムもありつつ、ハイドン・モーツァルト的明朗さも具えた音楽で、ボブ・ディランのようなフォーク歌手が吹くハーモニカは荒々しくデモーニッシュだが、この曲では正調にして典雅なハーモニカを聴くことができた。なにより東京文化会館小ホールのステージに独奏ハーモニカが立ったというそのことが画期的と思われた。ハーモニカ=和谷泰扶。
(池田康)
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2019年12月06日

吉村七重 二十絃箏で紡ぐ「音の詩・ことばの詩」

昨夜、霞が関ナレッジスクエアにて、箏の吉村七重さんの上記タイトルのリサイタルがあり、聴きに行った(MuCuL主催)。曲目は、佐藤聰明「神招琴」、八橋検校「乱」、三木稔「お種の箏歌」(オペラJORURIより)、久田典子「森の声」、木下正道「石をつむT」、佐藤聰明「櫻」。「お種の箏歌」「石をつむT」の二曲はソプラノの工藤あかねさんとの共演。小さめのスペースで音がくっきりと響いた。客数は百+αほど。
佐藤聰明さんの二曲について言うと、「神招琴」が1989年、「櫻」が2017年の作曲で、30年近い時間的隔たりがあるのだが、そうは感じさせず、ごく近いところに位置しているように思われるのは、1989年の時点ですでに作曲家・佐藤聰明の方法が確立していたということになるのだろう。世の中の大抵の曲では音は滑らかにあるいは多少不器用に〈流れ〉を作り、勢いを生み出して形を成すのであり、音楽とは基本的にそういうものだが、佐藤聰明作品では音は容易に〈流れ〉をつくらない。ぽつんと呟いて、石庭の中の石のように孤立した存在を示しつつ、間をはかって他と牽制し合い、そのことによって緊張した静寂の広がりを生み出す。その静寂の気配にじっと聴き入るというのが聴く側の接近の作法になるようで、この夜も張りつめた空気の中に箏の澄んだ音が見えるか見えないかの舞の線を刻みつけていた。佐藤さんによれば「琴は古来より神を招く神聖な楽器といわれ、霊媒や巫女は琴を弾いて神憑りしました」ということで、「神招琴」はそんな特別な眼差しを含んだ曲のようだ。「櫻」については、バスクラリネット協奏曲を書いたあと、「急に邦楽器の曲が書きたくなり」作曲したという、優れて自発的な作品と言える。
実は夏頃、体調を崩したという便りをいただいていたので、どうしたのかと心配して今回足を運んだのだが、普段と変わらぬ元気さでとうとうと語る佐藤さんがいて、少し安心したという次第。
(池田康)
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2019年12月03日

塚田恵美子著『風を起こす』

風を起こす画像blog.jpg塚田恵美子さんのエッセイ集『風を起こす』が洪水企画から刊行された。四六判194ページ、並製カバー、1800円+税。
先に刊行された歌集『ガーコママの歌』の姉妹作で、短歌文芸誌「ぱにあ」に2015年から今年まで連載された文章をまとめたもの。写真をふんだんに入れ、自作の短歌作品もところどころに引用し、また各章の扉には著者が撮影したカラー写真を載せ、にぎやかな構成になっている。長野県大町市での合鴨農法による米作りの実際がこまかく紹介され、合鴨との悲喜交々のつき合いが詳述されるのだが、その語り口の軽やかさが爽やかで楽しく、なんの苦労もなく読み進むうちに、農家でない人間には未知の米作りの季節ごとの諸々の仕事にいつの間にか親しくなっている。
地元の小学校で生徒たちに合鴨農法や短歌を教える機会があったときの子供たちとの交流もみずみずしく感慨深く回想される。かと思うと、血縁の人たちが先の戦争をどうくぐり抜けたか、いかに傷ついたり命を落としたかも大切なこととして語られ、エッセイ集としての奥行きを広げている。塚田さんは言う「私の右手は、飢えや戦火、殺し合いという苦しみ・悲しみを背負ってきた人たちと手を繋いできました。左手は、私の次の世代の子供と手を繋いでおります」。さらには、猿、鷹、鹿、熊など獣との戦い(苦戦続き)も息詰まる思いで読むことになり、この世界はからなずしも人間の専有物ではないことがしかと思い知らされる。
夫の塚本伸一さんによる、戦後いかにこの地で田畑を開拓してきたかを語る文章も跋文のかわりとして収録され、ささやかな家族史が完成した観がある。信州の自然に包まれた農の生活が、かけがえのない魅力とともに立ち現われてくる、貴重なエッセイ集だ。
(池田康)
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