2020年06月02日

マリス・ヤンソンス その2

マリス・ヤンソンスはライブ演奏でのエネルギーの凝縮爆発を重視していたようで、コンサートライブをそのまま収めたCDをたくさん残している。これらのライブ録音は表面で運動する音の奥にあやしい神秘の闇がうずくまっていて、艶かしい空気を作り、去来するすべての瞬間に魔法をかけ、輝かせるのであり、歪みまで魅力と化すその本物感がたまらない。とにかく生彩があり、単純な旋律やパッセージを管弦が朗々と奏しているだけでも、茫然、陶然としてしまう。一曲毎に拍手で区切られるから気づかないうちに次の曲に移っていたということがないというメリットもあるがこれは蛇足だろうか。晩年の本拠地となっていたバイエルン放送交響楽団とロイヤル・コンセルトヘボウのそれぞれのライブ録音を集めたボックスセットが一枚当たりにすると数百円という廉価で販売されている。そういうものを入手して聴くと、ブラームスからマーラー、ストラヴィンスキー、シェーンベルク等々、19世紀後半から20世紀前半にかけての音楽がレパートリーの中心になっていることがわかる。しかし戦後の作曲家の曲も積極的に手掛けていて、たとえばルチアーノ・ベリオの「4 Dedicaces」はまさしく現代音楽ぽい曲だが、脈絡がよくつかめなくても音が生々しく輝くからそれを眺めているだけで新鮮な時間になる。ソフィア・グバイドゥーリナの「Feast during a Plague(ペスト時の酒宴)」という変な曲も入っていた。曲の後半はとくに不気味に変。印象的な打楽器の四つ打ちのリズムモチーフは三つめにアクセントがあり、ロックのリズムを想起させる。調べると、この曲の日本初演が今年の2月に行われていた(下野竜也指揮、読売日本交響楽団)。偶然の成り行きからそうなったのだろうと思うが、このウイルスパンデミックの時期にどんぴしゃの出現だったと言えそうだ。以上はロイヤル・コンセルトヘボウのCD収録曲だが、もう一つ書き置くなら、マーラーの交響曲7番はこれまで楽しく聴けたためしがなかったが、今回は楽しく面白く聴くことができてありがたいことだった。
バイエルン放送交響楽団との演奏でのベートーヴェン交響曲全集(2013年)は2012年に来日してサントリーホールで行ったベートーヴェンチクルスをベースに、ミュンヘンでのコンサートを織り交ぜて構成したもので、シチェドリン、望月京など現代音楽6曲(ベートーヴェンをテーマに作られたもの:Reflection)も一緒に収録されていて、現実のコンサートに近づけるという意図なのか、風変わりな「全集」だ。中ではカンチェリの「Dixi」が〈荒野の電気〉を感じさせて印象的だった。またこれはベートーヴェンの交響曲セットの収録曲ではなく別のセットの収録になるが、シチェドリンのピアノ協奏曲5番(ピアノ:デニス・マツーエフ)は異彩を呈してとても面白く聴ける。
さて、この指揮者については、重大な見落としに気づいた。以前、ショスタコーヴィチの交響曲をまとめて聴いたときに、お世話になったボックスセットの全集が、マリス・ヤンソンス指揮のものだった。ただしライブではない(小生としては残念)。オーケストラはバイエルン放響、ベルリンフィル、ロンドンフィル、オスロフィルなどさまざまで、全集としてはややとりとめないか。付録の小冊子には短いインタビューもあり、子どもの頃、指揮者だった父親(Arvid)とムラヴィンスキーがショスタコーヴィチの音楽について議論するのをはたで聞いていたのだそうだ。英才教育そのもの。この交響曲全集の恩恵を受けていたからには、5月6日の項とこの項はやはり追悼文ということになるだろうか。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 21:08| Comment(0) | 日記

2020年05月26日

食べ物の話、SFから地産まで

緊急事態宣言が解かれて、一息つくような気持ちのゆるみ加減がなにやら心地良い。
一番緊張感が高まっていたころ、心配して下さったある方から食料の支援をいただいた。届いた箱にはレトルトカレーから生の野菜までいろいろ入っていたが、その中にインスタントの味噌汁もあり、個包装をあけるとおもちゃの煉瓦のような茶色の固形物が入っており、これをお椀に入れ、湯を注ぐとたちまち広がって溶けて味噌汁になる。卵スープなどではこういう形のドライ加工の即席食品を経験していたが、近頃は味噌汁もこれになったんだと一通り感心したあと、「しじみ味噌汁」というのを試してみてびっくり。本物の貝殻に入ったシジミが十個ほども出現した。あらあら、あの固形物のなかにこいつらが入っていたのかと、おったまげる。とうとう味噌汁までSF化する時代なのだ。
食べ物と言えば、最近感心したものに茨城産の野菜がある。某日、ほうれん草を買って食べてみたら味がしっかりしていて非常においしいので、どこの産かと見直すと、茨城産とあった。ピーマンについては、近年この野菜は彩りのほかに食材としてどんな存在意義があるのだろうと疑わしく思っていたが、茨城産のピーマンを食べてみると、非常に味が濃くて、むかし子どもの頃感じたような「ピーマンの味」がして、嬉しいことだった。土とか風土とか栽培法とか、なにか違いがあるのか。果物や米と違って、野菜はブランドものが少ないように思うが、「茨城野菜」は私のなかでは一つのブランドとなりつつある。
一方これはブランドにはなり得ないが、スーパーマーケットには近隣の農家が栽培する少々ぶかっこうな野菜を置いたコーナーがあり、トマトや胡瓜を買うときなどよく利用する。商品という感じがしない不揃いな形状と利幅とか考えてないようないかにも率直な安さに、細かいことは気にしない、近所付き合いのような親近感を覚えるのだ。
ベランダで冬から育てていた空豆が実をつけた。一株につき一粒という貧しさ。植木鉢では限界があるのか。病気になったものや小さいままのものもあり、まともに食べることができたのは、一粒だけ。残念というべきか、めでたいというべきか。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 13:52| Comment(0) | 日記

2020年05月22日

『八重洋一郎を辿る』の書評3

「図書新聞」3449号(2020年5月30日号)に、鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』の書評が出た。評者は葛綿正一氏。これだけ周到な紹介・批評はなかなかないのではないか。とくに終盤、「かくして、詩人論は思想史研究において危険な位置を占めるといえる。詩の言葉は「毒」となってしまう可能性が残るからである」以降の部分、「衝く」という言葉をめぐっての考察は深く鋭く、心に刻まれる。是非ご覧いただきたい。
なお、同号には詩歌関係では原成吉著『アメリカ現代詩入門』の書評もある。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 13:09| Comment(0) | 日記

2020年05月06日

マリス・ヤンソンス

ここ三日ほど、寸暇を活用して、録ったまま未整理だったMDを調べ直して整理していた。現在の住所はラジオの電波がいまいちきれいに入らないのでやめてしまったが別の土地で暮らしていた頃はよくFM番組をエアチェックしていたのだ。作業をしながら、シューマンの交響曲を聴きたくなり、4曲をでたらめな順番で聴いていたのだが、最後に追加でかけた彼のピアノ協奏曲の次に、ベートーヴェンの交響曲第7番が録音されていて、ついでに聴いた(ライブだが演奏日不明)。力強い、非常に説得力のある演奏で、心動かされ、演奏者の名前を見たら、バイエルン放送交響楽団で指揮者はマリス・ヤンソンスとなっていた。この名前、最近ニュースで聞いたような気がして、ネットで検索したら、昨年11月死去と出ていた。一流の指揮者と目されていることは知っていたが、ひょっとしたら本当に素晴らしい才能なのかもと思い、この人の演奏を録ったMDがほかにあるか調べてみると、三つほど出てきたのでそれらも聴いてみた。
まず、シベリウスの交響曲1番とブラームスの交響曲1番、これはウィーン・フィルの演奏で、2005年3月6日にウィーンから国際生放送されたもの(NHKFM)。それからブラームスのヴァイオリン協奏曲(Vn:ジュリアン・ラクリン)と交響曲3番、R.シュトラウスの交響詩「ティル・オイゲンシュピーゲルの愉快ないたずら」。これはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏で、2008年11月12日NHKホールにて(NHK音楽祭2008)。さらにマーラーの交響曲5番、これはバイエルン放送交響楽団の演奏(2006年3月10日、ミュンヘン)。
ライブ演奏だからより強く印象づけられるのかもしれない。ヤンソンスの指揮は、すべての音やフレーズを「科白」のように立て、楽想の流れの理を繊細に見きわめ活かしながら劇的に音楽の世界を作っていくところ、ちょっとオペラのような趣きがあり、それが魅力と説得力になってくるようだ。丁寧で、緻密で、聞き逃さず、弾き流さない。神経をともなった卓抜な展開力で、何度も聴いたはずの曲がとても面白く聴ける。楽譜の音を実際の歌声にするために、ヤンソンスは「必要な人」だった、と言えそうだ。
略歴を見ると、1943年ラトヴィア生まれ。この小国はバルト海に面したバルト三国の一つで、リトアニアとエストニアにはさまれ、ロシアにも隣接している。カラヤンとムラヴィンスキーに師事したとあるから本流の人のようだ。私の所有するCDでは、五嶋みどりのメンデルスゾーンとブルッフのヴァイオリン協奏曲の演奏でベルリン・フィルとともに共演している(ライブ録音)。ただしこれは、ヤンソンスが晩年率いることになる二つの名門オケ、バイエルン放送交響楽団とロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮者に就任する以前の録音。逆に貴重か。
生前この指揮者に特別の思い入れはなかったからこの一文は追悼文という種類のものではないが、今後はこの人の残した演奏は意識して聴くことになりそうだ。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 22:06| Comment(0) | 日記

2020年04月29日

詩素8号

詩素8表紙.jpg緊急事態宣言下のゴールデンウィークはどんなものになるだろうか。部屋の中から窓ごしに外を眺める分には、春の日がみごとに輝いているが……
さて、「詩素」8号が完成した。今回の参加者は、小島きみ子、山本萠、大家正志、南原充士、坂多瑩子、沢聖子、吉田義昭、たなかあきみつ、山中真知子、二条千河、酒見直子、平野晴子、野田新五、菅井敏文、南川優子、八覚正大、八重洋一郎、高田真、海埜今日子、平井達也、大仗真昼のみなさんと小生。「まれびと」コーナーに詩作品を寄せて下さったのは、冨上芳秀さん(「樹木幻想」)と松尾真由美さん(「身近な危機とその渦中と」)。巻頭トップは山本萠さんの「夢の川へ」。88ページ、定価500円。まだ残部ありますので、ご希望の方はご注文ください。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 14:33| Comment(0) | 日記

2020年04月23日

疫の奔流の行方2

今回のウイルスの嵐から、行政に携る人々や医療関係者は無数の貴重な教訓を引き出すのだろうが、誰でも思いつく最大の教訓はこれだろう:
「疫病の脅威は国や為政者のプライドよりも百倍も重大だ」
台風や地震と同じくウイルスも情け容赦がなく、やさしい斟酌や好意的な政治的取引などしてくれないのだ。さてこれを少し普遍的な方向にパラフレーズすれば、こんなふうになるだろうか:
「われわれの生命は国や為政者の利益よりも百倍も重要だ」
なんだか当り前の、きれいな教科書的オピニオンになったが、生命と言ってもいろいろあって広大だから、さらにこれを細かく敷衍して書くなら、こうだろうか:
「国民個々の心身の健康は国や為政者の思惑よりも百倍もリアルだ(このリアリティが侵害されるとき、前者は後者を疑う)」
肉体以上に、心、精神が、おかみの意向に沿ってプラスチックに成形される危険性は常にあり要注意だが、ぼんやりしていると気づかないままうかうか暮らしがちで、こういう稀な危機の季節にしっかりと気づいておけるならそれにこしたことはない。だからというわけではないが、最後の捨て台詞じみた変奏はこうだ:
「床屋談義は国や為政者の歴史よりも百倍も真実だ」
これまたありきたりな寸鉄かもしれない。やり直そう:
「巷の与太は国や為政者の嘘よりも百万倍も白だ」
これは少なくとも数学的正確さを誇れる。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 20:11| Comment(0) | 日記

2020年04月05日

疫の奔流の行方

コロナ・マスカレードの不気味な祭が世界規模で続いている。数字とグラフにおののく朝夕。ペストやコレラ級でなくても疫が大津波となって襲来すると対処が難しい。ゾンビに咬まれたら自分もゾンビになる……というホラー映画の嫌な筋立てに似た、叫びたくなるシチュエーションを、罹患者に距離ゼロで接しなければならぬ医師や看護師たちは身をもってくぐり抜けているのだろう。
カミュの「ペスト」がいま広く読まれているそうな。昔読んだとき、主人公の医師の周辺にいる男の、ペスト禍の絶望的状況の中で熱心に(状況と無関係な)詩を書いている姿が奇異でひどく印象に残ったが、コンサート中止で時間ができた音楽家もいま一年後にうたう陽気なラブソングを作っているのかもしれない。非常時にひとつまみの平常の時間をどう自分で創出するか、という努力は精神の健全を保つために、前向きの呼吸をするために必要なのだと思う。
このところ、石牟礼道子著「椿の海の記」(河出書房新社・日本文学全集巻24『石牟礼道子』所収)を読んでいた。世界との交感のレベルの深度において驚くべき小説。ものごころがつき始めたばかりの子供が見る世界はこんなにも豊饒なのか、そして悲哀はこんなにも裸なのかと感嘆する。主筋ではないが、コレラが流行った時の様子が少し書かれている。
「それはどうやら、浜町にいたとき、コレラの流行ったときの光景らしかった。春乃も罹患して……中略……このときのコレラで死んだものたちはおびただしく、死人たちを、浜の真砂の上にじかに並べて焼き続ける大廻りの塘の煙の中から、兵隊たちが小さな舟で、いくさに出て行ったのだった。そのような煙の流れる故郷を後に眺めながら。」
死者が万を越えたら大震災レベルといえるだろう。すでに越えている国もあるし、徐々に近づいている国もある。まだ序の口とそわそわしている国も。疫病の数学のテストで合格点を取ることはマクロ経済の数学と同じくらい難しい。
「いかなる幽霊の姿勢で/全員で吊りさがればよいのか?」(吉岡実「コレラ」より)
(池田康)
posted by 洪水HQ at 16:40| Comment(0) | 日記

2020年03月30日

『八重洋一郎を辿る』の書評2

鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』の書評が「週刊 新社会」3月3日に執筆=鈴木裕子氏で、また「沖縄タイムス」3月28日に執筆=新川明氏で、掲載されました。ぜひご覧下さい。
(池田康)

追記
毎日新聞(西部版?)3月29日の「詩歌季評」(評者は田中俊廣氏)でも取り上げられました。
posted by 洪水HQ at 19:39| Comment(0) | 日記

2020年03月21日

解せぬこと

最近解せぬこと。その一。イタリアの悲劇的な状況。同じウイルスのはずなのになぜほかと比べて桁違いに死者が多いのか。中国を上回るって、なんで!?と戸惑う。これが夢かなにかの間違いではないのなら、シンプルに、不運の連続と対策の拙さが重なればその結果、最悪あそこまでいくのだ、という恐るべき真実なのかもしれない。
その二。マスク製造会社はまぜこんなにも商機を逃しつづけるのか。一週間程度商品がなくなるのはわからないでもないが、ここまで長引くのは解せない。いくら高級仕様とはいえ、マスクくらい簡単に製造できるだろうに。なんなら、簡易な型をちゃちゃっとこしらえて手ごろな材料で作ればいい。どうぞどんどん儲けて下さいと皆が思っているのだから遠慮はいらないのだが。(医療機関などに優先的に納入しているのだろう)
その三。流感covid19についていろいろ報道がなされるなかで、世界には石鹸がない家庭が多い地域が広く存在するという話も聞かれ、驚いた。もの心ついてこの方、家には常に石鹸があって当り前に使ってきた身としては、なかなか飲み込めない話だ。靴やパンツと同じくらい必需品ではないか。どれだけ貧乏とは言え、石鹸が買えないほど貧乏というのは想像を超える。それでも20年くらい前まではアジア諸国の貧しさについて強いイメージがあったが、最近ではタイやマレーシアなどから観光客が来日する時代になっているのだから、そんな赤貧洗うがごとき貧しさは、政情不安をかかえる国や地域を除いては、ほぼなくなったのだろうと勝手に思い込んでいたが、違ったようだ。石鹸が買えないほどの貧困もある、これも「恐るべき真実」だ。
ついでにもう一つ。これはどうでもいい「解せぬ」だが。
今日の午後、春の陽の下を歩きながら、どんな成り行きからだったか、オタマジャクシの名前について考えていた。蛙の子はなぜオタマジャクシというのか。おそらく料理で使うお玉に形が似ているからだろう。しかしここで、あれ?と思う。お玉の正式名称が玉杓子であるとしても、お玉をお玉杓子とは現実の生活の中では言わない。台所で母親が手伝いをする子供に「オタマジャクシ取って」と言うことはまずない。もともとの存在の名前としてはとっくに廃れたのだ。それなのに蛙の子のオタマジャクシという名前がちゃんと杓子定規に残っているのがなんともおかしい。そしてそこからさらに、音楽の楽譜の音符の愛称にもなっているのだ。オタマジャクシを見る機会がとんとなくなった今、オタマジャクシの名称が最後に残るのは五線譜上だろうか。(コロナという言葉も元々の存在=冠を目にする機会が少なくなるのであれば今後は主にウイルスの名前として残っていくのだろうか…)
(池田康)

追記
「新型コロナウイルス」という呼称はやや限定がゆるすぎないだろうか。病気の種類の特定ができているとは言いにくい。今のところはこれで通じるし、テレビ・ラジオのニュース番組は日々過ぎ去っていくものだからまだしも、紙媒体、特に新聞は何年か経って記事を見返した場合、間の抜けたもどかしい感じがするのではないだろうか。例えば台風の記事だとしたら、「新しい台風が来ました、新しい台風が東京を襲っています、新しい台風はかなり強力です」と書くようなものだから。国際機関が提示している「Covid 19」が使いにくいとしたら、19年式コロナウイルスとか、7種類目ということで七型コロナウイルスとか、あるいは干支を使って己亥感冒とか。たけき猪が駆ける。
posted by 洪水HQ at 19:56| Comment(0) | 日記

2020年03月07日

6号は吉岡実特集

夏に刊行予定の「みらいらん」6号では、詩人・吉岡実の特集を計画している。4号の田村隆一特集と同じく、城戸朱理氏の助力と導きを得て。御期待下さい。
それで、吉岡実の研究をということで、ざっと詩作品の全体に目を通すべく励んでいたのだが、いつの間にか吉岡実の庭からウラジミール・ナボコフの庭へ移ってきてしまっている。吉岡のある作品にナボコフの「青白い炎」が参照作品として挙げられていたため。探索中のナボコフの庭が広いのか狭いのかまだ見渡すことができないでいるが、かなり妖しい謎めいた庭であることは確かなようで、下手に魅了されると長らくここに留まることになりかねない。こんなふうに吉岡の周辺を、ルイス・キャロルの庭、西脇順三郎の庭、土方巽の庭、永田耕衣の庭とサーフィンしていくとしたら、いくら時間があっても足りない。道草や回り道は楽しいものだが戻って来られなくなる。わが悠長な雑誌もそれなりに締切やら決まった発行日があるから、カフェでの雑談のように話が逸れて、更に脱線して、再び三たびどこかへ飛んで、出発点を忘れたまま終わってお勘定、という具合にはいかないのだ。耕衣やルイスには申し訳ないが。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 19:43| Comment(0) | 日記