2019年12月14日

〈しなやかな戯れ〉を聴く

昨夜、東京文化会館小ホールで「四人組とその仲間たち 室内楽コンサート〈しなやかな戯れ〉」を聴いた。勝手な覚え書きは次の通り。
1曲目は、薮田翔一「祈りの華」、ピアノそしてソプラノのヴォカリーズによる構成。ソプラノが驚異的な高い音を出していた。4曲目で〈夢〉というキーワードが出てくるが、この曲も歌なるものの母型を夢の空間の中に浮かべてみたといった感じがした。ソプラノ=小川栞奈、ピアノ=黒岩航紀。
2曲目は、金子仁美「ビタミンC─3Dモデルによる音楽V─」、サクソフォン2台で演奏。リズムや音程のちょっとした差異やずれを梃子に音の道程を活気づけていく。この作曲家はストイックに求心的に厳しい音楽を作る印象があったが、この曲はバイタリティと猥雑さも具えていて雰囲気が開放的で愉快。腐れ縁の二人組がとくに何をするという目的もなくじゃれ合いながらとぼとぼと歩いていく風で、ありふれた偶然の景の面白さが味となっており、この調子で最後までとぼとぼと進行するのかと思ったら、最後のところで意想外に華麗なクライマックスが構築されていてアッと言わされた。現代音楽としての独創性という点では(そういう視点が重要かどうかはまた別の問題だが)この曲が突出していそうだ。サクソフォン=須川展也、大石将紀。
3曲目は、西村朗「氷蜜(ひみつ)」、独奏フルートの曲。しわがれた低音からよく通る高音まで、光の囀から地を薙ぐ突風まで、さまざまな様相の音を奏者に要求する難曲で、尺八の領土を簒奪しようとするかのような瞬間もあった。細い芯の貫きが幻視される。タイトル「氷蜜」とは、蜜が氷ったのがフルートという楽器だという意味もあるのだろうか。蜜というより、プリズムを舞台にしたアクロバティックな舞という印象もあった。フルート=若林かをり。
4曲目は、新実徳英「ソニトゥス・ヴィターリスVI─Somnium─」、独奏ヴァイオリンの曲。「今回の無伴奏曲は、夢にも似た、摩訶不思議と言っても良いようなイメージの連続体となった」と作曲者はプログラムに書いている。強く印象されるのが中低音域での重音(複数の弦を同時に弓で鳴らす)で、自らヴァイオリンを弾く新実さんはどういう重音がどう鳴るかよく知っているのだろう、私もこの楽器の音の重ね合わせの繊細な豊饒に魅了される方なので、その動きを見つめた。ヴァイオリンはミステリーの城であり、それは夜と夢に親近しており、悦楽もありうるが罪悪もありうる。夢とは必ずしもきれいで美しいものばかりではなく、重く苦しい場合もある。夢は「眠れない眠り」であり、肯定と否定が相克する不条理さを抱えている。力強いヴァイオリンから出てくる重音の断想は、ワイン樽の囈言、冬眠獣の腸(はらわた)の音楽のような、重さのほうに傾いた夢を思わせた。我家のガジュマル(背丈一尺ほど)は枝からさかんに細い根を出して地に向かってつっこんでいて、実に奇妙な生態なのだが、昼の世界からダイレクトに夜に還ってゆこうとする倒錯の夢路の形もある、そんな連想もちらりと浮かぶ。今回の曲目のうち、もっとも「飛び道具」を使わない、質実にして謎めいた暗さを包含した曲。ヴァイオリン=渡辺玲子。
5曲目は、池辺晋一郎「ハーモニカは笑い、そして沸騰する」、独奏ハーモニカのための曲。なかなかなさそうな楽器選択で、近くで聴いていた伊藤弘之氏も、これは珍しい!と感じ入っておられた。こういう場では滅多に出てこない楽器を登場させるからには、その楽器の特長がもっともよく発揮され呈示されるように曲を作るのが上策となる。激しい跳躍やダイナミズムもありつつ、ハイドン・モーツァルト的明朗さも具えた音楽で、ボブ・ディランのようなフォーク歌手が吹くハーモニカは荒々しくデモーニッシュだが、この曲では正調にして典雅なハーモニカを聴くことができた。なにより東京文化会館小ホールのステージに独奏ハーモニカが立ったというそのことが画期的と思われた。ハーモニカ=和谷泰扶。
(池田康)
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2019年12月06日

吉村七重 二十絃箏で紡ぐ「音の詩・ことばの詩」

昨夜、霞が関ナレッジスクエアにて、箏の吉村七重さんの上記タイトルのリサイタルがあり、聴きに行った(MuCuL主催)。曲目は、佐藤聰明「神招琴」、八橋検校「乱」、三木稔「お種の箏歌」(オペラJORURIより)、久田典子「森の声」、木下正道「石をつむT」、佐藤聰明「櫻」。「お種の箏歌」「石をつむT」の二曲はソプラノの工藤あかねさんとの共演。小さめのスペースで音がくっきりと響いた。客数は百+αほど。
佐藤聰明さんの二曲について言うと、「神招琴」が1989年、「櫻」が2017年の作曲で、30年近い時間的隔たりがあるのだが、そうは感じさせず、ごく近いところに位置しているように思われるのは、1989年の時点ですでに作曲家・佐藤聰明の方法が確立していたということになるのだろう。世の中の大抵の曲では音は滑らかにあるいは多少不器用に〈流れ〉を作り、勢いを生み出して形を成すのであり、音楽とは基本的にそういうものだが、佐藤聰明作品では音は容易に〈流れ〉をつくらない。ぽつんと呟いて、石庭の中の石のように孤立した存在を示しつつ、間をはかって他と牽制し合い、そのことによって緊張した静寂の広がりを生み出す。その静寂の気配にじっと聴き入るというのが聴く側の接近の作法になるようで、この夜も張りつめた空気の中に箏の澄んだ音が見えるか見えないかの舞の線を刻みつけていた。佐藤さんによれば「琴は古来より神を招く神聖な楽器といわれ、霊媒や巫女は琴を弾いて神憑りしました」ということで、「神招琴」はそんな特別な眼差しを含んだ曲のようだ。「櫻」については、バスクラリネット協奏曲を書いたあと、「急に邦楽器の曲が書きたくなり」作曲したという、優れて自発的な作品と言える。
実は夏頃、体調を崩したという便りをいただいていたので、どうしたのかと心配して今回足を運んだのだが、普段と変わらぬ元気さでとうとうと語る佐藤さんがいて、少し安心したという次第。
(池田康)
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2019年12月03日

塚田恵美子著『風を起こす』

風を起こす画像blog.jpg塚田恵美子さんのエッセイ集『風を起こす』が洪水企画から刊行された。四六判194ページ、並製カバー、1800円+税。
先に刊行された歌集『ガーコママの歌』の姉妹作で、短歌文芸誌「ぱにあ」に2015年から今年まで連載された文章をまとめたもの。写真をふんだんに入れ、自作の短歌作品もところどころに引用し、また各章の扉には著者が撮影したカラー写真を載せ、にぎやかな構成になっている。長野県大町市での合鴨農法による米作りの実際がこまかく紹介され、合鴨との悲喜交々のつき合いが詳述されるのだが、その語り口の軽やかさが爽やかで楽しく、なんの苦労もなく読み進むうちに、農家でない人間には未知の米作りの季節ごとの諸々の仕事にいつの間にか親しくなっている。
地元の小学校で生徒たちに合鴨農法や短歌を教える機会があったときの子供たちとの交流もみずみずしく感慨深く回想される。かと思うと、血縁の人たちが先の戦争をどうくぐり抜けたか、いかに傷ついたり命を落としたかも大切なこととして語られ、エッセイ集としての奥行きを広げている。塚田さんは言う「私の右手は、飢えや戦火、殺し合いという苦しみ・悲しみを背負ってきた人たちと手を繋いできました。左手は、私の次の世代の子供と手を繋いでおります」。さらには、猿、鷹、鹿、熊など獣との戦い(苦戦続き)も息詰まる思いで読むことになり、この世界はからなずしも人間の専有物ではないことがしかと思い知らされる。
夫の塚本伸一さんによる、戦後いかにこの地で田畑を開拓してきたかを語る文章も跋文のかわりとして収録され、ささやかな家族史が完成した観がある。信州の自然に包まれた農の生活が、かけがえのない魅力とともに立ち現われてくる、貴重なエッセイ集だ。
(池田康)
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2019年11月27日

「二十四の瞳」のことなど

「みらいらん」次号で小特集「童心の王国」を組むことになっているその連想で、そういえばまだ見てなかったなと思い、DVDで映画「二十四の瞳」(木下恵介監督、1954)を見た。昭和3年から始まる、小豆島が舞台の物語。中心となる大石先生(子供たちからは小石先生と呼ばれる)を高峰秀子が演じるのだが、キャストの名前が並ぶ順から言うと子供たちが主人公のようだ。今から百年近く前の、都会から遠く離れた地方の生活が映し出されるわけで、眼福ともいえるシーンがたくさん出てくる。とりわけ和式の着物に身を包んで走り回る子供たちがまぶしく、なにか羨望のような気持ちを抱いた……自分もあんなふうに着物を着て田園風景の中で遊ぶ子供時代を送りたかったなと……なにとぼけたこと言ってるかと怒られることはわかっているが。戦中の暮らしづらい様子も描かれ、終戦まで話は進むのだが、十二人の子供たちのうち男の子の何人かは出征して戦死し、墓がずらりと並ぶという、学校ドラマとしては破格の大きな悲劇で幕となる。大石先生は、いい先生なのだが、テレビドラマの学園ものでよくあるようなスーパーヒーロー教師ではなく、それぞれの子供の苦境に際してもとくに卓抜な解決策を出して助けるわけでもなく悲しげに見守るだけの、どこにでもいそうな普通の人間として描かれていて、そのさりげなさが物語を堅牢にしていると思われた。
話が飛ぶようだが、「みらいらん」次号の〈対話の宴・野村喜和夫の詩歌道行〉でゲストとして登場して下さった阿部日奈子さんの新詩集『素晴らしい低空飛行』(書肆山田)の前半で描かれるのも、どこにでもいそうな(自分と同じだと共感できる)はぐれ者の処世の四苦八苦であり、小説でも描きにくいだろう生活のありふれた底部を露出させたところが特色となっている。この本については今回の対談で詳しく語られるので、ご期待いただきたい。
(池田康)
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2019年11月16日

Echo after Echo

東京都現代美術館(江東区三好)でひらかれる展覧会「Echo after Echo 仮の声、新しい影」(11.16〜2020.2.16)の内覧会があったので拝見しに行ってきた。吉増剛造さんの展示があったため。詩人・吉増剛造はここでは映像作家の鈴木余位、音響チームのKOMAKUSと組んで「表現活動を記録・共有する」ことの作品化を試みている。この夏から秋にかけての宮城県石巻市でのReborn Art Festivalの、牡鹿半島・鮎川で制作した詩も出てきて(マドモアゼル・キンカ……)、そこを訪れた日をありありと思い出した。ここ数年頻繁に美術館に登場する吉増氏の仕事、いまや詩の世界の人たちよりもむしろ美術の世界の人たちの方がよく見えているのかもしれない。
この展覧会ではほかに、THE COPY TRAVELERS(複製、コラージュを用いたにぎやかなタッチの作品)、PUGMENT(ファッションを題材にしたインスタレーション)、三宅砂織(カメラを使わない印画紙撮影)、鈴木ヒラク(洞窟壁画のようなドローイング)の作品が見られる。一見へんちくりんな姿形でも、作品として重みを感じさせるものがあるのは、並ならぬ本気度が大事なのだと気づかされる。
同時期にあと二つ、展覧会があり、一つは「DUMB TYPE ACTIONS+REFLECTIONS」これはメディアアートの制作集団ダムタイプの35周年の回顧展的な展示。現代を領する冷気が伝わる。もう一つは美術館の新しい収蔵作品を紹介する「いま─かつて 複数のパースペクティブ」で、草間彌生の(強い美術作家になる前の)初期の素朴さが残る作品、岡本信治郎の「ころがるさくら 東京大空襲」、秀島由己男のメゾチント作品など、よかった。
この美術館は広くて立派だが、地下鉄の駅から遠いのが弱点だ。迷子になりそうで心細い。舗道に特別のタイルを埋め込むとか道しるべとなる彫刻を並べるとか美術的に工夫された道標があるとよいのにと思う。
(池田康)
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2019年11月13日

詩素7号

siso07.jpgすっかり秋になり、過ごしやすく、昨日の満月はみごとだったが、これから冬に向かうと思うと、一難さってまた一難かとため息が喉もとまで出かかる。
さて「詩素」7号が完成した。今回の参加者は、海埜今日子、大仗真昼、北爪満喜、小島きみ子、坂多瑩子、酒見直子、沢聖子、菅井敏文、大家正志、たなかあきみつ、南原充士、二条千河、野田新五、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと小生。特別寄稿「まれびと」コーナー登場は吉田博哉さん。巻頭トップは平野晴子さんの「秋の柩」。定価500円。しかし洪水企画ではすでに品切れなので、入手ご希望の方はメンバーにあたっていただくか、七月堂にもしかしたら残部があるかもしれない。(池田康)
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2019年11月05日

野村喜和夫+阿部日奈子 トークイベント

IMG_7366.JPG2日(土)午後に、〈対話の宴/野村喜和夫の詩歌道行3〉が「未知への痕跡〜読む行為が書く行為に変わる瞬間」というタイトルで阿部日奈子さんを招いて、詩とダンスのミュージアム内ブックカフェ「エル・スール」で開催された。
前半は野村さんの手によって刊行された『ルネ・シャール詩集 評伝を添えて』をもとにルネ・シャールについて率直に議論され、後半は阿部さんの第一詩集『典雅ないきどおり』からこの秋刊行された新詩集『素晴らしい低空飛行』に至る道のりを辿る形で対話が交わされた。詩人・阿部日奈子という眩い稲妻が天から飛来し周囲をしたたか焼いて駆け抜けていったという感じの二時間だった。この対談は「みらいらん」次号に掲載の予定。ご期待下さい。(池田康)
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2019年10月28日

スタシス・エイドリゲヴィチウス展ほか

昨日は、野田新五さんのご教示に従い小平市小川町の武蔵野美術大学にスタシス・エイドリゲヴィチウス展を見に行き(芸術祭開催中で美術家の卵とその友だちでキャンパスはとても混雑していた)、その近くの小川西町のNMCギャラリーでの山本萠さんの個展に寄り(今回は書の作品中心。八木重吉の詩が多く取り上げられていて、先日の江田さんの歌集が思い出され、符合を感じた)、ついでに初訪問、府中の東京競馬場に足を運んでアーモンドアイの無敵の韋駄天ぶりを目撃した。
ポーランドの画家スタシス・エイドリゲヴィチウス、絵が上手すぎるくらい上手い。それぞれの絵に働いている奇想がどれも面白く、それを易々と実に巧みに構図にしてしまうところ、憎いくらいの自在さだ。そして、まん丸のつぶらな「目」が印象的。蔵書票などごく小さい絵もいいものがたくさんあった。図録が完売になっていて、残念。展覧会は11月9日まで。この画家について、野田さんがとても興味深いエッセイを「詩素」次号に書いている(近日中に完成の予定)。ぜひご覧いただきたい。
(池田康)
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2019年10月25日

高橋アキ/ピアノリサイタル2019

昨日は豊洲シビックセンターホールでの高橋アキさんのピアノリサイタルを聴きに出かけた。曲目は、シューベルト「ヒュッテンブレンナーの主題による13の変奏曲」「4つの即興曲」、一柳慧「ピアノ・メディア」、間宮芳生「家が生きていたころ」、鈴木治行「句読点VIII」、クセナキス「ヘルマ」。
シューベルトは、なぜこんなに傾倒して集中的に取り組むのだろうと不思議に思わないでもなかったが、ショパンに代表されるピアニズムの精緻とはちがった、ある音型やフレーズの素朴な繰り返しを多用して曲を築いていくところが、高橋アキさんが専門にしている現代音楽曲に通じるところがあるのかもしれない。「4つの即興曲」にこもる内向的な熱には圧倒された。一柳慧「ピアノ・メディア」は有名な曲だが、今回、前から2列目の席という間近で、至妙の手の動きを見ながら聴くことができ、特別の興奮があり、大幸運だった。間宮作品は朗読付き(イヌイットのファンタジックな物語)、ピアノの響きのユニークに美しい瞬間が不意を打つようにちりばめられる。鈴木作品はタイマーを使った、主知的な曲と聴いた。「コンセプトは、音楽の自然な流れの切断、脱臼」と作曲者は解説する。クセナキス「ヘルマ」はとんでもない音の爆発で、ピアノ演奏の一つの極限に挑むものか、指が飛んでいた。アンコールでは湯浅譲二作品(小品二つ)とともに、武満徹編曲の「ゴールデンスランバー」が、最近亡くなられた武満夫人を悼んで演奏された。
(池田康)
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2019年10月22日

歌集『重吉』書評会

先週末の土曜日、江田浩司さんの歌集『重吉』の書評の会があり、参加した。文芸評論家の神山睦美氏が主宰する勉強会で、十余人が集まる。私のような新参の飛び込み参加も意に介さない開放的な空気は心地よくありがたい。歌人と詩人が半々くらいで来ていたか。神山氏の話は構えの大きな序の論の運びも参加者の発言の受け取りもとても丁寧で慮りが深く、感服した。『重吉』は、前にも少し紹介したが、詩人の八木重吉を思慕し讃仰する、歌集としてはきわめて特異な作品集であり、激賞から当惑まで多様な反応をもらっていると江田さんは語っていたが、この日は八木重吉の抱く本質的な悲しみ、キリスト教的要素のこと、重吉の詩とこの歌集の短歌の世界の違い、弱さのしなやかさの精霊的なもの、宗教文学の季節外れの霹靂、等々のテーマが出て各々さまざまに違う意見やら感想やらを開陳し、おおいに勉強と刺激になった。こういう気持ちの良い、質の高い充実をおのずと達成する研究会はなかなかないように思った。
この日はまた京橋のギャルリー東京ユマニテに立ち寄り、加納光於さんの個展を拝見した。1994年作の《巡りあう種子のように》連作とともに、最新作であろう、2019年作の《夜狐―六庭譜》連作が展示されていた。A4の大きさ程度の絵が6枚一組でまとめられている。三幅対の倍の構成だ。どういう考えからこのような構成に至ったのか、ゆかしい。加納さんは来月より富山県美術館で大きな展覧会も控えていて、にぎやかに多忙を極める秋のようで、喜ばしいことだ。
(池田康)
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