2016年08月23日

悲願幻想の最重量

台風も直撃のような形でやってくると油断できない。高いところにある常設拡声器からの注意報が耳を脅す、この夏一番の大荒れの日だった。
リオ・オリンピックが終わった。ときめく瞬間や心揺さぶられる場面がいろいろあったが(女子柔道・田知本遥のあしたのジョーみたいな極限の戦いぶり、陸上男子400mリレーの鮮やかな走りっぷり、など)、言語上のカルチャーショック的なときめきの第一は、女子マラソンのメダリスト三人の名前。スムゴング、キルワ、ディババ。響きがあまりに新鮮、完璧な異質さにどきりとした。四年間有効の必勝祈願のおまじないの文句にするといいかもしれない。ケニアとバーレーンとエチオピアの選手で、アフリカの方角の空気がさっと広がるように感じられた。男子マラソンも、キプチョゲ、リレサ、ラップ、と三位にアメリカ選手が入っているが、なかなか刺激がある。二位の選手は自国に抗議するデモンストレーションをやったことでも注目を浴びていた。
また、これは新聞で読んだ話だが、ブラジル・サッカーチームのネイマールは決勝の試合で「エオ・エスト・アキー(俺はここにいる)」と叫んだとか。これも言葉の角張ったフィギュアが印象に残る。試合の最後のPKで、彼の上にのしかかったブラジル国の悲願の重さは、かつて円谷幸吉が感じたものに匹敵するだろう、大変なものだったに違いない。この伸るか反るかをサヴァイヴできたのはラッキーだった。大会を通しての悲願幻想の最重量をもちあげた金メダル。
(池田康)
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2016年08月17日

新実徳英著『A.E.あるいは希望をうたうこと』

この夏、作曲家の新実徳英さんの上記エッセイ集が刊行された(ARTES、本体2200円)。毎日新聞九州版に2007年から2013年まで月一回で連載されていたもので、九州の話題も所々に挟み込みながら、作曲のこと指揮のこと合唱のことなど、自ら職業とする音楽に関するあらゆる現象や経験を思いつくまま、独特の軽やかにダンスするような口調で語ってゆくので、読者は楽しく読みながらいつの間にかたくさんのことを学んでいるはずだ。多くの場所で表されるバッハに対する敬愛の念は、そこまでなのかと、ちょっと驚くほどだし、仏教関係の特別の曲を含む近年の新作創作の破格の多忙ぶりも、知りませんでしたと恐れ入るばかりだ。
このエッセイ集のもっとも重要な点は、2011年の東日本大震災をはさんでいることで、連載にとっては図らずものことだったろうが結果的にこの本の貴重な意義となっている。タイトルの「A.E.」というのは「After the Earthquake」の略であり、新実さんは忘れてはならないの心から大震災以後の自作に「A.E.番号」をつけているのだ。2011年3月以降の章ではしたがってその関連の話が多くなっている。巻末に収められている、詩人の和合亮一さんとの対談ももちろん大部分は大震災をめぐってのやり取りであり、おおいに考えさせられる。
こう書くと深刻そうに聞こえるが、全体を通して感じられるのは新実さんの楽しそうな声の明るさ、心映えの明朗さであり、「希望をうたう」というタイトルの言葉はぴったりと言える。新実さんの音楽を聴いたことがある方は(ない方も音楽に興味があれば)ぜひ本書を手にとってこの作曲家の思考と感性の柔軟な動きに接していただきたい。
(池田康)
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2016年08月13日

ポール・サイモン DUNCAN

ポール・サイモンの新しいアルバム『STRANGER TO STRANGER』のボーナストラックに、かなり昔の作品「Duncan」が入っている。最近のライヴで演奏されたものの収録。この曲は2002年のベスト盤『The Paul Simon Collection / On My Way, Don't Know Where I'm Going'』でも本編にこそ入ってないがやはりボーナスディスクにロンドンでのライヴ演奏版が収録されている。かなり大切な曲なのだろうか。もともとは1972年のアルバム『Paul Simon』の2曲目。
「洪水」18号のエッセイでこの歌手の仕事に触れたこともあり、この際彼のオリジナルアルバムのすべてを聞いておこうと、『THE COMPLETE ALBUMS COLLECTION』というボックスセットを手に入れたら、有難いことにその中に2枚のライヴ盤も入っていて(1974年と1991年のもので、どちらも感涙級の演奏)、1974年の方ではこの曲が「El Condor Pasa」と「The Boxer」の間に挟まれて5曲目に演奏されている。この位置は正確にこの曲の性格を表している。フォルクローレの響きと調べのなかで虐げられた人間の声を聞くという点で「コンドルは飛んでゆく」に通じ、心理的&物質的に無一文の情況をうたうという点で「ボクサー」に通じている。「Holes in my confidence/Holes in the knees of my jeans...」故郷を離れ貧窮する若者が聖書を説く娘と出会い……『PAUL SIMON LYRICS 1964-2016』の序文でDavid Remnicは「Duncan」を挙げ、ポール・サイモンは複雑な物語を信じ難いスピードで構築する、と指摘している。その通りだが、第一に、どうして〈無一文の孤独の生〉にこんなにも迫真的に憑依できるのかということに驚く。「ボクサー」も同様で底辺を歩むきびしい生の姿が描かれる。自身の経験もなにかあるのかもしれないが、もっと奥のアメリカの原点、移民として無一文でこの地にやってきた祖達の途方にくれた絶望の声が響いているような気もする。アメリカにはどこかにそのような生活の底のアナーキーなまでの無一文の感覚があって、それが彼の歌に染み出てくるのではないだろうか。
「ボクサー」の第4連ではrolling、rockingという言葉が出てくる。年月が経とうと、根本のもの(…just a poor boy…)はなにも変わらない…。これが彼のロックンロール観につながっているとすれば、かなりもの悲しい傾きのものと感じられる。そしてそのような無一文の感覚がworld musicへの道を拓いているような気もするのだ。
アルバム『Paul Simon』にはボーナストラックに「Duncan」のデモ版も収録されていて、完成されたものと相当違っており、興味深い。最新アルバム所収の「Duncan」は声の深さが嬉しい。
(池田康)

追記1
アルバム『STRANGER TO STRANGER』本編は『グレースランド』ほどの強烈な斬新さはないものの、各曲で音楽の新しい調子や形を追求しており、その手掛かりとしてサイモンは付属冊子の自作解説で独自の楽音システムを考案した作曲家ハリー・パーチとフラメンコの演奏(手拍子足拍子つき)を挙げている。ラブソングでありながらラブソングの構造そのものをクリティカルに省察したり(タイトル曲)、伝説の野球選手の話が究極の宗教の問題に展開したり(COOL PAPA BELL)、詞の動き方が意表をついていて、聴き込むほどに興が深くなる。

追記2
今回いろいろ聴いた中で、「Take Me To The Mardi Gras」(アルバム『There Goes Rhymin' Simon』1973 所収)が気になった。曲の最後の方で、マルディグラの祝祭の音楽なのだろうか、輪郭がぼんやりとした、いろんな色の雲が遊んでいるような、とても不思議なかんじの音楽が出てくる。なんとも魅力的。こんな音楽をやるバンドがあるなら、ぜひ聴いてみたいものだ。
『The Paul Simon Song Book』(1965)から…「A Church Is Burning」、「A Most Peculiar Man」は聴き逃してはならない。心して聴くべし。そして「Kathy's Song」はこの世で最も美しい歌の一つだろう。なにを今更と言われそうだが。

追記3
『LIVE IN NEW YORK CITY』(2012)を聴く。うーん、やはりこの人は聴かない方がいいのかもしれない!? 他の人の大概の曲が凡庸に思えてくる。
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2016年08月07日

蜂の巣

 蜂はとんでもないところに巣をつくる
 たとえば男のアパートのベランダ
 其処がとんでもないのは たんに
 男の都合にすぎないのだが

 特別に歓迎はしない
 無理矢理追い出しもしない
 刺さないでね
 ひらにお願いするだけだ

 蜂よりも燕の巣のほうがいいのにと
 贅沢を言うものではない
 蜂には蜂の幸福がある
 巣は幸福の象

 散歩の途中サルビアの周りを飛ぶ
 一匹の蜂 あれはウチの蜂だ
 と考える はや身贔屓の
 蜂の家の一員になりたがっている男

ついでにもう一つ、日常生活の独り言のような零墨詩。ベランダに蜂の姿をときどき見るようになったのはかなり前だから春の早い頃から巣はあったのかもしれない。存在を確認したのはつい最近。彼らはどういう条件でロケーションしたのだろう。空き家になっているアパートメントもあるのに。
(池田康)
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2016年08月06日

スモモ頌

 貴陽を今夏の楽しみとする
 紅く熟れて高慢ちきに醇なれば
 成敗してやると歯を立てて齧るに
 果実は快を叫び果汁を迸らせる

 暑熱は生命臨界の高い山脈を造り
 朦朧として登り行く陽炎の影
 朱夏 大きな果実 光の童話
 登場人物はすべて裸で光彩を読む

 夏の光 夏は光り 彩に重なる彩
 ほのかに歪な楕形に凝結する枝先
 光の実をもぎ取る手 太陽の巨人
 夏は神々の真昼の正餐の大皿だ

 蝉たけり 草むし 雷雨あらう夏
 李の季は甘い酸いただ一語に熟れて
 その光身を口にふくむとき一語溶け
 仮象の〈内〉と〈外〉をつなぎ合わせる

貴陽というのはスモモの一品種、比較的新しい種類だろうか、食べてみるととても美味いので感激のあまり、スモモ頌を書きつづり深甚の謝意を表した次第。一種の機会詩なのでタイミングを考慮したく、旬のうちに、ただちにここに紹介した。冒頭の「貴陽」には「あなた」とルビしたいところ。
アイスクリームやかき氷も風物だし桃もスイカも勿論おいしいが、このところ私はもっぱらスモモビトとなって貴陽に専念執心している。
(池田康)
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2016年07月31日

吉増剛造展 声ノマ

昨日上京の用事についでに、かねて林浩平さんから勧められていた吉増剛造展「声ノマ」(竹橋・東京国立近代美術館)を観た。タイトルは「声の真」「声の間」「声の魔」を意味するらしい。詩の草稿・生原稿、日誌や書簡、多重露光写真や映像作品、さまざまな音源を収めた数百本のカセットテープ、銅板打刻オブジェ、などなど、詩人という地味な存在が作り出すものとしては例外的に華やかな景観となっている。最新の詩集『怪物君』(みすず書房)が会場に無造作に置かれていて自由に頁をめくれるのはありがたい。最後の部屋では舞踏家の大野一雄とのコラボレーションの映像作品を上映していて、大野の芸を目の当たりにすることができる。これを自己解釈として見るならば、「私の詩は“暗黒舞踏”である」と言っているのであろうか。
近著『我が詩的自伝』(講談社現代新書)は詩人自らがざっくばらんに語る、生きてきた時代のドキュメントのようで、おもしろそうだ。
(池田康)
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2016年07月24日

緋国民楽派14回コンサート

昨日、「緋国民楽派」の第14回作品演奏会を錦糸町のすみだトリフォニー小ホールで聴いた。「緋国民楽派」は寺嶋陸也、萩京子、吉川和夫の作曲家三氏のグループ。「洪水」18号にインタビューで登場してくださった萩さんにご案内をもらって。演奏は、水野佐知香(vn)、寺嶋陸也(pf)。コンサート前半は「緋国民」にしては上品でシリアスな曲が並んだが、後半は歌の弾力が感じられる曲を柱にしたプログラムになっていた。
もっとも強くはっきりと音楽の愉楽を享受したのは寺嶋作「グリーンスリーヴスによる変奏曲」で、おなじみのこの民謡をもとにした変奏曲を無伴奏のヴァイオリンで弾く。バッハを思わせるような構築の変奏もあり、バロック風、古典派風、ロマン派風などと変化をつけていったと作者が語るとおり音楽スタイルのメタモルフォーゼが面白い。学生時代に作った曲の発展形の一つだそうで、寺嶋氏の創作にかけるしぶとさが偲ばれる。
吉川氏は清冽な「幻想風小品〈NAIWAN〉」「Air」の二曲で音楽に対する誠実な取り組みの姿勢がなんとなくわかった。(「ソナタ風幻想曲〈SANRIKU〉」は長すぎてこのとき少し往路の疲れからくる眠気と格闘していた私には全体がつかみにくかった)
萩さんの曲「A FOREST」は純然たる器楽曲で、オペラの仕事とはちがった面でのきびしさを見ることができた。「もうひとつの…」は歌をもとにした5曲の組曲で、歌のリズムと旋律が楽しい。
「緋国民」とはなにか。こんな国のメインストリームに従順な国民にはなりたくないという思いもあるのかもしれないが、「緋の国」の民という意味かもしれず、とすると「緋国」とは幻の歌の国のようなものだろうか。
ヴァイオリンの技を存分に堪能した一夜だった。
(池田康)
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2016年07月18日

吉田義昭ライブ@あおしま

昨日の午後、青山一丁目のレストランあおしまで吉田義昭さんのライブがひらかれた。詩集『空気の散歩』(洪水企画)の刊行記念として。会場の店は素直な広がりのスペースが気持ちよく、落ち着きがあり、備え付けのピアノを置いた常設のステージが立派で、快適に聴くことができた。
曲目は「ジャニー・ギター」「希望」「Unchained Melody」「バラの刺青」「追憶」など。演奏はヴォーカルの吉田さんの他、宮本一(シンセサイザー)、宮本あんり(ピアノ)のご夫妻。プログラム最後の「アドロ」は暗く悲しすぎるから長らく封印していた曲とのことで、たしかに初めて聴くかんじ。「花水木の手紙」は詞=吉田義昭、曲=宮本一の新曲で、大丈夫かなあという言葉とともに緊張感いっぱいに披露された。新曲が混ざっていることのよい点は、緊張がその曲に集中し、他の曲は過度に神経質になることなく伸びやかに歌えることだろうか、聴く方も細かいことを考えずゆったりした酔い心地で聴ける。
ライブの前半と後半の間に詩集を祝賀する時間がもうけられ(小生司会)、高山利三郎・林哲也・山中真知子・庄司進・沢聖子・南原充士の六人の方々のスピーチ・朗読がなされた。それぞれのコメントになるほどと共感し、ことに吉田さんの若い頃の詩の仕事が紹介されたのが個人的には非常に興味深かった。またこの日いただいた小詩集『想い出が満ちてくる』には昨年の辛い体験(奥様の急逝とご自身の病気)を語る詩が収められていて痛切な思いをさせられる。
ライブの後は食事。初対面の方とも話ができ、長時間の会ながら密度の高い輝かしい午後となった。
(池田康)
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2016年07月11日

第56回中日詩祭

昨日は名古屋・電気文化会館でひらかれた第56回中日詩祭に参加した。平野晴子さんが詩集『黎明のバケツ』(洪水企画)で中日詩賞を受賞した、その授賞式のため。同時受賞者は加藤千賀子さん(詩集『POEMS症候群』)。
式の過程でオッと思ったのは、中日詩人会会長の若山紀子さんが賞状を受賞者にわたすのだが、その賞状の文面を読み上げる中にその詩集への短い批評コメントが入っていた点で、平野さんの場合は「現実の困難を詩に昇華」云々というコメントが織り込まれた。あれは賞状に書いてあるのだろうかと後で平野さんに尋ねたら、賞状を見せて下さり、ちゃんときれいな毛筆の文字で書いてあり、実に丁寧なやり方だと感心した。平野さんは受賞の言葉で詩集中の一篇「仲良くだけは出来るよ」を暗誦で朗読された。
授賞式の後、長谷川龍生氏の講演(小野十三郎、パウル・ツェラン、折口信夫のことなど)、細川華鶴子氏の薩摩琵琶演奏(平家物語など、唄もよかった)があり、それぞれ貴重な時間となった。
(池田康)
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2016年07月08日

洪水18号

kz18hyoshi.jpg「洪水」18号が完成した。今回の特集は「音楽劇 オペラ 歌物語」。インタビューは4人の方に試みている。作曲家でオペラシアターこんにゃく座の代表兼音楽監督の萩京子さんにはこんにゃく座の歴史と活動のお話をしていただき、昨年大著『オペラの20世紀』(平凡社)を刊行された音楽学者の長木誠司さんには現代オペラの流れの概略を説明していただき、フランスオペラに詳しい詩人でフランス文学研究の安藤元雄さんにはオッフェンバックとボードレールのこと、マスネやビゼーのことなどについてうかがい、長く「短歌絶叫コンサート」を続けておられる歌人の福島泰樹さんにはこのコンサートや執筆創作全般のことをお尋ねし、といった具合で、それぞれ非常に興味深いお話を聴くことができた。安藤さんと福島さんはインタビュー原稿を入念に書き直して下さり、締切をかなり過ぎてひやひやしたが、綻びのないすばらしいまとまりの記事原稿となり、ありがたいことだった。嶋岡晨さんには前号に引き続いてシナリオ詩をいただいた。今回は「カルメン変容」。エッセイは森山恵さんの連載「オペラでシェイクスピア!」第2回を特集に編入した他、詩人を中心に十人ほどの方々にご執筆いただいた。おおよそ、総論、合唱、シェイクスピア、フランスオペラ、日本、といったかんじで並べてみたがいかがだろうか。國峰照子・竹田朔歩両氏の詩は、スペースがあいたので、それぞれの既刊の詩集から転載させてもらったのだが、案外これらのページがこの特集でもっとも強烈な輝きを放つ部分になっているかもしれない。小生のまとめのエッセイは、近現代を「欲望」と「自由」から考え、現代オペラとアングラ劇をつなげる論考となった。
ほかに、平川綾真智さんがシュルレアリスムと音楽の関係を考える論考の連載が始まる。これは以前「エウメニデス」(小島きみ子さん編集発行の詩誌)で発表されたものの続編にあたる。さらに短歌の加藤英彦さんが十五首詠「水の素描」で参加して下さっているのと、南原充士さんが「雲遊泥泳」で若い世代の詩人を論ずるコーナーを開始(今号は「望月遊馬篇」)したのが新しい。井上郷子さんの批評連載、今回は作曲家の田中聰さんを取り上げている。さらに神品芳夫さんによる南原充士論にもご注目いただきたい。
(池田康)
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