2015年11月27日

嶋岡晨詩集『騒霊』

shimaoka-sourei.jpg嶋岡晨さんの新しい詩集『騒霊』が洪水企画から刊行された(1800円+税)。サブタイトルが「Poltergeist」となっていて、その訳語が「騒霊」なのだそうだ。霊のようなモノがいたずらをする現象ポルターガイストだが、そう言われると妙な物音が聞こえてきそうで、不安な心持ちで読み進むことになる。今回の作品はおもに今年書かれた詩篇で、見開き2ページに収まる短いものが多く、全部で36篇収録されている。アイロニーとペシミズムを織り交ぜた小気味よい諧謔は健在だ。「草ひばり」「豆的運命」など小さな生命の姿をヒントにしてイメージをふくらませた作品もあれば、「機織り」「進駐」のように若年の思い出をつづった作品もある。不条理の運命を悼む「夢の箱」、亡き友を偲ぶ「F君のハンガー」も痛切。もっともストレートにがつんと衝撃が来るのは、母の霊との対話とも言える「姨捨」かもしれない。しかし引用するのには長過ぎるので、本で読んでいただくことにして、ここではタイトル作の「騒霊」を紹介したい。これは「化け損ねのお化けの群れに」という詩の次に置かれ、芭蕉の句「草の戸も住み替る代ぞ雛の家」が詩の題の横にそえられている。

 ひとが死ぬと 瞬間
 その「住処」が引っ越すのだ どこかに
 そこにでき上がる だれも知らない
 生臭い肉の家

 新しい腐敗臭と 同居人
 たましい一族のガタピシ揺れる仮住まい
 法外な家賃を請求する 骨だけの家主の声
 柱にしがみつくのは
 騒霊(Poltergeist)

 先住者の妄念のスリッパの音
 咳払い あくび くしゃみなども
 天井や床下にまだ棲みついたまま
 だが新しい住人は契約した
 すべてを譲り受ける と
 名前も 顔も 性癖も そっくりそのまま

 住み替わるとはそういうこと 即ち
 どこにも死んだ人はいないのだ。

「現実にはもうずいぶん久しく現住所に定住しているが、精神的には今でも頻繁にあちこち引っ越しているつもり。むろんその都度、過去や未来の騒霊にひとりかってに悩まされている。/現実的にはそれはある体験の核心にとり憑いた痛みやここちよさのようなものか。消失と復活の繰返しを求める執拗なある心情の主張ともいえよう」と後書は言う。「詩的騒霊」を楽しんでほしい、とも。
(池田康)
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2015年11月21日

映画「FOUJITA」

今日の午後、買物のついでに新宿の武蔵野館で映画「FOUJITA」(小栗康平監督)を観た。佐藤聰明さんが音楽を担当しているので是非見ておかなければならず、うかうかしていると見逃してしまうので早いうちにと思って。12時からの回を観るつもりで出向いたら、週末の都心の映画館は侮れない、すでに満席で次の回にまわされてしまった。空いた3時間を本やらレコードやら物色して紀伊國屋書店などいくつかの店を歩いて回ったので疲れてしまい、映画の最後の方は目を開けていられなくなったのは無念(眠りはせず耳では聴いていたはずだが……)。
画家・藤田嗣治のパリ時代を前半で、第二次大戦になり帰国してからの生活を後半で描く。前半の、フジタ祭の馬鹿騒ぎと、それに続くフジタとユキのベッドの上での会話のシーンは彫りが深く秀逸。ピカソがぼそっと悪口を言うところも面白い。画家がモデルをヌードにさせるのは当然なのだろうがこうして見ているとなかなかショッキングで、世界を裸にしようとする絵師の気迫はことによったら悪と呼ばれ得る側に立つのかもしれないとも感じられるのだった。
後半は逆に国家的な正しさの側に所属することになる。基調が重苦しく陰鬱で、見ていて楽しいということはないのだが、若者が召集令状をもらって戦地に赴こうとする直前を描く場面は心に残る。前後半を通じてフジタに意外に多く絵画論を語らせているのは注意のポイントか。絵空事には物語があると助かる、なんて本音とも冗談ともつかぬことも話していた。
小栗監督の組み立てと編集のやり方はポエティックな飛躍を用いた大胆で鋭利なもので、鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」三部作の作り方に似ているようにも思われた。パリ時代は自力で道を切り拓いてきた(有名になり人気を得るための空疎な努力についても自らの口から語る)フジタも、戦時中の母国では時代の流れに呑まれ、迷子になるしかなく、狐に化かされているのだとわかっていても、黙って化かされているよりほかなかったのだろう。棚田の無数の水鏡の中に立つ画家の姿は監督がこの映画の始末を托したシンボリックな絵であろうか。
佐藤聰明さんの音楽は厳かな響きと簡素な組み立てで霊廟空間を強力に生み出していた。
(池田康)
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2015年11月15日

神品芳夫さんのリルケ論

昨日は東大駒場キャンパスで日本詩人クラブの例会がひらかれ、神品芳夫氏のリルケに関する小講演があるというので出かけた。プログラムはほかに船越素子・武西良和のお二人の詩朗読と、柴田三吉氏の東日本大震災後の状況についての講演。
神品さんがこの秋青土社から刊行された『リルケ 現代の吟遊詩人』はこの汎ヨーロッパの詩人の生涯の文業についての広汎な論考となっていて、詩に対する的確な視線もたのもしく、興味のある人間にとっては非常に読み甲斐がある評論集となっている。リルケは周知のごとく晩年に「オルフォイスへのソネット」の大作があり、「洪水」次号の小特集「オルフェ行 詩人と死」にまさしくふさわしいので、10月にインタビューさせていただき、すでに記事原稿はほぼできている。どうかお楽しみに。
(池田康)
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2015年11月10日

奥成達さんお別れ会

一昨日の8日は新宿のシアターPooで、夏に亡くなった奥成達さんのお別れ会があり、参加。すでにお仲間が大勢来ていて、出入り口の付近に立って場所を占領して邪魔になってもいけないと思い、長居せず早々に辞去したのだが、ひさしぶりに白石かずこさんにお会いできたのが嬉しかった。その隣には、八木忠栄さんと佐藤文夫さんも。How nice to meet you againとかなんとか英語で声をかけられたのには、びっくりした。
(池田康)
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2015年11月06日

新曲をうたう

昨夜は浜離宮朝日ホールでひらかれた「新作歌曲の夕べ2015」コンサートを聴いた。吉田義昭さんのご案内による。詩人が書いた詩を作曲家が歌に仕立てた新曲18曲が披露された(+追悼曲一曲)。ピアノは二人が交替で弾くのだが、歌手は十人ほどが入れ替わり立ち替わり登場してうたう。それぞれに歌声の質がちがって面白い。ベルカントの調子があまりに強すぎると、歌曲には向かないようで(日本語と合いにくいということもあるかもしれない)、響きの濃厚なオペラの場合はともかく、こういう歌の場合はもう少し普通にうたってよと言いたい気がする瞬間もあった。吉田さんが書いた作品は「春の伝言」、明るめの曲。ソプラノの高い音域で、吉田さんも歌手だがこれだと歌いにくいだろうなと思いながら聴いていた。作曲家は音の高さをどう決めるのだろう。標準的なソプラノの音域に収まるよう書くのが普通なのか、あるいは作曲時のインスピレーションのようなもので調が決まるのか、今回の場合うたう人が決まっていてそれに合わせたのか(しかし商業音楽ではないし歌は普遍的存在であるべきだからそれはない?)、ゆかしいところだ。他の曲も、歌手が上手に言葉を運んだり、滑稽味をうまく演出したり、ピアノが刺戟的だったり、詩の世界が珍しかったり、特色さまざまで聴いていてなかなか楽しかった。新曲披露はやる側も聴く側も苦労はあるが、張り合いもある。せっかくのお披露目の会なのだから、一曲ごとに詩人と作曲家を立たせて光を当ててもよいとも思った。
この日の往復の電車のなかでは、酒井眞知江著『ニューポート・ジャズ・フェスティバルはこうして始まった』(講談社)を読んでいた。1950〜60年代のアメリカでのジャズ音楽とミュージシャンをめぐる状況の細部がよくわかる本だ。
(池田康)
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2015年11月01日

島村洋二郎展

昨日の午後、御茶ノ水のアートギャラリー884で開催されている「島村洋二郎展」を訪れた。山本萠さんのご案内による。クレパス画ながら力強い筆致で、人間の顔を、大きく青く暗く輝く印象的な眼を中心に、集中力をもって描く。島村洋二郎は1953年に結核のため37歳で亡くなっており、生前に世に入れられなかったという点ではちょっとゴッホにも似た苦難の境遇の画家だが、結婚して子供も得たという点ではゴッホよりも恵まれているのかもしれない。しかし二人の妻との間の「ドラマ」が島村洋二郎の生涯をかならずしも幸福ではない方向へ運命づけたとも言えるようだ。菫を手に持った晩年の自画像は彼の絶望を圧倒的なまでに表現している。最晩年は木賃宿で暮らしていたようで、そういう宿を居場所とする人間たちの肖像も何枚も描いている。
洋二郎の死後、彼を再び世に出したのは姪の島村直子さんで、本屋でふと手にした宇佐見英治著『芸術家の眼』(1984)の表紙と文章で伯父を「発見」し、宇佐見氏の協力のもと、銀座の現代画廊(洲之内徹が主宰していた銀座のギャラリー。彼の美術エッセイ「気まぐれ美術館」でも取り上げられた)で遺作回顧展をひらき、それ以後も未知の所有者の手元に収まって埋もれている絵を掘り出して集めては何度も個展を開いてきた。
この日はそんな経緯を簡潔に再現したDVDの上映と、このDVD作品の監督・船津一氏と直子さんの対談もあり、どんな思いで作品とのめぐり合いを重ねてきたかが率直に語られた。洋二郎の二人めの妻との間に生まれた男の子はアメリカ人夫婦の養子になってアメリカに渡り、行方はわかっていないそうで、この画家の生涯の破断面の危ういギザギザがそこにまだ消えずに残っているようにも感じられる。
画集は用美社から1988年に出たが、現在品切れ、新版を編集中とのこと。今回の展覧会は8日まで。
(池田康)
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