2016年01月26日

新実徳英『弦楽四重奏曲第二番〈アスラ〉』

niimiquartet2.jpg新実徳英さんの室内楽の新しいCD『弦楽四重奏曲第二番〈アスラ〉』(カメラータ・トウキョウ)が昨秋に出た。曲目は「弦楽四重奏曲第二番〈アスラ〉」、「ピアノ三重奏曲〈ルクス・ソレムニス〉」、「ソナタ〜チェロとピアノのために」。演奏はクワトロ・ピアチェーリ(大谷康子、齋藤真知亜、百武由紀、苅田雅治)、若林顕(piano)。これは2013年10月1日に浜離宮朝日ホールで行われたコンサートを録音したもので、譜面をめくる音まで入っている生々しさだ。CDを聴くとこれが本当に生演奏そのままなのかと訝しむくらいに精巧に弾かれていて驚かされる。実は私はこの演奏会に行っていて感想もつづって残しているのだが、今回のCDを聴いてその文章を読むとなにかぴんと来ない部分がすこしあるのは不思議で、おそらく生身の身体をコンサート会場に置くときはそのときだけの印象の受け方があるのだろう。
この作曲家は大変な実力者だから、どの曲も非常によくできているとまずは言える。ただ変なことを言うようだが、作曲者の新実さんとの距離の近さから、作品として突き放して聴くのがやっかいで、むしろ新実さんが“音楽語”で語っている話のように聴こえ、それが仮に作品という形をとっているという感じがするのだ。そう感じさせるもう一つの要因は、これは弦楽四重奏曲第二番のことなのだが、2011年3月の東日本大震災の直後にその余韻を引きずりつつ書かれたということもあるのだろう。2楽章と3楽章は東北の惨状を伝えるテレビ報道を見ながら書いたと付録冊子の自作解説にある。その成立過程こそ、この曲が作品としての形を明確にしにくい重要な要因なのではないか。大災害をテーマにして、あるいは題材として音楽を創る場合、もっとも有力な可能性はレクイエムにするという道だが、レクイエムは自身が静かな心持ちになければ落ち着いて紡ぐことはできない。目前の危機にいまだ自身の命が脅かされている状態でレクイエムを作るのは難しいだろう。従ってこの曲はレクイエムではなく、レクイエムを書けるような位置を探すためのあてどなき漂流という形を取ることになる。だからここでの新実さんの“音楽語”による語りを私は「どこだ、どこだ?」と聴くのだ。レクイエムを書くための位置を探すという形での変則的レクイエム。
以前、音楽には世俗音楽と宗教音楽という区別があり、この区別は他の文化ジャンルについても重要な区別として有効なのではないかということを真剣に考えたことがあるが、現代音楽について考えれば、世俗音楽であろうとするにはエンタテイメント性に乏しく一般聴衆の情緒の新陳代謝に易々と関与する親和性もないから、特定の宗教に帰依するのではなくても、宗教音楽的なものに活路を見出さざるを得ないのではないか。つまり一点の宗教性(あるいはコスモロジーの臍/宇宙樹の種/世界座標の感覚とも言えるのかもしれないが)がなければ現代音楽はどうしても泡沫の創作行為に終わるような気がするのだ。
昨年のサントリー・サマー・フェスティバルで演奏されたB.A.ツィンマーマンの「ある若き詩人のためのレクイエム」のライヴ録音を先日NHKFMの「現代の音楽」で放送していたが、あんなに引用たっぷりのごちゃごちゃした無秩序ともいえる曲なのに清聴できるのはやはり一点の宗教性がどこかに感じられるからだろう。
そんなことも考えながら、新実さんの“音楽語”の語りの中に一点の揺ぎないものを目指すベクトルを感じつつCDを聴いたのだった。
(池田康)

追記
新実さんによれば「レクイエム」はキリスト教文化の特殊な(贖罪の)意味合いがあるので、単なる「鎮魂曲」とは違うとのこと。上の文脈であれば「鎮魂曲」とすべきということなのだろう。
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2016年01月23日

「死刑台のエレベーター」

「午前十時の映画祭」という昔の名作を上映する全国規模のシリーズ企画があり、その中で「死刑台のエレベーター」(ルイ・マル監督、1957年)がこの二週間ほど上映されるということで、観にいった。この作品はマイルス・デイヴィスが音楽を担当していることで有名。洪水17号のジャズ特集の気分はまだまだ続いているらしい。以前一度観たことがあるかもしれないのだが、最初から最後まで全く未知の作品を観る感覚だった。よほどの健忘症か、それとも観たことがあるという記憶は単なる思い込みだったか。
練りに練った計画だったはずが、ちょっとした手違いからエレベーターの小空間で身動きができなくなり、更に外では車と銃が思いもかけぬ犯罪を誘発してしまうという意表をついた筋の巧妙さは今でも新鮮だ。夜の街をさまよい歩くジャンヌ・モローも魅力的。この時期のフランス映画でのこの人の存在感は相当なものなのだろう。悪の似合う、しかし王者の威風も漂わせる女優(「危険な関係」でも悖徳のヒロインとなっていた)。電話交換機の操作とか自動車のフォルムとか記者のカメラとか新聞の版下を組むやり方とかエレベーターのドアとか、半世紀の隔たりがそれ自体として魅惑。ハリウッドのアクション映画のようにすいすい鮮やかにことが運ばず、いたるところに人間の行動の不器用さが露呈しているのも心に触れてくる。最後の暗室のシーンも印象的だ。
音楽はマイルス・デイヴィスのトランペットももちろんすばらしいが、ベース(ピエール・ミシェロ)、ドラム(ケニー・ クラーク)もよく効いている。
全国各地のいくつかの館で上映しているはず、お見逃しなく。
(池田康)
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2016年01月20日

三島由紀夫とオルフェウス像

中条省平編『三島由紀夫が死んだ日』(2005年、実業之日本社)を読む。小島千加子、瀬戸内寂聴、篠田正浩、森山大道、猪瀬直樹、呉智英、鹿島茂、中条省平といった人たちが回想や批評を寄せているのだが、ほぼすべての人が、この国の未来を正確に見抜いた予言として引用している三島由紀夫の言葉があって衝撃をおぼえる:
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら『日本』はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである」(昭和45年7月)
この本の巻頭には三島邸の庭に立つアポロ像の写真が載っているのだが、「洪水」17号でオルフェウス特集をやったこともあり、私の目には竪琴を持つこの神像がアポロンの息子オルフェウスに見えた。そうすると三島由紀夫がオルフェに扮し、古き良き日本(もしくはなにか架空の理想郷)という失われた“妻”を奪還しに現代という暗愚な冥府へやってきたのだというイメージシーンも成立しうる。
昨年末、野村喜和夫著『証言と抒情』、細見和之著『石原吉郎』を読み、さらに現代詩文庫(思潮社)の『石原吉郎詩集』などを繙いたりして詩人石原吉郎の内実を少しずつ知りつつあるのだが、石原は三島の自刃にそうとうショックを受けたのではないだろうか、というのが私の憶測だ。もちろん思想的に違うところは多々あろうけれど、透徹した醒め切った目で眼前の社会を見ることができ、その空気の中で安逸に生活すること自体が“敵前逃亡”であるように感じられたという点は共通していたのではないか。晩年石原が切腹の真似事をやってみせたというのも三島の影を思わずにはいられない。
ついでに。中条省平氏の著書では『フランス映画史の誘惑』(集英社新書)も最近お世話になった。19世紀末の映画誕生(映画の幼年時代も非常におもしろい)から戦中戦後の黄金期、ヌーヴェルヴァーグ(ジャズ特集の関連でいくつか観た)をへて現在まで要領のよい道案内でフランス映画に対する関心がおおいにふくらんだ。
(池田康)
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2016年01月14日

佐藤史生のオーケストレーション

ことによったら四半世紀も前になるかと思うが、なにかのきっかけで佐藤史生のマンガ『夢みる惑星』を読み、強い印象を受け、あれはよかったなとずっと覚えていた。大人気の作品というほどではないからその後はなかなかお目にかかれなかったが、小学館文庫に収録されていて昨秋たまたま手に入り、久方ぶりに再読し、やはり気持ちよく読みふけることができた。佐藤史生の幻想を紡ぐ思索の跡をたどるのは愉楽だ。話の流れのナチュラルさ、登場人物たちの香り高さ、荒唐無稽なSF設定も物語世界に溶け込んですぐれたオーケストレーションの一部となっている。最後の閉じ方は視点が飛びすぎてかえって興醒めの感もあるが、瑕といえるような瑕のない旋律豊かなファンタジー古代史譚であり、四半世紀前の大昔の印象の正当が確かめられてよかった。
そして最近、この漫画家のもう一つの代表的長編『ワン・ゼロ』を某所で借りて読むことができ、また違った作品世界を楽しめた。こちらのほうが展開が自由で、古代インド神話を取り込んでより過激に荒唐無稽だが、物語の舞台は現代に近く、風俗も身近なところで想像でき、テーマとなっている問題意識(コンピュータの極限的可能性)が一層切実なものとして迫ってくると言えるかもしれない。
さてこのあいだ「スターウォーズ」の新作(エピソード7)を見てきたが、エンタテインメントとしては十分楽しめるけれど、旧作に比べると真面目にスマートに活劇を作りすぎているように思われた。「スターウォーズ」の魅力の一番肝心な部分は物語の本筋と無関係に横切る異形のものたちの異体系の行為や表現であり、それがあいまってバフチン的とも言える猥雑な複次元混淆の祝祭感、コズミックな笑いが現れることであり、それはC3POの間抜けな漫才やハン・ソロのアウトロー・ジョークや化け物たちのどたばたによる不条理な邪魔だてになって示現する。そういう点にさほど重きが置かれなかったためエピソード7は普通の真面目な冒険活劇という印象が強くなってしまったのではないか。もっと不良で巫山戯た「おぺら」であっていい。
従ってエピソード8、9をよりスターウォーズらしくするためには異質な系、異形の存在の流入と絡み合いがもっとあらまほしく、たとえば佐藤史生と手塚治虫と赤塚不二夫をごたまぜにして骨を作るのも一興かと考えるのだが、アイデアとしては馬鹿馬鹿しすぎるだろうか。
(池田康)
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2016年01月12日

山野楽器で入手可能です

「洪水」17号を銀座の山野楽器本店3階書籍売り場に納品しました。ぜひご来店いただき、ご覧の上お買い求め下さい。
(池田康)
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2016年01月10日

Norah Jones

ノラ・ジョーンズはファースト・アルバム『come away with me』を聴いたことがあり、個性的な味わいのある歌手で、見切ったような中庸を泰然とキープできる統御力の持ち主だなというように承知していたが、ジャンルとしてはジャズに分類されていることを最近知り、「洪水」17号でジャズの特集をやったこともあり、ノラ・ジョーンズにおけるジャズとはなんぞやを探るべくあれこれと聴いてみた。一見フォークぽいところもあり、ポップスの棚に入ってもおかしくないように思われるからだ。ブルーノートから発売されているからジャズ、という安易なことなのだろうか……
まず四作目のアルバム『THE FALL』につかまった。聴いていてなんとも心地よい。文句をつけたくなるような所が見当たらない。何度も繰り返し聴きたくなる拒みがたい誘惑がある。かといってジャズ色が濃いというわけでもないし、どこがよいのか改めて言おうとするとよくわからないのだが、なにか高く達成されているように思われるのだ。「YOUNG BLOOD」、クレージーな詞をとてもクールにうたう。「DECEMBER」など本当にシンプルだけれど本当にいい。犬に向けて語っていると思われる「MAN OF THE HOUR」もユーモアが楽しく、なにか淋しげでもある(ジャケットにも犬が……)。このアルバムの出色の完成度はプロデュース(Jacquire King)の手腕によるところ大なのだろうか。付属冊子の解説を読むと、以前トム・ウェイツのアルバムを手がけた人のようで、「美しさと粗削りとの調和、それにナチュラルな音」が特色と説明されているが、それは『THE FALL』でも当てはまるだろう。
それから戻って第三作『not too late』に来たのだが、このアルバムのデラックス版をたまたま中古で入手したのが幸運で、ボーナスDVDがついており、「sinkin' soon」という曲のミュージック・ヴィデオがとても面白く作られていて見とれてしまった(動画サイトで視聴可能)。この曲、とても変な曲で、詞も変、旋律も変わっていて、ソングライターとしてのノラ・ジョーンズの特異性を考えてみたくなる曲なのだ。
ここで話はちょっと飛ぶが、小島きみ子さん発行の詩誌「エウメニデス」は昨年出した三冊でシュルレアリスムの特集を組んでいてその中で平川綾真智さんがシュルレアリスムと音楽の関係の問題を詳しく論じているのだが(勉強になりました)、私も音楽はもともとその存在が現実でもあり夢のようなものでもあるという点でシュルレアリスティックな要素をそうとう含有していると思っている。そんな一般的傾向の中でも特に強くそういう面を感じさせる曲もあるようで、たとえば前に山下達郎の「DOWN TOWN」をラジオで聴いたとき、うわごとのような詞世界が意識的というよりむしろ潜在意識的なかんじがして、シュルレアリスムの方向を向いているように聞こえたのだが、ノラ・ジョーンズのうたういくつかの曲もそんな面が強いように思われる。詞も変わっているがとくに旋律造型が聴き手に訴える美麗を追求して論理的に構築されているというよりなんとなく自然に意識下から湧き上がってきたような捉えどころのない飾らない断片性でできていて、「sinkin' soon」もそうだが、その気随でぞんざいな有りようがシュルレアリスティックと言えなくもないような気がするのだ……。
この歌手のデラックス版アルバムは入手し甲斐のあるものが多いようで、第一作の『come away with me』のデラックス版にはやはりDVDがついていて、デビュー当時のライヴステージを視聴することができるのだが、ノラはなんとピアノを弾きながらうたっている。それはどのアルバムにもクレジットされていたことだが、このDVDを見るまで気に留めていなかった。このピアノを聴くと、ジャズプレーヤーだということがよくわかる。中学・高校とジャズに夢中になりブルーノートに所属して活動するだけのことはある。とくにアンコールの「テネシー・ワルツ(Tennessee Waltz)」はまぎれもなく高濃度にジャズであり、この演奏がアルバム『Covers』に収録されていないのは残念なことだ(動画サイトで視聴可能)。
五作目『LITTLE BROKEN HEARTS』のなかのいくつかの曲は商業音楽的に作り込んだ化粧の趣きがややあり、今のところまだなじめない。こういうスタイルの音楽があってもよいとは思うが、この歌手が積極的にやることもないような気もする。新しい場所に行こうとする挑戦者はいつもいつも成功するわけではないということか、それとも私の耳が偏っているのか、第一作から第四作のあいだの辺り、そして遡ってテネシーワルツのようなジャズの本然を、活動場所にしてほしいものと願う。音楽生成の生得の素朴さ、染まっていないところ、すぐに傷がつきそうなほどに音楽が裸形であることがこの人の“ジャズ”なのではないかと思うのだが、年齢を重ね経験を積むにつれてナイーブさを維持することは難しくなっていくものなのかもしれない。
(池田康)

追記
「YOUNG BLOOD」はMike Martinとの、「sinkin' soon」はLee Alexanderとの共作のようです。
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2016年01月06日

夕焼けを見る装置

蝦名泰洋・野樹かずみのお二人の短歌両吟の第5集『夕焼けを見る装置』が昨年作られた。疲れたとか冊子をこしらえるのは大変とか言いながら、営々と続くものだ。以下はささやかな抄。

 少年たち学校の廊下を走り抜けて戦争に行き帰ってこない  かずみ

 食卓をかこむ家族も日が射せばいつか化石となるひかりの子  泰洋

 見わたせば階段ばっかり階段から落ちてこわれた大人ばっかり  かずみ

 世界中のだれもがわすれているようなちいさなことをおぼえている子  泰洋

以上は第一部「first of May」より。

 戦場と言われて着いた平原で夕焼けを見る装置になった  泰洋

 空に星、地上に有刺鉄線の棘が光っているぼくの村  かずみ

 遺失した無人探索機を捜せ無人探索機その2で  泰洋

 幾億の嘆きの遺跡をめぐっている東京メトロもトトロのバスも  かずみ

以上は第二部「夕焼けを見る装置」より。「戦場と」と「空に星」、「遺失した」と「幾億の」はそれぞれ隣り合ってつづく二首。
秀詠をよろこびたい。
定価1000円、申込み:kazumi_nogi@hotmail.com(野樹)
(池田康)
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2016年01月02日

洪水17号

kz17.jpg誕生したばかりの「洪水」17号を紹介する。今回は小特集が2つあり、その第一は「オルフェウス 詩人と死」と題して、死を凝視する詩作の営為を考える。嶋岡晨さんの「オルフェ復活」はシナリオ詩という形式が新鮮だ。シーン展開の自由自在の飛躍におどろいていただきたい。昨秋に『リルケ 現代の吟遊詩人』を上梓したドイツ文学研究の神品芳夫さんへのインタビューでは、代表作「オルフォイスへのソネット」を中心とするリルケの詩の思考が細やかに分析される。また『証言と抒情 詩人石原吉郎と私たち』を刊行した野村喜和夫さんはツェランと石原吉郎を比較考究する論考を寄せて下さった。どちらの詩人も死に憑かれた面があり、今の時代に直接つながることもあり、直視しなければいけない恐怖がここにはあると言えそうだ。洪水企画の“詩人の遠征”シリーズの一巻として『『二十歳のエチュード』の光と影のもとに』を著した國峰照子さんの昨夏の講演の抄録「原口統三と橋本一明」も収めた。そして小生も安藤元雄詩集『樹下』と清水茂著『イヴ・ボヌフォアとともに』を対象として“全一体験”をめぐるエッセイを書いている。テーマが重く普遍的なだけにどこまでも底なしの地下世界行になりうるが、今回のささやかな試みでも見えてくるものがあるだろうか。
小特集の第二は「ジャズへ一歩」、今まで小誌でジャズを大々的に取り扱ったことはなかったので、このやっかいなジャンルへ初めて挑むということで「一歩」とした。北川朱実「アフリカの打楽器のごとく、」、鈴木治行「〈即興演奏〉というあり方」、萩原健次郎「ジャズ失恋記」、山田兼士「谷川俊太郎とジャズの話」、四釜裕子「ぼくにとって大切なことはいつも〈セッション〉のことである。」、池田康「ひとつの根から多彩な花」という内容構成となっている。ジャズの魅力と性格が少しでも伝わるだろうか、A列車(the quickest way to Harlem)に乗れているだろうか。8月に亡くなった奥成達さんを悼むという気持ちも含んでおり(過去にジャズ特集を考えたときに奥成さんに相談していた)、それは特に四釜さんの原稿に濃く実現していると思う。寄稿いただいた各氏に感謝したい。
他に、森山恵さんの「オペラでシェイクスピア!」、空閑俊憲さんの「瀧口修造の温もり」が新登場だ。どちらも次号に続く予定。10回連載された馬場駿吉さんの“瀧口修造の俳句的表現”の論考「方寸のポテンシャル」は今回が最終回。
ぜひ手に取って御覧下さい。
(池田康)
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2016年01月01日

初歩き

元旦。海と山へ初詣、歩いて40分、湘南平に登った。海はつまり相模湾、山はつまり富士山と箱根・丹沢の山々。快晴で四方眩しい。頂上では忍者のような専用スーツを着たサイクリングの人たちも大勢いた。自転車乗りはたくましい。あんな急坂をマラソンランナーくらいの速さですいすい登ってゆく。鍛えられているとここまで可能なのだ。と思ったら、子供が歩くようなのろさで顔をしかめて漕ぎ登る人もいた。あれでは自転車から降りて引いたほうが速いかも。いずれにせよ、下りは無上の快感だろう。帰宅して親戚からもらった餅を食べた。
(池田康)

追記
大晦日、スーパーマーケットでもち菜が売られてなかったので驚いた。関東ではもち菜を食べないのだろうか。もち菜の入ってない雑煮なんて考えられないと思うのだが、それは限定された地域の人間だけの思いなのだろうか。今まで正月は大抵郷里の名古屋に帰っていたので気がつかなかったらしい。
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