2016年02月29日

松井茂『時の声』

松井茂さんが1月にCDの作品集『時の声』(enginebooks/enginemusic)を出した。具体詩第一番、音声詩第一番、具体詩第二番、音声詩第二番、具体詩第三番、音声詩第三番、音声詩 時の声、という構成の、音による“詩”(朗読ではない)で、どういう仕組みになっているかというと、「具体詩」は松井氏がICレコーダーで録音した具体音(街の中や家の中の物音など)を編集したもので、「音声詩」はその「具体詩」をイヤフォンで聴きながら発声者(=さかいれいしう)がオノマトペで模倣した演奏を録音したもの。
具体詩は手法的にミュージックコンクリートに近く、作品としてはそれほど印象的なまとまりを感じさせるものではないのだが、ポイントはそれを音声詩に移し変えるというところにあるようで、たしかに音声詩のほう、特に声を二重三重に重ねている第二番、第三番はニュースタイルの音楽としてかなり面白く聴ける。
これらの作品制作の過程を通じて、松井氏が「芸術は遊びだ!」と叫んでいる姿をちょっと想像してみた。もちろん松井氏はこれは芸術と無防備に呼ばれるようなものでも単なる遊びでもなく自分なりの“詩”だと言うだろうが、外側から見たら、面白い遊びをやっているなというようにも見えるのだ。先日、東京都現代美術館で「オノ・ヨーコ 私の窓から」展を観にいき、稀代なる現代美術の女戦士ぶりを嘆賞したが、各々の作品は独自のルールをその都度発案しての「一人遊び」とも言えないこともないのだ。真善美ではなく鋭利な奇しさを追求する側面を現代の前衛的創造は持つ。そしてこのCDにも、なにほどかの鋭利な奇しさを、たしかに見つけることができる。
(池田康)
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2016年02月23日

沖縄行き

yae-koen.JPG
19日から21日にかけて沖縄へ行ってきた。日本現代詩人会の「西日本ゼミナールin沖縄」が20日に那覇のロワジールホテルで開催され、そこでの八重洋一郎さんの講演を聴くため。八重さんの他に、平敷武蕉氏の講演、高良勉、トーマ・ヒロコ、伊良波盛男、中里友豪の四氏の詩朗読、古典音楽や舞踊の上演など。沖縄の言論の場はまさに嵐であり、そこに迷いこみ、その激しい風雨に打たれるのは貴重な経験であった。国に対する大きなクエスチョンマークを目撃した。
実は来島早々に体調を崩してしまい、会の間はなんとか持ったが、観光らしきことは何もできなかったのが残念。頭痛と吐気の心配を抱えながら飛行機に乗る心細さは崖っぷちに立つ気分だった。
(池田康)

追記
今回八重さんは「詩表現自戒十戒」というものを発表していて興味深いのだが、そのなかでも(4)偶然は恩寵である、(6)缶詰の現実ではなく生の現実を食え、(8)天国は地獄の真下にある、(9)自己責任が生ずるような詩を書け、といった項目は激していて面白い。
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2016年02月18日

春の大きなスコップ

先日春一番が吹いたとか報じられていたが、春はどこまで近づいてきているのか。このごろは歩いていると方々で梅が咲き出しているのに出会う。白梅と紅梅が並んで咲いている光景はなにとはなしにめでたい感じがする。桜も花の色の違いは少しずつあるのだろうが、梅のようなはっきりした対極性、コントラストはない。香りとともに、梅の優越する点だろう。
近くのスーパーマーケットでは大きなスコップが店頭にずらりと並べられていた。これで畑を耕せということなのだろうか。たしかに畑作や園芸業はあちこちで行われていて、このあたりの地域が「郊外」を更にはみ出て「田舎」に入ってきていることを物語っている。用もないのにあの大きなスコップが欲しいと思ったのは、何故だろうか。心の凍土を掘り返そうというのか。
(池田康)
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2016年02月14日

平野晴子詩集『黎明のバケツ』

reimeinobaketsu.jpg平野晴子さんの第四詩集『黎明のバケツ』が洪水企画から刊行された。
心身不安定な夫との山あり谷ありの生活から生まれた28篇の詩を収録する。「書くまいと思っていた」とあとがきにある、そんな抑制の思いの下から衝き上がるようにして現れてきた詩群であるからさすがに必然なるものの力がある。虚実ということで言えば、どれもしっかりした「実」を中心に持っているのだが、表現は白昼夢の囈言のようなあてどなさも少しずつ交えて独自の味わいの「虚」を作り出している、と言えるか。
装画と造本設計は山本萠(もえぎ)さん。
帯にも引用されている、烈しい「男の決意」を紹介したい。

 何が何だか分からんようになった
 生きているのかも分からん
 医者もいいかげんなものだ
 薬など飲まん
 飲めというな
 俺はもういい
 かまってくれるな
 飯も食わん
 食えというな
 診察にも行かん
 行けというな
 検査などして何が分かる
 無駄なことするだけだ
 俺が何をしたというのだ
 言われたことをしたまでだ
 俺は可哀想すぎる
 おまえも可哀想だ
 俺も死ぬからおまえも死ね
 一度死んだらもう死なんでもいい
 死んだら楽になる
 国にも迷惑かけんで済む

 雨上がりの
 雨の匂いがする窓辺
 泣き止んだお天道様が
 はにかんでいる空の下

 男の決意に
 あつくあつく
 誘われて
 ちょいとついて行きたくなる

(池田康)
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2016年02月12日

福島泰樹歌集『空襲ノ歌』

福島泰樹さんの第二十八歌集『空襲ノ歌』(砂子屋書房)が昨年末に刊行された。
二歳のときに祖母の背中で体験したはずの、記憶にはない、東京大空襲の歌の上での再現の試みが主要部分をなす。「無差別絨毯爆撃」という言葉は禍々しく、「焼けて死ぬ姉」のイメージは鮮烈だ。

 祖母に背負われ声を嗄らして泣きじゃくる無差別絨毯爆撃の夜
 巻ゴムの飛行機かぜの肩車 日の丸に吸われていったぼくの叔父さん
 めくってはいけないのだよアスファルト母さんぼくの骨どこですか
 ひとはみな炎に揺れる一本の蘆にしあれど震えてやまず
 火の川の流れゆくのをながめてた兄の眸のなかの姉さん
 ふっくらと白くはじけろ鳳仙花 愛国少女だった姉さん

親しい友たちの死を悼んだ歌も多数収録されていて、時代への「非人称のエレジー」(磯田光一の言葉)を切々と歌い上げる。

 蝋梅の馥郁としてあらぬ午後を石田比呂志に甘酒献ず
 皮は裂け実は弾け飛び散らかって七十一歳 柘榴坂ゆく(立松和平)
 君死するゆえ任解かれ重装の 蒼空を漂いいたる落下傘消ゆ(塚本邦雄)
 掌の中に風を閉じ込めいた人の 悲鳴のように黄昏は来よ(吉原幸子)
 若ければ篠突く雨を走りゆく 清水昶よ冥土も夏か
 磯田光一菱川善夫浪漫の 骨を断つような痩身だった

「死者は、死んではいない」と跋でも強い調子で述べられているが、宗教家でもあるこの歌人の生と死に対する厳しい作法を教えられ、胸底の思いがダイレクトに熱く伝わってくる歌集だ。
(池田康)

追記
昨日の午後は吉祥寺のライヴハウス曼荼羅での福島泰樹さんの短歌絶叫コンサート「バリケード・一九六六年二月」に参加、『空襲ノ歌』や、やはり新刊の『追憶の風景』(晶文社、108人の死者への追憶の書)からも読まれ、尋常でない熱量の放出にヤケドしそうになりながら傾聴した。ピアノは永畑雅人氏、寺山修司のテキストでMJQのジョン・ルイスを語るあたりのジャズピアノ風の演奏のところは素晴しくいつまでも聴いていたかった。龍氏の歌&ギターもtoo good, too surprisingでした。今夜も1ステージあります。
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2016年02月11日

あるけどない

あるけどない、というナゾナゾめいた状態がたまに出現する。たとえば貸しヴィデオ屋で探していたタイトルはあるのだけど外側のケースだけ残っていて中身は他の人に借りられてしまっていて、ない…、とか。あるいは持っているのは分かっているのだがどこに仕舞ったか見当がつかない本とか(先日もどこかにあるはずの沖縄のガイドブックを求めて小一時間家の中を探していた)。あるいは才能があってもそれが作品として結実しなければあるとは言えないとか。作品の構想だけ大事に抱え込んでいる楽しさと馬鹿馬鹿しさ。これは「ないけどある」とも言えるか。名は知っていても、見たことがなく、聞いたことがなく、会ったことがなければ、“私”にとってその人や物は“ない”に等しい。
ボブ・ディラン関係の昔話でよく出てくる歌手ジョーン・バエズ(Joan Baez)も名前は知っていても聴いたことがなかった。それが近ごろ『ジョーン・バエズ・ファースト[プラス]』という彼女のファーストアルバムとセカンドアルバムの一部を収めたCDを手に入れて、ようやく聴くことができた。これは宝物だ。あるものは現れる。
(池田康)

追記
アルバム『Joan Baez/The Essential/From The Heart』(1975年のライヴを収めたもの)ではボブ・ディランの曲がいくつか歌われている。
「Forever Young」は改めて聴くと、いい曲で、詞のシンプルさが尊い。
「Blowing in the Wind」については、この曲を歌う資格のある歌手とない歌手がいるような気がする。その条件は、あえて言ってみるならば、“大地の使徒”であることか。商業主義でもプロフェッショナリズムでもなくダイレクトに大地から(素のナチュラルさの零から)湧き上がって歌いだすような感覚。そういう点ではPPMよりもバエズの方がこの曲を歌う資格をより多く持つと言えるかもしれない。
「Lily, Rosemary and the Jack of Hearts」は長い曲で、同じ旋律が何度も繰り返されることでその長さが生じてくる。ラヴェルの「ボレロ」とか日本の歌でいえば「さとうきび畑」のような構造になっている。繰り返しといっても歌詞も伴奏も少しずつ変化するから単調ではなく、ドラマの官能の奥へと向かってだんだん恍惚としてくる。ミニマルミュージックやガムランの没入のあり方にも通ずるものがあるかもしれない。詞の内容は幻想的な譚詩とでも言うべきもので、はっきりとした筋は最後までよくつかめないのだが(おぼろな影絵芝居のよう)、街の大立て者の親分、その妻ローズマリー、キャバレーの貧しい芸人リリー、キャバレーの支配人、銀行の金庫破りを試みる不良少年たち、判事、そしてハートのジャック(?)といった登場人物たちが夢のように入り乱れ、結局は親分サムが殺されてローズマリーが犯人として絞首台にのぼりリリーが救われるという話になるようだ。「Forever Young」に比べなんと複雑なこと。ここでのバエズの歌唱は力強く高揚しつつも明るくしなやかで、歌声が細かいステップで舞踏しつづけるさまが気持よく、比類を思いつかない。
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2016年02月01日

『詩は唯物論を撃破する』

sihayuibuturonwo.jpg詩についての評論やエッセイをまとめた本『詩は唯物論を撃破する』を〈詩人の遠征〉シリーズの一巻として出した。おおくは過去に「洪水」誌に発表したもので、「吉岡実「死児」をめぐる序論的断章」は零号(2007)、白石かずこ論「オカッパの詩王のはるかなる道」は4号(2009)、佐々木幹郎論「生命の蜜を言問う旅人」は6号(2010)にそれぞれ掲載、「詩のための〈転〉の論理」は1号(2007)から15号(2015)まで連載したものの再構成版。また表題作は昨春インターネットで発表した長い論考で12篇の詩を引用して現代のポエジーの秘儀のありかたを論じている。
どれも極力明快に書く努力はしたけれど、それでも小難しい文章であり、詩集のようには気軽に読んでくれとはなかなか言えないが、興味のある方は手に取っていただければ幸いだ。
(池田康)
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