2017年06月13日

朔太郎の『宿命』の行路

「洪水」20号の編集のテキスト確認で見ておきたくなり『萩原朔太郎全集第二巻』(筑摩書房)を図書館から借り出したのだが、この機会に詩集『氷島』と詩集『宿命』の散文詩部分を通読した。『氷島』はたぶん再読だろう、前に一度読んだはずだ。『宿命』は収録されているうちの数篇はどこかで読んでいるが通して読むのはおそらく初めてだ。朔太郎の人生論的到達点ともいうべきもの(たとえば「虚無の歌」)や、陰鬱の極みであり恐怖の極みでもあるもの(たとえば「死なない蛸」)から思わず笑ってしまうもの(たとえば「蟲」)まで、じつに巾が広い。これが詩なのか、と言いたくなる際どいものもある。
『宿命』という詩集については山田兼士さんの『萩原朔太郎《宿命》論』(澪標)がある。全体の構成の意図や朔太郎の仕事総体の中での位置付けなど非常に周到に論じてある濃密で充実した評論の本だが、やっかいな種類の読みにくさも抱えている。というのは、この詩集の散文詩部分の扉にショーペンハウエルの「宇宙は意志の表現であり、意志の本質は悩みである。」という言葉が掲げられていて、この詩集がショーペンハウエルの思想の影響下にあることがうかがわれるのだが、『萩原朔太郎《宿命》論』ではそれを受けて(ショーペンハウエルの思想の特殊な概念である)「意志」をキーワードとして論を進めるものの、朔太郎がつかう「意志」とショーペンハウエルがつかう「意志」とどこまで一致しているのか、山田さんのつかう「意志」とショーペンハウエルのそれとどこまで一致するのか、また朔太郎のつかう「意志」と山田さんのそれとどこまで一致するのか、見極め難く、そもそも私自身がショーペンハウエルの「意志」を正しく把握しているか心許ないという事情もあり、論をたどって理解しようとする読みの走行がとても不安定な状況になるのだ。
その判じがたい難点は措いても本書には有益な指摘や考察がたくさんある。
たとえば「我れは何物をも喪失せず/また一切を失ひ尽せり」という特徴的なフレーズについて、「〈死〉の側から見た〈宿命〉と〈生〉の側から見た〈宿命〉の併存状態」と指摘するところとか、「詩と詩学が同時に生成することは不可能だろうか」と問い、一つの可能性として「詩を語ることと詩学を歌うことがもはや区別のつかぬほど接近し全体として一つの統合的な〈作品〉となるようなポエジーを創出すること」があり、その試みが「虚無の歌」でありそれを到達点とする『宿命』であると述べるところとか、第一詩集の『月に吠える』とこの『宿命』とを対比させて「『月に吠える』は、萩原朔太郎の思想の全てを自らの肉体(官能)を舞台に展開した体験としてのエクリチュールだった。これに対し『宿命』は、いま一度この体験を今度は精神の所産たる抒情詩を舞台に再構築した、虚構としてのエクリチュールだった」と考えるところとか、とてもエキサイティングだ。
この『宿命』論を読んでいてあらためて朔太郎は悲壮な詩人だったなと感慨を抱くわけだが、その点についても「この書物は、萩原朔太郎という詩人の生涯のみならず、詩そのものの〈宿命〉を記すべく、抒情の終焉の物語を生成せしめることになる。終焉までの物語ではなく、終焉そのものを物語化する企てとしてである」と語られており、つまり〈詩の終焉の物語〉という作品造形が朔太郎の文業の最終局面だというのであり、命をくびるようでなんとも悲痛だ。
小説「猫町」や先述の「蟲」、一行詩「鏡」についての論考もとても興味深い。
(池田康)

追記
『萩原朔太郎全集第二巻』では当時の詩人や文学者の批評文がいくつか読める。『純情小曲集』の序文の室生犀星、跋文の萩原恭次郎、『底本青猫』附録の蔵原伸二郎のほか、月報で芥川龍之介、高橋元吉の文章が紹介されている。それぞれ鋭い指摘をちりばめている。
posted by 洪水HQ at 22:02| Comment(0) | 日記