2017年11月24日

2017年11月22日

清原啓子展など

ここ数日の催しや出来事の見聞録。
作曲家の新実徳英さんの古稀の祝賀会が早稲田のトーキョーコンサーツラボで開かれ、参加。大盛会。『合唱っていいな!』(燈台ライブラリ2)の制作にご協力いただいたすべての方(和合亮一さんを除いて)に会うことができたのはよかった。諸々の合唱団の団員たちの歌声を間近で聴く、指揮者に近い位置に立ち歌声の海に身を浸す至福。合唱指揮者は(団員が優秀なときは、という留保つきで)この世で最も祝福された職業かもしれない。
某所で行われた某句会に参加。わがヘボ句でかろうじて点が入ったのは「信州の手紙と思え林檎ジャム」と「満天の星の生る樹を見つけたり」。前者はKさんから林檎ジャムを送ってもらったことが種になっている。Kさん、毎朝トーストにつけて食べています、very goodです、ありがとう。後者の「満天の星」については、このブログの10月27日の項を参照下さい。
八王子市夢美術館で開催中の「清原啓子展」を観る。この二十年ほどわが草臥れた心魂にしぶとく憑いている版画家(1955-87)。はじめてこの人を知ったのは、久生十蘭の本のカバー絵だったか。展覧会のチラシには「短い生涯の中で残した作品は僅か30点」「精緻で神秘的、耽美的な銅版画」とある。その全貌が余すところなくこの展覧会で観られる。この種の幻想的版画としては圧倒的(“圧倒的”という強調の語をなんのためらいもなく使える)。エッチングの最終的作品はもちろん、その下絵となった鉛筆画もみごとで、並べて展示されているから興味深く見比べることができる。几帳面な字で書かれた制作ノートもガラスケースの中に見ることができ、この美術家の日々の創造作業の一歩一歩がうかがえ、熱く感じるものがある。ファンにとっては感無量の展覧会。出版物としては阿部出版から『清原啓子作品集』増補新版が出ている。
版画と言えば、神奈川県立近代美術館で先頃行われたマックス・クリンガー展も観た。1857年ライプチッヒ生まれ、1920年没。やはり物語的なものを含み持つ幻想性に強く惹かれた。展覧会のサブタイトルも「19世紀末の幻想世界」となっていて、夢の深さに酔わせるものがある。
(池田康)
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2017年11月19日

「リュミエール!」

「リュミエール!」はフランスのルイ&オーギュスト・リュミエール兄弟が19世紀から20世紀への端境期に自ら発明した〈シネマトグラフ〉で撮った1422本もの掌編映像作品から108本を選んで編集し90分にまとめたもの。当時は1本50秒しか撮れなかったので、短歌のような一口サイズの作品で、その限界が生み出す独特の味がある。消防馬車、蒸気機関車、子供曲芸団、水泳や登山、鉄球遊び、油田火災、カメラを動かしてのパノラマ撮影、大きな船の進水式、洗濯女、自転車、子供の表情、コメディ寸劇など題材は多岐にわたり、当時のフランスの生活風景がよくわかる。エジプト、メキシコ、ベトナム、中国や日本など世界各地に赴いての撮影も好奇心が動いていて面白い。ナレーションが構図の良さを力説していたがなるほどたしかにと納得する、絵心とエンタテイナー気質を具えた撮影者たちだ。ファインダーもなかったとのことで、それでこんなに上手に撮れるのかと驚く。サン=サーンスの音楽も柔らかくしなやかで、合理主義を眠りに誘うような曲線の蠱惑があり心地よい。映画の元祖の称号をめぐるエジソンとの確執もあったようだが(それをテーマにして笑いのめした一編もあった)、映画史の原点を確かめる驚異(百二十年前に初めて映画を目にした人々のそれに通じる)と意義深さはしかと感じられた。監督と編集はティエリー・フレモー(カンヌ国際映画祭のエラい人らしい)。
この映画は先日横浜のシネマ・ジャック&ベティで見たのだが、そこでそう言えばと思い出し、この映画館発行の映画雑誌『ジャックと豆の木』2号を購入した。前に作曲家の佐藤聰明さんがこの雑誌のインタビューを受けたと話しておられたその記事がこの号に載っていたので。映画作品のきらびやかな面よりも、映画館事情など、産業を成立させている日陰の部分にも目を向けているのが特色か、「映画と映画館の本」という副題もついている。現在4号まで出ているらしいが、この2号には佐藤さんのインタビューの他に、ATG映画特集(佐藤忠男×篠田正浩の対談ほか。さほど遠くない過去に制作費一千万円で歴史に残る名作映画を作っていた時代があったのだ!?)とか、杉野希妃インタビューとか、ドキュメンタリー映画についての座談会とか、横浜のミニシアターの紹介などなどの記事が載っている。カラーページもふんだんにある立派な作りで、多数掲載されている映画のポスター、ちらし、パンフレットの魅力が目を引く。
(池田康)
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2017年11月13日

音の劇場をさまよう ...gray sound storm...

この秋公開の「ブレードランナー2049」は劇場で観るのがよい。音楽・音響の凄まじさ、はるか遠くから包み込んで身体の全細胞を襲い酸性雨のようにグレーの音を染み込ませてくる猛威を体感するにはスクリーンの前に行くしかない。DVDでは無理だろう。この映画作品でなにが一番「仕事をしている」かというと、脚本や美術と並んで音楽・音響なのではないかとさえ思う。たしかに主人公Kは“悪い冗談”に弄ばれいくつもの試練をくぐるし、老デッカードは殴られたり爆発に吹き飛ばされたり水に沈んだりの憂き目をけなげに耐えているが、巨大な盤上の小さな駒のように見える。日常では味わえない音響の渦に飲み込まれる2時間40分は聴覚的にすごぶる濃く、大空間を構築する一種シアターピース的な音楽作品として「聴く」ことができるのではないか。SF小説やSF映画があるようにSF音楽というものもありうるのだろうか。最近は音で攻めてくる映画が多いような気もするのだが、音楽や音がここまでフィクションの天地をつくるなら、今後、ワーグナーのように、音楽家が主導的立場に立って映画作品を制作するということもあるのかもしれない。
(池田康)
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2017年11月08日

風土的アナキスト

このあいだNHKFMの土曜朝の番組(ピーター・バラカン/ウィークエンドサンシャイン)で、高知在住のブルースシンガーの藤島晃一が紹介されていて、その歌がかもす独特のアナーキーな気分に触れ、大家正志さんが「詩素」に発表している詩が帯びるアナーキーな感じとどこか通じているとふと思った。大家さんも高知だ。同じく高知出身の嶋岡晨さんの詩にも時折同じような虚とむつぶアナーキーさを味わうときがある。「高知アナーキズム」とでも言うべき風土的なアナーキー性が存在するのだろうか。もちろんアナーキーといっても特に政治的なそれではなく感受性レベルでのことだが。大家さんによれば故片岡文雄も藤島晃一を贔屓にしていたそうだ。
一ヶ月か二ヶ月前にNHKBSのフォークソング特集番組で沖縄の佐渡山豊の歌を聴くことができ、ロックバンド仕様の演奏だったが、今時の若者のバンドにはない剥き出しの気迫があり、荒々しい風を引き連れた、裸の精神の独立独歩を主張する力強いものだった。統一システムとしての国(とあえて無造作に言ってしまうが)の中心からはるか離れた地では人工的ではない天然のアナーキーな気風が生ずるのかもしれない。
魂の原郷は変なものによって占領されることなくアナーキー風が吹き荒んでいるのがあらまほしき様態なのだろうとも思う。
(この話の流れで言及していいのかどうかわからないが、木村充揮(憂歌団)もちょっと似たような雰囲気があり、何ヶ月か前にやはりNHKFMの番組(赤坂泰彦/ラジオマンジャック)の中でライブで歌を披露していたが腸に噛みつかれるような感じがした)
(池田康)
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2017年11月06日

三尾みつ子詩集『花式図』

mio-kasikizu.jpg三尾みつ子さんの詩集『花式図』が洪水企画から出た(1800円+税)。「花式図」とは花の構造を表すシンプルな線描の絵図で、紋様のような魅力もある。タイトル作は子供のころ生物の先生からそれを習ったという体験を語っている。ほかに、家族の詩、友人や恩師の詩、今の生活の経験をもとにした詩などを収める。三尾さんの詩の特徴は、レトリック的な飾りを最小限に留めたさりげない寡黙な語り口で、それが逆に読者に訴える力になっているように思われる。帯には「詩はひたすらに静かであっていいと詩人は考える。飾りを不要とするシンプルな佇まいの中に固有の生の哀歓がこまやかに彫琢され、鎮まることの凄みが楚々としかし不屈に底光りしている。」と記した。合唱を長くやっておられるそうで、声を荒げない美学が人となりを作るところまでいっているのかもしれない、どの詩にも独特の沈黙の表情が感じられる。収録作品のなかで風変わりな強い印象を残すのが「まんなかをあるいていた」で、これを代表とするのがこの詩集の紹介としてふさわしいかは分からないが、以下に引用したい。

 マツ子とタケ子は双子の姉妹です
 わたしが二人と遊ぶのを大人は感心しません
 秋の農繁休み
 三人で
 営林署の作業場にいきました
 午後の陽は心地よく
 マツ子 わたし タケ子
 ゴンネ山の裾野の軽便道を
 谷川の瀬音を聞きながらあるきました
 作業場のおじさんと
 二人は顔見知りのようで
 ──おざきせんせいのこだよ
 二人同時に言いました
 おじさんは驚き
 キャラメルを一箱くれました
 三等分し
 一粒ずつ食べながら
 マツ子 わたし タケ子
 谷川の瀬音を聞きながらかえりました
 夕飯の時は何も話しません
 もしも話したら
 二人の様子を
 作業場の場所を
 日暮れまでに帰れなかったらどうしたのかを
 母はうるさく聞くだろう
 まんなかをあるいていた
 マツ子とタケ子のまんなかにいた
 わたしが母に言いたかったのは
 ただそれだけだったのです

(池田康)
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2017年11月05日

詩と音楽の対話の意外性にみちた隘路

IMG_6153.JPG昨日、洪水企画も共催に加わった、野村喜和夫・篠田昌伸両氏の対談イベント「〈詩と音楽のあいだ〉をめぐって」が、詩とダンスのミュージアム(世田谷)で行われ、20名を超える聴衆の方々に参加いただいた。篠田さんは最先端の現代詩をテキストにして合唱曲などを作曲することが多く、あえて意図的に他人があまりやらないことをやっているそうで、これまで朝吹亮二、平田俊子、廿楽順治、野木京子、渡辺玄英などといった数々の詩人の作品に取り組んできた。野村さんの詩は「街の衣のいちまい下の虹は蛇だ」「平安ステークス」の二作を取り上げていて、今年三作目として新作「この世の果ての代数学」を12月に発表することになっている(これも奇天烈なテキストだ)。今回の会では過去二作の冒頭部分をCDで聴き、野村さんの朗読もまじえて、創作の内実、詩との接し方、どういうポイントで詩を選ぶかなどについて語られた。「なんでこんな変な詩を取り上げるのでしょう」という作者自身の素直な疑問を、野村氏の朗読を通して会場に集った全員も共有したわけだが、篠田氏はそのときどきに作曲しやすいと感じた詩を取り上げるだけで、わかりやすい素朴な抒情詩が必ずしも音楽化しやすいわけではないと語る。詩を受信するアンテナがユニークに鋭敏なのだろう。「平安ステークス」では平安遷都のモチーフと競馬のモチーフが解きほぐしがたく織り合わされているのだが、音楽化されるとそれがきれいなポリフォニーの中にみごとに立体化されて驚いたと語る野村さんの言葉は、詩が音楽化されるときのもっとも幸福なケースを証明しているように思われた。「街の衣のいちまい下の虹は蛇だ」もそうだが、洗練されたきれいな音楽の織物となっているところと言葉のごつごつした顔が岩場のように顔を出すところとの対照が印象的に構成されているように思われ、しかも篠田氏の音楽構築のロジックは非常にしっかりしたものがあり、それぞれ曲のごく一部、5分ほどしか試聴できなかったが可能なら全部聴きたいという気がした。
そしてサプライズゲストとして四元康祐さんが登場(ドイツ在住だが静岡での連詩の催しのため来日されたとのこと)。四元さんの詩「言語ジャック」が篠田さんの手で今年音楽化されたばかり。それも踏まえて、現代詩テキストに対してより幅広い、クラシックの上品さを超えた生命感ある表現を演奏者に望みたいという趣旨のことを語った。
その「言語ジャック」は12月14日の東京混声合唱団の定期演奏会(東京文化会館小ホール)で再演される。また野村作品「この世の果ての代数学」は12月24日に女声合唱団暁の第10回演奏会(JTアートホールアフィニス)にて初演される予定。ぜひ足を運んでいただきたい。
(池田康)

追記
当日の録音データを聞き返してみると、上の記述がすこし不正確なのがわかった。大筋では間違っていないのだが、私の記憶のずぼらさから打ち合せや二次会で話されたことがまじり込んでいるらしいのだ。本番のトークだけを聴いた人はこことあそこは違うと指摘するかもしれない、恐縮です。
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2017年11月03日

道順あんない

いよいよ明日、野村喜和夫・篠田昌伸両氏の対談イベントが「詩とダンスのミュージアム」で開かれる(10月7日の項を参照)。初めて行く方のために、道順案内を試みたい。
京王井の頭線の新代田駅を出ると環七通りで、正面に信号があるのでそれを渡って向こう側に移り、右の方へ歩いてゆく。150メートルほど行くとガソリンスタンドがあり、それを過ぎたところの角を左に曲がり細い道を進んでゆく。童謡をひとつ歌い終わらないうちに左側にミュージアムが見つかります。
以前、神品芳夫さんのインタビューをしに御宅にうかがったとき、こんなふうに言葉での道順説明をもらって、とてもわかりやすく感動したので、真似てみたという次第です。
もう一度復習すると、駅正面の信号を渡り、右方向へ進み、ガソリンスタンドを過ぎたところを左折、百歩歩けば到着、以上です。無事辿りついていただけることを祈っております。
(池田康)
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2017年11月01日

野村喜和夫詩集『デジャヴュ街道』

野村喜和夫さんとは、11月4日に対談イベント(作曲家の篠田昌伸さんと野村さんとの。このブログの10月7日の項を参照)を共催する計画があって近ごろよくお話しする機会があり、このイベントで話題になるだろう、篠田さんが野村作品のテキストに作曲した三曲のうちの一つが詩集『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』(河出書房新社、240頁!)を題材にしているということなので、この詩集も最近読んだのだが、野村喜和夫という詩人は、詩の可能性についての考え深さや果敢にエロスの道を拓く四通八達の感性・志向は別にしても、言語エンジンが高性能で、統御力、駆動力、空間構築力が並外れているという印象が強くする。作り出される作品の柄の大きさは、あたかも巨大な建築を目の当たりにするようで、驚愕とともに茫然と見上げ、踏み込めば内部の迷宮に酔うことになる。
さて、今年六月に刊行された詩集『デジャヴュ街道』(思潮社、232頁!)だが、空に道が見えたという二十代の幻視に起源を持ち、その十数年後に「デジャヴュ街道」という詩が生まれ、さらに五十代の旅先で「空いちめんに多数多様な道の浮かび上がるのがみえた」という経験があって今度の詩集に収められた作品群が誕生してきたということらしい。直接うかがったところによると、金子光晴の足跡をたどるアジア各地への紀行が発想のベースにあるそうだ。どの作品も強靭なリズム、狼藉を働くとでも言いたくなる無法の生命の荒々しさでつねに躍動している。音楽的、と評したい面も多分にあり、ことに「炎熱街道」にはそれを強く感じ、書かれながら同時に作曲もなされているかのようで、この詩なら素人の私でも一晩で作曲できるのではないかとさえ思った。ランボーとともにニーチェへの言及的示唆も目立つのは、この詩の旅は生の価値の極限を問う旅だという意識があるからだろうか。
もう一篇、忘れ難いのは本の最終章にある「エデンホテル」だ。今年の名古屋での中日詩賞授賞式に訳あって参加することになったのだが、その中の講演の講師が野村さんで、一時間にわたってこの詩篇「エデンホテル」の成り立ちを説明するという話の構成だったので、作者の補足説明を含めたっぷりと深くこのテキストを読んだ気分になったのだった。イスラエルのガラリヤ湖の近くのホテルに泊まった実体験を元に書かれたとのことだが、前に進む旅ではなく省察が深く沈潜していくようで、現代の精神的荒廃も描写に刻印され、この詩集中の位置付けにおいても「旅の果て」の、最終的に生の意味を問う場所をなしているような印象がある。一部を引用する。

 エデンホテルに、ひとはだから、長くとどまるべきではない、
 地の底に沈み込むような、劣悪なベッドのうえで、
 数泊もしないうちに、私たちは、
 いうなれば、生の基底にまでふれてしまう、
 するとあらゆる言葉を、たとえ睦言であっても、
 遠く、湖を越えてゆく音のように聴く、

 「わたしが死ぬときには、蠅が窓から入ってきて、
 ぶーんと、暗い唸りをあげるの」

 心の内奥などというものは、もはや自律的には、
 蠅である、したがって滞在とは、
 私たちがすでに、使い回された実在であると知ること、
 にひとしい、イヴよ、
 たまらなくひとしい、
   (「エデンホテル」より。括弧内はエミリー・ディキンソンの引用)

(池田康)
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