2018年05月15日

Facebookのこと

このたびFacebookのアカウントを削除した。ある時期からまったくログインしなくなり、5年に一度しか利用しない別荘同然の放ったらかしの状態となっていたのを、ようやく正式に閉ざしたという次第。留守の間に各種の連絡をいただいた方々にはまったく応答せず多大なご迷惑をおかけしたことと、忸怩たる思いであり、まことに申し訳なく、心より陳謝いたしたく存じます。
(池田康)
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2018年05月13日

ペンの効用

図書館で片岡義男著『万年筆インク紙』(晶文社)という本を見つけ、私も万年筆党なので手に取って漫然と読んだ(もっと読むべき重要な本があるだろうにというお叱りの声が聞こえてきそうで恐縮だが)。様々なメーカーの様々なタイプの万年筆にこれまたいろいろなメーカーの文字通り色々な色のインクを入れて試し書きする実験が楽しそうで思わず観客になってしまう。製造中止になったパーカーのウォッシャブル・ブルーのインクをさして重要な理由があるわけでもなく探す話、万年筆による筆記に合ったノートを見つけるべくテストを重ねる話も楽しい(この部分を読んでいて疑問に思ったがなぜ世の中のノートは罫線の幅が7ミリとか8ミリとかえらく狭いのだろう。そんなに小さな文字を書く人が過半数に届くほどたくさんいるのだろうか。10ミリとか12ミリを標準とすればもっと世の中が呼吸容易に暮らしやすくなるような気がするのだが)。黒インクは公用の書類を書くための色であり、個人的使用にはブルーかブルーブラックが望ましいという意見も、そうだろう、そうなるよなとうなずいてしまう。
私も安物ばかりだが数本の万年筆と数種類のインクを使って書きものをする。インクで言えば、ブルーはパイロット、ブルーブラックはパーカー、黒はプラチナを使うという節操のなさ(セーラーの「青墨」というすぐれもののインクも所持しています)。ほかに推敲をするときの赤は冬柿という名のパイロットのインク。たまに気分によってはエルバンの紫(ヴィオレット・パンセ)やペリカンのターコイズ(水色ぽく明るい青)で遊んだりする。
なにを書くかというと、手紙や葉書ももちろん書くが、最近はメールが多用されるから郵便で出す必要や機会は少なくなっている。だから主には詩や散文作品の下書きのためだ。紙とペンを使っての下書きをせずに直接パソコンに向かう方も多いだろうが、私はペンによる下書きの作業が好きだし、この作業があった方がよいという意見だ。頭の中→紙の上→パソコンのモニター→プリントアウト、というふうに制作の段階が多くなるほど、一つの段階からもう一つの段階へと移行するタイミングで考える機会が多くなり、ちがった視点が得られ、いい方向や面白い形に変化する可能性が増えると思うわけだ。それで紙切れやノートに下書きをするのだが、下書きと言ってもできるだけ本気で書きたいから、万年筆を使う。万年筆常用者にとって鉛筆やボールペンは本気度が下がるのだ。というわけで、ちょっと万年筆の宣伝ぽくなるが、たくさん下書きがなされより多くペンが使われることを願ってやまない。
(池田康)
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2018年05月04日

詩素4号

siso04.jpg詩素4号が完成した。今号の参加者は、海埜今日子、小島きみ子、酒見直子、沢聖子、菅井敏文、大家正志、たなかあきみつ、南原充士、二条千河、野田新五、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと、小生。〈まれびと〉には山田兼士さんをお招きした。巻頭トップは、南川優子さんの「夏」。定価500円。洪水企画までご注文下さい。
http://www.kozui.net/siso.html
(池田康)
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2018年05月02日

小栗康平の場の論理

前項で、石田尚志さんがイギリスに渡ってその地特有の赤や青や黄色を見つけて風土につながることによって作品制作ができるようになったというエピソードを紹介したが、小栗康平著『じっとしている唄』(白水社)にもそれに通じるようなことが説かれている。「泥の河」「眠る男」などで有名なこの映画監督は、「場」というキーワードを提示して、これを中心に放射状に思考をめぐらす。
「映画にとって「場」というものは、人物と同等に、あるいはそれ以上に表現の核心なのだと、私は考える。俳優さんを見て、ストーリーを楽しむ、だけではじつにもったいないのである」
頭脳、言葉のレベルでの構築では、表面的な、上滑りの作品になりやすい。その傾向に逆らうためには、場に立つ、場をつかむ、場の文脈に連なる、という、いわば身体の腰を据えての位置取りが大事だ、と考える。それは、ある地域特有の色彩を発見するという風土との出会いともつながることだ。この「場」の重要性の主張は著者の「近代批判」でもあり、モダンな思考法が忘れがち、見落しがちな生存の要所、生きられる時間のコアを注意深く見定めようという配慮から来ているように思われる。
「もの、あるいは人がそこに在ることそのものを描写しているかといえば、そんな強さをもった映画などめったにあるものではない。映画は喋り言葉をそこにもち、時間と動きをもつ。物語られることで、具象が具象のままにありつづけることはむずかしい。なにがしかの観念がもちこまれて、具象が変容する」
つまり映画は物語の動向・展開(言葉で説明できること)に目が行きがちで、そうすると「在ることそのもの」、被写対象の核を取り逃がしてしまうことになる。横に広がる構図ではなく縦の構図を大事にするという言い方もされる。横の広がりは物語のシーンのにぎやかさをもたらすが、縦の意識は画そのものの重さ、真摯さを促進するのだろう。歌でいえば肚から出る歌声にあたるか。
映画作品は作り物、フィクションであるから現実とは離れているのだけれど、全くの空中楼閣では脆弱な作品世界しか創れない。それを強靭なものたらしめるためには、場、風土、日々の日常とのなんらかの(細いかもしれないが)確固としたつながりの上に立つことが必要となる。
「映画は演劇とはちがって、ただの人為、人工そのままでは、生身の役者が生きていける時間が生まれてこない。自然のかけらでもいいから、画像に入ってくれないと、映画としての「場」が現われない」と語られる。ただ、なんでもいいというわけではなくて、あるべき「場」をひらく鍵になるようななにか強いもの、決定的なリンクを発見しそれを介することが重要のような気もする。それは運河や道や樹といった舞台の中心となるものの場合もあれば、もっとささやかな形象の場合もあるだろう。
石田氏の色の話に近似する叙述としては、アルメニアの首都エレバンについてこんなことが書かれている。
「街はうつくしい。どの建物も外壁が凝灰岩といわれる柔らかな石でできていて、この石の色がなんともいいのである。薄い赤、というよりもっと薄い赤紫、石によってそれぞれの濃淡があり、それが朝、昼、暮れぎわ、夜と、ときどきの光とともに表情を変えて行く。水彩のようでもありパステルのようでもある。薔薇の花にこんな色があっただろうか」色が地域の空気感を具体的に作り、場のアイデンティティを確立する重要な要素となる、そんな一例だ。
なお、この本のタイトルは、陶芸家・河井寛次郎の「形はじつとしてゐる唄、飛んでゐながらじつとしてゐる鳥、」という言葉から取ったということだ。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 12:25| Comment(0) | 日記