2018年06月27日

今週の予定など

気候が夏のようになってきて、涼風や氷菓子を恋しく思うようになった。今週は歯医者で抜歯のしんどい治療があり、週末には「みらいらん」と新刊単行本の納品が予定されており、なかなかにせわしい。サッカーのW杯も佳境になりつつあるが、深夜の時間帯まで誘われるのはきついなあとこぼす程度の薄情な見物客だ。今は本の発送準備をしながら「虚の筏」の新しい号を作っている。この詩誌も21号を数えるまでになった。これくらいまで来ると歴史を感じる。バックナンバーをクリアファイルに収納しているが、それをめくって各号いろいろ遊んでいるのを眺めるのも楽しいものだ。21号でもちょっと斬新な新しい遊びを考えている。さて、近く出る新刊書とは、嶋岡晨さん翻訳によるジュール・シュペルヴィエルの最後の詩集『悲劇的肉体』。また改めて案内するつもりだが、この詩人の老年を酒樽としてとても豊穣な詩世界が醸造されている。必読ですとお勧めしたい。
(池田康)
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2018年06月25日

うつつの冥府 番外編

「みらいらん」2号と新刊単行本を印刷所に入れ、気持ちに余裕ができ、なにか読むものはと本棚を眺めていたら、「わたしを読んで」と背で訴えてきたのがカズオ・イシグロ著『わたしを離さないで』(ハヤカワ文庫、土屋政雄訳)だ。いつか読むべきだよなと思いつつも、どういう話か聞かされると背筋が寒くなるようで無性に怖くて敬遠していた本。読み始めたら語り口の親密さに導かれてすぐに入り込んでどんどん読んでいけるのだが、読み終わるとみごとに救いがなく荒涼としていてやはり怖い本だった。
どんどん読んでいける、その青春小説的なみずみずしい展開を繊細緻密な筆で描くところにこの小説家の力量のABCがある(これだけ緻密な書きぶりなのに渋滞することなくスムーズにページをめくれるのは翻訳の良さだろうか)。ちょっといやらしい性格のルースという女性をこれだけ丁寧に(愛情をもって?)描き出せるというのも驚きだし、若者にありがちな自然にこぼれ出る滑稽さがいろんな場面で発現しているところもこの作家ならではの配色だろう。「臓器提供のために生かされている人間たち」という尋常でない恐ろしい設定からはどぎつい黒の支配と主張が予想されるのだが、実は美しい淡い灰色のグラデーションが基調であり、その中にはブルーや薔薇色や真紅の模様も出てくる、実に繊細な(繊細であるが故にときにコミカルでもある)喜怒哀楽、そしてほんのちょっとしたシーンが主人公と親友二人の運命を変えていくバタフライ・エフェクト的ダイナミズムが、この小説の一番の読みどころとなっている。彼らはその使命からして生きながら冥府にいるようなものなのだが、その絶望の中でもこんなにいきいきと多彩な生が展開されうることを示す、作家イシグロの魔法の杖。冥府の内部のきわめて精密でつややかな造型。最終的には悲劇の構図がものを言って寒々とした余韻で終わるのだが、彼らも、我々の生も、そんなに違わないのではないかと思わされる、SFの設定なのにSFになっていない、妙なリアルさ、そこもまた驚きだし怖いところなのだ。実に生気にみち、そして恐ろしい物語。カズオ・イシグロの基本は、『日の名残り』や『夜想曲集』でも感じたのだが、弱い人々、敗北した側、虐げられる組の繊細な抒情ということであるように思うのだが、この作ではその特徴が最大限に出ている。
映画化もされているようだが、見ていない。日本でもテレビドラマ化されたことがあったが、それほど評判にならなかったのは、(私も含めて)多くの人は怖くてチャンネルを合わせられなかったのだろう。サスペンスはさかんに作られるが、視聴者を真に恐怖させるドラマはテレビには不向きなのかもしれない(テレビドラマで本当に怖い思いをした記憶があるのは横溝正史シリーズくらいか……)。
(池田康)
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2018年06月23日

ラジオでブルネロを聴く

何日か前、N響のコンサートをNHKFMで中継していて、チェロのマリオ・ブルネロが出演すると知り、聴いた。この人の演奏は聴く価値があると思うのだ。番組内の説明によるとN響との共演は15年振りぐらいとのこと。あらかじめこのコンサートのことを知っていたらホールまで聴きにいこうかという気に少しはなったかもしれない。実際は余裕がなく行けなかったと思うが、一応「迷う」くらいはしただろう。曲はカバレフスキーのチェロ協奏曲第2番。この作曲家、ロシアの人とか、聞いたことがあるようなないような。音の活発な動きによる華やかさも有する曲。ブルネロの演奏はドライブと説得力、音楽の楽しさがある。手元に彼がバッハの無伴奏チェロ組曲を全曲演奏したCDがあるのだが、その弾きぶりも奔放で気儘で、俺はしゃべりたいようにしゃべるんだといった感じで、謹厳実直な音大の先生なら顔をしかめるかもしれないが、教科書的でないバッハが好ましく、音楽はこうでなくちゃと思う。今回のカバレフスキーの協奏曲もブルネロの演奏があるだけで楽に成立しているように思った。このラジオ中継があることは当日新聞のラジオ欄で知ったので、聴けて幸いだった。ラジオ(テレビ)は聴けたり聴けなかったりする。作曲家の新実徳英さんからNHKFMのコーラス音楽の番組で近く自分の作品の特集があるとの案内をもらっていて、それが実は今日の早朝だった。コーラスの番組は日曜日だと思い込んでいたので、たまたま7時前に目が覚めてラジオをつけるとこの番組の最後の部分をやっていて、びっくりし、あららと心の中でつぶやいた。
(池田康)
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2018年06月20日

なぜそれができないのか

大阪方面でかなり大きい地震があり、被害も相当な規模だったとのことで、近畿は友人・知人も少なからずいる地域だから気にかかる。皆さん無事でいることを祈りたい。
こういう災害のときによくあることだが、電車やエレベーターに閉じ込められて数時間を過ごした人がたくさんいたらしい。15分でも耐え難いのに、4時間も5時間も出られないのは地獄だ。なぜすぐに出られるようにしないのだろうという素朴な疑問が浮かぶ。なにも地球を貫通して裏側へ避難しようという話ではない。空を飛んでいるわけでも海を航行しているわけでもないのだ。「なぜそれができないのか?」…なぜエンジニアやシステム設計者や運営責任者はそれができるようになんらかの工夫をしないのか。ドアが開けられる場所や状況まで慎重にもっていき、ドアを開ければいいだけだ。私は4時間級の閉じ込めの憂き目に遭ったことはないので実際それがどういう恨み言の感想になるのかわからないが、悪気の有無にかかわらず“監禁”されることは苦痛であり不都合でもあり健康面のマイナスもあり、つまり良くないことであり、地震のたびに無策のままの繰り返しで無数の不運で不憫な閉じ込めが発生することをいつまでも看過していいとは思えない。
(池田康)
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2018年06月15日

うつつの冥府 その3

うつつの冥府に入るべくして生まれてきた、と言ってはオーバーかもしれないが、自らの科はなにもないのに虐げられ地獄を舐めさせられる、それが公開されたばかりの映画「万引き家族」(是枝裕和監督)に出てくる少女じゅりだ。「誰からもかわいがってもらえ守ってもらえる幼い女の子」の役柄を両親によって根本から剥奪廃棄され、生まれながらにうつつの冥府にいる少女。そこから彼女を救い出した家族は、本物の家族ではないのだが、ヴァイタリティに満ちており、厳格な主従関係のないアナーキーな自由さがパラダイスとなって恐怖にすくみ切っていた幼い心をほぐす。しかしこの神の家の聖家族は存在自体が凡庸な観客にとってはショッキングで、どのシーンにおいても本音のえげつなさが凶器のようにきらめいて恐怖と快感の目眩を覚える。戦後の闇市時代のような、どんなことがあっても、どんな手段を使っても生き抜いていくという生命力の強さが、ここでは犯罪という形までとってしまう。この映画の本質的な尖りのヤバさ。警察の取り調べを受け、妻と息子はそれぞれ別の道を歩き出し、父親だった男は解放されたとはいえ一人取り残される。自分にとって一番大事な作品だったフィクション家族が崩壊し、懸命に獲得しようとしていた父親の役割を喪失し、男はうつつの冥府の入口に立ったのかもしれない。
戦前の家族の厳しい家長としての男のイメージとこの主人公の男のすべての宝を奪われて茫然自失している姿とを重ね合わせると時を経てここまで来たのかと雷の一閃を錯覚するが、いや、対立はむしろ日常安住者vs越境憧憬者であり、この男の無責任な放縦と遊戯心は芸術家と呼ばれる嘘つき(フィクションを愛でる)種族の歪んだ鏡像かもしれないとも夢想する。現実社会の規範の重さに抗い、異常な軽やかさで跳梁し、いかがわしい作品制作にいそしむ似非芸術家。しかし今の時代において芸術家と似非芸術家の間にさほどの距離はない。彼らにとっては心の冥府も冒険に値する地図なき森だろうか。
蛇足だが、常々思うことだが、幼女の肩くらいまで伸びたかすかに柔らかくカーブした髪は本当に見惚れるくらい神々しい。年齢が高くなるとあんな素直な髪をした女性はいなくなる。祈願を最小限のそのまた最小限に絞るとしてもこういう自然にウェーブする髪をまだ有している幼い女の子は理不尽な目に遭ってほしくないものだ。禁句かもしれないが、冥府から出る可能性の光を一条でも感じるために、5年ないし10年後の続編を所望したいような気もした。
この作品の撮影を担当している近藤龍人は「海炭市叙景」に始まる“函館三部作”でも撮影を行っている。
(池田康)

追記
なにか見逃しがあったような気がして、また映画関連商品で水玉のような模様が多用されているのはなぜだろう、あれは何だったか、どこで出てきたっけかという疑問もあり、もう一度見た。そして深い納得が得られたように思った(また辛い現実に戻るにしても、少女はこの「神の家」このアリスの不思議の国で、「宇宙」を、もしくは無償の愛の原液の海を見つけたのだ)。最後の20分ほどの間、情報やら重要発言やら立て続けに発せられ、受け止めて一つの絵にまとめるのが大変で、さりげない重要な部分を見過ごしてしまうのだが、二回目に注意深く見届けて、これはこれでいい、不足は感じないと思うようになった。
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2018年06月13日

うつつの冥府 その2

人は自分がもっとも大事にする、それをもって自分の存在意義とする主要な役割を失ったときに、うつつにいながらある種の冥府に入り、心的な死に囚われる。そこから出てこられるかどうかは大雑把にいって五分五分というところだろうか。プロ野球の松坂投手のようになんとか復活する幸運なケースもあれば、別の天地に光明の可能性を目指して移動しつつ出ていく場合もあるだろう。結局抜け出すことができずに冥府に囚われたまま心の壊死を迎える不幸な場合もあるだろう。
先ごろ公開された映画「妻よ薔薇のように 家族はつらいよ3」(山田洋次監督)では、長男の妻・史枝が家出をするのだが、夫・幸之助の無理解に耐えられなくて喧嘩の果てに、というよりも、自分のうちの重要ななにかを喪失して、という面が強いように思われた。史枝は一人で留守番をしていたときに泥棒に入られ、冷蔵庫の奥に隠していたへそくりを盗まれる。びっくり仰天のシーンで、昼寝から目覚め二階から降りてきて盗人の男を見つけ、目が合ってしまう。このとき、彼女はもっとも大事な「平安な日常」を盗まれたのではなかったか。自分の主要な役割である「主婦」の面目が傷つけられ、奥方の仮面がひび割れる。弁解の余地乏しく、夫の面罵によりその資格喪失は決定的となり、心はうつつの冥府に入る。それは故郷の信州の町に行き、今は両親もいない生家に隠れるという形をとる。夫は弟の忠告に従い、妻を迎えに……。こうして物語は冥府に行ってしまった妻を取り戻しにいくというオルフェウス神話に似通ってくる。奪還は成功するかどうか、それは難しいだろうと義父の周造の予想するようにけっして簡単ではないはずで、なんとか帰還を果たしたのは(この作品が喜劇のフォーマットで作られているからという決定的事情を措けば)、たまたま土砂降りの雨が降っていて非常事態の空気がいい具合に生じた、モーゼの海の道ではないが、マジックのように「道ができた」からだというのが観ていての素直なところだ。彼女の「冥府」の具体的な形となった山奥の町(茂田井?)も古風で雅びな美しい風景で、見とれた。
(池田康)
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2018年06月11日

うつつの冥府 その1

山下敦弘監督小研究の一環で「オーバー・フェンス」(2016)を観たのだが(主人公たちの年齢がそれまでの作品より上がっていた)、これは佐藤泰志の小説をもとにした“函館三部作”のうちの一つだということだったので、舞台として映される函館の街が魅力的なこともあり、もう少し味わってみたくて残りの二本を観た。「海炭市叙景」(熊切和嘉監督、2010年)と「そこのみにて光輝く」(呉美保監督、2014年)。三人の監督は同級生的な間柄らしいのだが、この三本、どれも明るい映画ではなく、物語の色調は(控えめな言い方をしても)くすんでいる。とくに「海炭市叙景」は暗澹としており、いくつかの短編のオムニバスの形をとっているのだが、そのどれをとっても救われるような気持ちになる瞬間に乏しい、閉塞感に満ちた世界だ(エンタテインメントであるより先に真実の表現でありたいという願いがあるのか)。これがこの一連の函館物語の基調になっているのだろうし、われわれが暮らすこの現実世界の空気に直結している感じもある。転げ落ちそうになっている人々。暗い穴にはまってしまった人々。東京のようなにぎやかな場所だったらそれでもいろいろ誤魔化しようがあるのかもしれないが、函館という土地は窮状をむき出しにする趣きがある。「そこのみにて光輝く」の主人公と彼がつきあう姉弟も虚ろ、悲惨の度合いが相当に深い。「オーバー・フェンス」の所在なげな感じ(離婚して失意とともに故郷函館に戻ってきた)の主人公は他の二作に出てくる男女と比べて軽症なのかもしれないが、それでも人並みの生活に失敗した、大袈裟に言えば“人間失格”の感覚に苦しんでいるかのようだ。
肉体的には死なないにしても、自分の大事な部分が破壊されて、精神的に死の状態に入るときがある。野球選手が大きな怪我をして野球生活を断念しなければならなくなったら、本当の死ではなくても、生きる意味があるのかというところで死に近い絶望を味わうだろう。シューマンのように手が動かなくなったピアニストもしかり。これが俺だと自認する役割を喪失したとき、ある種の死が訪れ、身はうつつに留まりながらも絶望の冥府に入ることになる。
これら函館三部作は、鬱屈した気分が赴く先の、そうした冥府の色が相当に濃い。そんな中で、「そこのみにて光輝く」の菅田将暉のいつも陽気にはしゃいでいるちんぴら振り、「オーバー・フェンス」の蒼井優の生気あふれる奇抜な鳥踊りはポジティブな生の輝きを発していた。
(池田康)
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2018年06月05日

漬物の妙味

先日ある食堂で生姜焼き定食を食べたのだが、さほどおいしいとは思わなかった。これなら家で焼いて食べるほうがずっとうまいだろうとも……。別に珍しい体験というわけではなく、外食して「美味い!」と叫びたくなるようなことは(高級店に行かないということもあるが)滅多にあるものではない。二年に一度あるかないかというところではないか。そもそも味覚における特上の経験は平常の食事のための料理ではなかなか得られないような気もするのだ。果物だと特上に近い味覚体験をもう少し頻繁にさせてもらえる。酒もおそらくうまい物はうまいだろう、私はあまり飲めないから残念だが。案外盲点なのは漬物で、梅干も最近はびっくりするくらいおいしいものがあるし、奈良漬の類もときどき唸るようなものに出くわす。ぬか漬けにした胡瓜や茄子や人参も案外に悪くない(自宅で漬けているわけではありません)。火や調味料を使って人為的に調理するよりも、発酵など自然のプロセスの手を借りて味を作り出してもらうほうが良い結果が生まれると言えるだろうか。言葉の断片をある種のぬかに漬けておけばフレーバー薫じて一篇の詩のごときものが生まれる、という仕掛けもありそうな気がするのだが……これは食文化とちがい方法論が発見も確立もされていないようだ。
(池田康)
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