2018年06月15日

うつつの冥府 その3

うつつの冥府に入るべくして生まれてきた、と言ってはオーバーかもしれないが、自らの科はなにもないのに虐げられ地獄を舐めさせられる、それが公開されたばかりの映画「万引き家族」(是枝裕和監督)に出てくる少女じゅりだ。「誰からもかわいがってもらえ守ってもらえる幼い女の子」の役柄を両親によって根本から剥奪廃棄され、生まれながらにうつつの冥府にいる少女。そこから彼女を救い出した家族は、本物の家族ではないのだが、ヴァイタリティに満ちており、厳格な主従関係のないアナーキーな自由さがパラダイスとなって恐怖にすくみ切っていた幼い心をほぐす。しかしこの神の家の聖家族は存在自体が凡庸な観客にとってはショッキングで、どのシーンにおいても本音のえげつなさが凶器のようにきらめいて恐怖と快感の目眩を覚える。戦後の闇市時代のような、どんなことがあっても、どんな手段を使っても生き抜いていくという生命力の強さが、ここでは犯罪という形までとってしまう。この映画の本質的な尖りのヤバさ。警察の取り調べを受け、妻と息子はそれぞれ別の道を歩き出し、父親だった男は解放されたとはいえ一人取り残される。自分にとって一番大事な作品だったフィクション家族が崩壊し、懸命に獲得しようとしていた父親の役割を喪失し、男はうつつの冥府の入口に立ったのかもしれない。
戦前の家族の厳しい家長としての男のイメージとこの主人公の男のすべての宝を奪われて茫然自失している姿とを重ね合わせると時を経てここまで来たのかと雷の一閃を錯覚するが、いや、対立はむしろ日常安住者vs越境憧憬者であり、この男の無責任な放縦と遊戯心は芸術家と呼ばれる嘘つき(フィクションを愛でる)種族の歪んだ鏡像かもしれないとも夢想する。現実社会の規範の重さに抗い、異常な軽やかさで跳梁し、いかがわしい作品制作にいそしむ似非芸術家。しかし今の時代において芸術家と似非芸術家の間にさほどの距離はない。彼らにとっては心の冥府も冒険に値する地図なき森だろうか。
蛇足だが、常々思うことだが、幼女の肩くらいまで伸びたかすかに柔らかくカーブした髪は本当に見惚れるくらい神々しい。年齢が高くなるとあんな素直な髪をした女性はいなくなる。祈願を最小限のそのまた最小限に絞るとしてもこういう自然にウェーブする髪をまだ有している幼い女の子は理不尽な目に遭ってほしくないものだ。禁句かもしれないが、冥府から出る可能性の光を一条でも感じるために、5年ないし10年後の続編を所望したいような気もした。
この作品の撮影を担当している近藤龍人は「海炭市叙景」に始まる“函館三部作”でも撮影を行っている。
(池田康)

追記
なにか見逃しがあったような気がして、また映画関連商品で水玉のような模様が多用されているのはなぜだろう、あれは何だったか、どこで出てきたっけかという疑問もあり、もう一度見た。そして深い納得が得られたように思った(また辛い現実に戻るにしても、少女はこの「神の家」このアリスの不思議の国で、「宇宙」を、もしくは無償の愛の原液の海を見つけたのだ)。最後の20分ほどの間、情報やら重要発言やら立て続けに発せられ、受け止めて一つの絵にまとめるのが大変で、さりげない重要な部分を見過ごしてしまうのだが、二回目に注意深く見届けて、これはこれでいい、不足は感じないと思うようになった。
posted by 洪水HQ at 19:12| Comment(0) | 日記