2018年09月01日

世界爺

近所の図書館で多田智満子のエッセイ集『森の世界爺』(人文書院、1997)を見つけて読んでいる。植物、草や木や花についての文章を集めた本で、持ち前の端正な語り口で古典の教養と博学を駆使して出会った植物たちのことを彼らと対話するようにうっとりと物語る。この詩人は書斎にこもって幻想・夢想の内部を飛翔することに長けているような印象があったが、この本を読むとまめに世界各地に足を運んで土地土地の木たちと対面し、その実際の姿をおのが目に焼きつけるという経験を大切にしており、聖書に出てきた木を実際に見ることがかなって喜んだり、案外に生身での見聞を重視する方であることがわかった。「樹々との出会いも、人との出会いに劣らず、私にとっては重いものになっている」(「文字を指す木」)、「栗拾いとか茸狩とか、そういったたぐいの土くさい遊びは大好きなのである」(「木の実をひろう」)とも述べている。
書名にある世界爺(せかいや)とはセコイアの日本語表記で、ジャイアント・セコイアはアメリカのヨセミテ国立公園に生えている巨木で背丈は大きなものは百メートル近くにもなり、樹齢は二千年あるいは三千年に達するものもあるそうで、「この木は、ひとりでには死なない」とも断言されていて、びっくりしてしまう。ジャイアント・セコイアの生態は山火事をも計算に入れ、それを種子の拡散に利用してさえいるのだそうだ。なにがあっても動じることがなさそうなこの金剛のポエジーの人が三千歳の“世界爺”を見上げてあんぐり口をあけている様を想像するのは楽しい。
日常生活で毎日のように目にしている樹木だが、このような特例中の特例の話を聞かされると、木ってなんだろうと改めて考えさせられる。著者の考えによると、人間も動物たちと同じく森の中に入っていって死ぬのが理想のようで、「森に生まれ、森に生き、森に死ぬ野生の禽獣とちがい、人間は森を離れることで文明への道を歩んできた。永久に木から降りてしまった猿は、彼を育ててくれた樹林の限りない恵みを忘れてしまったかのようだ。/しかし私たちのふるさとである森は、今なお人間のもっとも自然な、もっとも望ましい死に場所であるように思われる」(「森に死す」)とも書かれる。草木と同化する極楽の法悦が夢見られているのだろう。庭に百花を栽培して愛しむ姉は「これが私の浄土なの」と言ったとか(「わたしの浄土」)。
その他、エジプトのパピルスや睡蓮、中近東のなつめ椰子の話、ぶらりとやってきた花咲爺さんの話、東アジアのノアの方舟であった大ひょうたんの話も興味深い。「ゆりの木の花咲く頃」でのエドガー・ポオとチューリップ・ツリー(リリオデンドロン・テュリッピフェルム、和名ゆりの木)のエピソードでは、著者の幻想への執着がやっぱり露わになって楽しかった。また「松の倖せ・不倖せ」では「明治の文明開化このかた、木はとみに短命になった」とあり、慄然とさせられる。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 20:37| Comment(0) | 日記