2019年02月18日

信じたくない現実

「現実」には三種類ある。おおむね信憑性のある現実と、ちょっと信じ難い現実と、絶対に信じたくない現実と。この現実世界はおおむね信憑性のある現実で80〜90%埋まっているから、悪い意味での信じ難い現実が数%まじっていてもなんとか正気を保っていられる。しかし万が一のケースとして絶対に信じたくない現実が起こってしまったときは、頭を掻きむしるような激しい苦悶を味わうことになる。理解不能な奇人や歪な思想を持った怪人が大統領や首相に就任することは多くの人々にとってまさしく信じたくない現実であろうし、2011年の東日本大震災のときのひどい原発事故もまさしく悪夢のようで、現実であると信じたくない虚構じみた現実だった。しかしあの事故の発生の可能性が想定外であったという言い訳は許せないという議論があるからには、想定されてしかるべき、起こっても不思議ではない現実だったとも言える。心理的にはあれ以上に絶対に信じたくない現実も起こり得るのだろう。雷神もうろたえる霹靂。
そうした現実から脱出する方向は、「忘れる」とか「諦める」でなければ、おそらく「未来」しかない。
未来をこれも三つに分けるとしたら、おおむね必然的に到来するであろう未来、成り行きや施しによっては生まれる可能性のある未来、そして成立する可能性のほとんどない未来、となるだろうか。三つめは僥倖の場合は奇跡とも言われるが、絶対に不可能というわけではない。
いずれにしても、絶対に信じたくない現実と対峙する心は、もっとも必死に、あり得る未来の道について考えるだろう。どう考えるにしても、ふつうに「明日」がある、また明日が来る、ということが前提になるのであり、それは「信じなければならない未来」となる。明日とは一杯の水のようなもので、なんでもない当たり前の存在だが、そのわずかな水が可能性の羊水なのだから……
(池田康)
posted by 洪水HQ at 22:27| Comment(0) | 日記

2019年02月07日

ツンドク考

我が家のツンドクの山から、一年ほどそこに埋まっていた多和田葉子『献灯使』(講談社文庫)を取り出して読んでいる。「みらいらん」3号で北爪満喜さんがこの作家について書いていたので興味をそそられて。この人の小説については多様な観点から論じられるべきことが沢山あるのだろうけれど、まず第一に印象づけられるのは、ただごとではない稀なタイプの諧謔の精神だ。シーンを少しグロテスクの方向へ膨張させるような重く苦い諧謔。笑えない笑い。その連打にぐらぐらっとなる。氏の世界観のリズム、基調となっているのか、このヘビー級のリズムが重量ある世界を運ぶ。
さて、ツンドクは悪癖だろうか。そうではない気もする。ツンドクの積極的意義を解き明かしたい。将来いつか読むだろう、読みたいものだ、読むことになってほしい、そう思って本を手に入れて身の回りのどこかに置いておく。そうした本たちは読んでおくれと背文字で囁き、我々をじんわりと脅迫する。自ら課す宿題。心を重くする。子供は宿題が嫌いだ。宿題なんかなにもない軽い心で遊びたい。心の軽さを第一とするならば、ツンドクはすべきではない。しかし心を重くすることも悪いことではないのだ。ツンドクされた本は、無意識とまではいかなくとも、意識の深部に沈みこみ、そこに重たい層を作る。そうして心のバランスと傾きの方向をいくらか変容させる。ツンドクによって心の低層の幾許かを自分なりに構築することができるのだ。かくてツンドクは生きる意味をも担うに至る−−とまで言えるかどうかわからないが、あれらの本を読んでやらねばという気持ちは明日を生きようとする意欲につながるだろう。もはや地球は隅々まで人間の知の地図帳に編入されており、未開のフロンティアなどないとよく言われるが、まだ読んでいない本は未知の国なのであり、その本と一対一で対峙する経験のうちでどんなとんでもないイメージや考えや感覚が生じるか誰にもわからない以上、大きな可能性を秘めた「未」であるわけで、ツンドクはその「未」を積極的に招来しようとする強い意志なのだ。一切本を積まない超絶読書力の人にとってはわけのわからない御託にすぎないだろうが、ツンドクを積みに積んで心をずんずんと重くするのも一つの道なのだ。
前にどこかで、絶望した人は考え深く精巧濃密な棚を作っている本屋(かつてあった丸善の松岡正剛コーナーのような)に行くといいと書いた記憶があるが、ツンドクは案外セルフオーダーメードの対絶望用の擬似書店空間なのではないだろうか。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 19:01| Comment(0) | 日記

2019年02月02日

「虚の筏」22号

「虚の筏」22号が完成しました。
下記リンクよりご覧下さい。

今号の参加者は、久野雅幸、神泉薫、たなかあきみつ、酒見直子、小島きみ子、坂多瑩子のみなさんと、小生。そして野菜のみなさん。今回の誌面は人間も猪も馬も象も食欲を刺戟されるのではないでしょうか。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 20:45| Comment(0) | 日記

2019年02月01日

『ホモ・デウス』のこと

『サピエンス全史』の著者による新しい本『ホモ・デウス』(河出書房新社)を読む。神をあがめた時代から近代以降の人間至上主義(文芸の分野ではロマン主義ともいう)に移り、そして21世紀に入ってこれからはデータ至上主義へと向かうという分析は鮮明で、その通りなのだろう。コンピュータはある規則に則った計算力やデータベース構築の威力は人間の能力を超えた優越性を示すし、AIの発達は我々の想像以上の速さで進みつつあるから、あらゆる分野にわたるデータismが今後ますます顕著になっていく道筋はハズレのない予想であろうし(しかしこの〈情報&演算〉の世界秩序がヒューマニズムに取って代わるとしたら恐るべきレジームの転換だ)、それと共にデータismに乗りにくい価値やクオリティは等閑視され衰弱を余儀なくされることにもなるのかもしれない。
とりわけ興味深く読んだ箇所の一つは、人間の意志なるものを考察するなかで右脳と左脳の働きを語った一節で、これらの働きの違いはよく聞かされる話だが、右脳には、言語を司り計算し物語る左脳とは違った独自の欲求や意志があるという話は初めて聞いたような気がする。数年前の拙作「気聞日記」では“気分”という心理的現象にスポットを当てたが、“気分”の相当部分は右脳の意志や欲求を反映しているのかもしれない。
右脳・左脳の話を初めて詳細に知らされたのはたしかコリン・ウィルソンのなにかの本だったかと思う。Y・N・ハラリが“ホモ・デウス”を予言するように、C・ウィルソンも未来における人間の脳の発達とそれによって開ける全く新しい精神世界を夢想していたように覚えているが、ハラリと違ってとてもオプティミスティックな色合いだった。“ホモ・デウス”はディストピア的な意味合いや色彩、マッド・サイエンティストのマッドさがかなり濃そうな雰囲気がある。世界の文明史を語るにしても、論者によってあるいは時代によって微妙にトーンが変わるのは興味深いことだ。
あえて対抗してなにかイズムを唱えるとしたら、なんだろうか。冗談半分で言ってもいいなら、「絵師イズム」というのはどうだろうか。たくさんではないけれどマンガを読んだりもする、なにを読むかというときに、商業的に要求される水準以上に過剰に絵を追求する作家を好んで読むという傾向がある。創作における無駄な狂気。Aesthetic CrazeのA.C.ism。あるいはCreative Craze CaravanをつくってTカードempireと覇を競おうか。このCrazeは一種極上の幸福を約束するとかなんとか謳い文句をでっちあげて。少数者の趣味的な悪あがき、メジャーにはなりにくそうだ。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 22:22| Comment(0) | 日記