2019年09月27日

「詩人の家」のこと

24日から25日にかけて、石巻で開催されているReborn Art Festivalの一環である、吉増剛造さん主催の「詩人の家」(牡鹿半島の鮎川というところにある)に生野毅さんと宿泊の形で参加してきた。この旅の詳細については生野さんが「みらいらん」次号に書くと思うので、差し控えるが、少しだけ。
吉増さんが作品制作を進めているホテルニューさか井の一室を訪ねたのだが、机には詩稿の下書きと浄書の紙の束があり、海に面した窓のガラスには「鯨(いさな)」を中心とした詩のフレーズや黄色・黄緑色(ブラジルの色)の線が描きこまれてガラス絵のようになっていて、生々しい詩の生成の現場を呈していた。部屋にはヴァレリー・アファナシエフの弾くベートーヴェンのピアノ曲が流れ、壁の片隅にはゴッホの「カラスのいる麦畑」の写真版が飾られていた。ベートーヴェンは「むきだしの本気」の人であり、ゴッホもそう。吉増さんもここで「むきだしの本気」のモードに入っているのだろうか。
桃浦の小学校の展示や島袋道浩作品「白い道」など印象的な経験をへて、この「詩の部屋」は強烈なクライマックスであった。そして旅を通して石巻が幻めいて優艶に発光しているかのような感覚があった。
(池田康)
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2019年09月21日

背筋が伸びる

先日、仕事で信州に足を運んだ。空気がいいとか食べ物がうまいとか風景の(物語がまどろんでいるような)濃厚なのどかさとか魅力はたくさんありそうだが、なによりも北アルプスの堂々たる山容が素晴らしかった。ただただ高い。眺めているだけで、背筋が伸びる気がする。
育てている朝顔に白い花が咲いた。その株は遅れて芽を出したもので、他の先に大きくなった株に栄養を奪われるためかいつまでもひょろっとして貧弱で蔓もさほど伸びず蕾を用意する気配もなくこれはだめだと諦めていたのだが、9月も中旬になってやっと花をつけた。それが雪のように真白の花で、いきなりの出現に息をのんだ。もともと白い花の血筋なのか、それとも栄養不足で色素を作る力がないのか、それはわからないが、真白の朝顔はなんとも清らかだ。
ラグビーのW杯が始まった。ラグビーの魅力をわかりやすく紹介してくれるのでドラマ「ノーサイド・ゲーム」は途中から見ていたが、最終回、親会社の社長がどこかの外国のチームの試合前の儀式を解説するなかで詩(?)の朗読をして、ラグビーという競技の単なるスポーツを超えた、相撲に似た神聖な祝祭の性格を明らかにする一幕があり、これも心身に厳粛な感覚が流れた。
以上、背筋が伸びる話いくつか。
(池田康)
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2019年09月11日

修行僧よりも強い草木や虫

台風15号は一晩中吹き荒れていて、やたらと建具がきしみ、本当に恐かった。気象記録的にも強大な台風だったそうな。外に出していた朝顔がなんとか形と命を保っていたのは不思議なほどだ。翌日は台風一過の晴れで気温も上がり、世の中はもう正常に戻っているだろうと過信したのが間違いで、鉄道で近隣の街へ行ったら下りの電車はまともに動いておらず、満員のバスで長時間かけ苦労して帰ってくるはめになった。その疲れで頭痛を発症し、まだ余韻が続いている。停電などで困っているエリアもまだあると聞く。襲来の最中も恐怖の野分だったが、去った後に思いがけない諸々の困難が待ち伏せていたという次第。近所の木々は、たくさん枝葉をもぎ取られたものの、倒れた木はなさそうだ。夜になるとすだいていた虫のことも気になり、五分の魂の輩は軽く一掃されてしまったのではないかと心配したが、昨日の晩は何事もなかったかのように鳴いていた。生き延びたらしい。彼らはそれなりに強い。あの風雨に打たれて一晩立っているのは中世の不撓不屈の修行僧でも困難だろう。
(池田康)
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2019年09月04日

兄弟、姉妹、双子と父母

先月の九州旅行で伊万里〜柳川あたりを車で走っていたときに、そういえば九州を舞台にした「奇跡」(是枝裕和監督、2011)という映画があったねという話になった。主人公の兄弟(前田航基・前田旺志郎演じる)は、離婚した両親に一人ずつつきそい、兄は母と鹿児島に、弟は父と福岡に住んでいる。九州新幹線開通の日、上り下りの一番列車がすれ違う瞬間を目撃したら奇跡が起こるという説を信じ、仲間とともに北と南から出発し、熊本あたりの中間地点で落ち合い……という少年少女冒険譚。兄弟が願っていたのは再び一家四人で一緒に暮らすことだったはずだが(「世界か家族か」というけったいな二択に陥ってしまい願掛けせず)、結局その「奇跡」は起きなかったようだ。この結末のありかたが気になったのは、最近読んだ『ふたりのロッテ』(ケストナー著)が似たストーリー設定で絵に描いたようなハッピーエンドだったのを思い出したから。両親の復縁の糸口までもっていけば作品の感動の要素も増して下世話な話だが観客動員の面で当たりも一層とれただろうに、そうしなかったのは、納得できる形でそこまでもっていく脚本を作るのが難しいということもあったやもしれぬが、監督のあざとさを嫌う映画思想から来ているのかもしれない。あるいは『ふたりのロッテ』を意識して、なぞるのではなくひねりを加えたということか。父親から兄に伝えられた「世界」の観念はさらに兄から弟へと伝わる、しかし帰宅した弟が「とうちゃん、世界ってなんなんやろな」と訊くとお父さんはボケに走り、答え合わせの答えが合わないところ、可笑しすぎる。
『ふたりのロッテ』は(『エミールと探偵たち』を読んだ勢いで同じ作者のこれも楽しんだ次第)、双子のロッテとルイーゼが主人公で、両親は双子姉妹がもの心つかない頃に離婚して、ロッテは母とミュンヘンに、ルイーゼは父とウィーンに住んでいる。夏休みの子供休暇村で偶然出会った二人は両親をもう一度一緒にさせようと、ロッテはルイーゼになり切ってウィーンへ、ルイーゼはロッテの振りをしてミュンヘンへ行く……という話。いろいろ波乱はあるものの、最後は父と母が仲直りするというハッピーエンドで終わる。児童文学ゆえの常套で、そうでなければ子供の読者からやだやだときびしく文句を言われかねない。子供のための物語だからそうしてあげたいというやさしい要請のほかに、ただの兄弟というのではなく双子であることで互いの思い入れ、協力体制がより強いのかもしれず、さらにロッテたちは「奇跡」の子供たちよりも実際的で踏み込んだ大胆な作戦を遂行している。運命の大きな地形図を変えてしまう双子マジックおそるべし。
双子と言えば、川端康成の『古都』がある。京都を舞台にし、四季の祭を要所に配した、われわれ田舎庶民には手も足も出ない京都の審美感が随所に光る小説。千重子と苗子は双子だが、千重子は捨て子で、中京の呉服問屋の夫婦に拾われて育ち、苗子は父の生業である林業の仕事につき北山で暮らしている。二人は祇園祭の夜に出会い……という話。「奇跡」や『ふたりのロッテ』で考えたハッピーエンドという問題について言えば、千重子たちの実の両親は既に死んでいて、パーフェクトな一家団欒の可能性はあらかじめ無惨に刈り取られている。では二人の行く末はどうなるのかというと、それを描く前のところで物語は終わっている。男女のやりとりなど恋愛物的な展開もあるにせよ、それがどうなるかという興味よりもむしろ、古都の風物を描き込むとともに、捨て子だからだろう、千重子の結婚についてもなんについても「両親には絶対服従」という苛烈な覚悟や、苗子の感じる千重子との「身分差」、千重子の幸福の邪魔には絶対になるまいという寂しい決意がひびかせる抒情を感じることが小説にとって大事だったのだろう。最後の場面、千重子の部屋で苗子が一夜を過ごす、雪が降ってくる、というシーンは、三好達治の詩「雪」の引用のようにも思われる。この詩は与謝蕪村の「夜色楼台雪万家図」につながっているというエピソードを今の我々はどこかで聞き知っているのだが、川端が執筆時にそのことを知っていたかどうかわからない、しかしこの雪景色の絵は京都の風景であろうし、この絵、そして詩「雪」にインスピレーションを得て、そこから逆算して作家は京都の太郎・次郎の物語を組み立てていったのではないかと想像してみるのも一興だ。引用と言えば、小説のはじめの方で谷崎潤一郎の『細雪』の一節も引用されている。しかし谷崎の描く女人と川端の描く女人はずいぶん違う。『細雪』の主人公の雪子はでしゃばるでもなく姉や妹と比べても大人しい性格だが、それでも見合い話を幾度となくつっぱねるなど我を通すところは遠慮なく通す。谷崎にとって女はエゴイスティックで肯定的な、地上の幸福を体現する存在だ。しかし『古都』の千重子は義理の両親に「絶対服従」と言うし、苗子は千重子とは身分が違うから「お嬢さんの、おしあわせに、ちょっとでもさわりとうないのどす」と誓う。この古いと言えば古い、今どきの女性からすれば頭が変なんじゃないということになるのかもしれない、そのような峻厳な覚悟を心に抱くパセティックな女性は、この『古都』に限らず川端の他の作品にもよく出てくるような気がする。ある型の心性の人間はこういう希有な女性像に近づき難い崇高なものを感じるのだ。両作家の志向や感性の違いがゆかしく考えさせられる。
『古都』は何度か映画化されているようだが、監督・中村登、主演・岩下志麻のヴァージョン(1963)は小説の発表からあまり間を置かずに撮られたので、呉服店の内部の様子や京都の街の雰囲気など小説でイメージされているほぼそのままを目にすることができる。湯豆腐の装置、帯の図案の案配、平安神宮の庭の池におかれた飛び石の具合、機織りの作業風景、北山杉の整然とした景観など細部にも目が留まる。音楽は武満徹で、こういう鬼火のような音楽をつける人はもういなさそうだ。
(池田康)
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2019年09月01日

伊勢物語の合唱オペラ

31日午後に渋谷・さくらホールで行われた、合唱団樹の会のコンサート「新実徳英の合唱世界II 二つの愛の物語」を聴いた。作曲家の新実徳英さんの曲だけで構成した会。指揮・藤井宏樹、ピアノ・浅井道子。この合唱団の声のブレンドは、男声陣がしっかりしていることもあって大変力強く、鋼あるいは巌のようなたくましい響きを特色としているようだ。
前半は「三つの愛の歌」、この曲は以前にも聴いたことがあったが、柿本人麻呂の長歌、旧約聖書の雅歌、キーツの詩「ギリシアの壺に寄せるオード」にそれぞれ作曲した三曲からなる。二曲目と三曲目は外国語でうたわれ、聴いていても言葉がよく分からないということもあり、やはり柿本人麻呂の長歌の曲が一番面白く聴ける。この長歌も本の上で黙読するかぎりでは一本調子のリズムで最初から最後まで読んでしまうのだが、これを音楽にすると多彩な変化が加わってきてドラマティックで、ことに最後の「妹の門見む 靡けこの山」の部分の大きな展開は心が高揚する。全体に、細かい技巧で勝負するというよりは、大きな模様、大きな流れ、大づかみなバランスと構えで考えられていて、聴く側もゆったりと寛いで聴くことができる。有名な作曲家ではブルックナーなどもそうだろうが、耳の尖端で聴くのではなく身体を委ねるように聴くことになるのだろう。
後半の「二つの愛の物語」は今回の委嘱初演の合唱オペラ曲で、伊勢物語を題材にした二章の構成になっている。台本・和合亮一、演出・しままなぶ。第一曲「梓弓」は男を三年待っていたが諦め今や別の人に会おうとしているところに昔の男が帰ってきて、これを拒んだのにその衝撃で落命する女の話。二曲目「筒井筒」は、幼馴染みの男女が相思相愛で結婚したが女の家が没落して生活が厳しくなり(古代の男女関係は今と違っていたようだ)男が別の女を求めようとするのだが男の身を案じる留守居の女の姿を物陰から盗み見て男が改心する、という話。激しさの違いはあれ、どちらも哀切な話で、しかも匿名の男と女の話は影絵芝居のようで、雲の上のお伽話でも異国の物語でもなく、我々自身の愛の消息として見ることができる。見る、と書いたが、演出によって合唱団員たちの配置や身振り手振りも細心な注意で構築されていて、オペラとしての絵の面白味は十分にあった。普通のオペラと比べて、合唱オペラはオーケストラはないもののコロスの声が遍在して絶えず動き、物語を包み込み、充溢している点で、トーンの色彩感は乏しくてもより一層音楽的に濃く深遠であるようにも思われた。この合唱団の男声パートの充実ぶりにより恋愛劇としての立派さが際立った。この古雅で普遍的なラブストーリーの合唱オペラは多くの合唱団がやりたいと思うだろう。
伊勢物語を扱うなら、ぜひ、男(在原業平)がどこぞの家の姫を誘拐しようとする話、例の「白玉かなにぞと人の問ひし時露と答へて消えなましものを」の歌、日本の詩歌史上もっとも異界の妖気を強く帯びた名歌をふくんだあの話も、曲にしていただきたいもの。
和合さんによれば、台本・和合&作曲・新実のコンビで別の曲のプロジェクトも進行中で、近く別の合唱団の演奏会で発表される予定だそうだ。期待したい。
(池田康)
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