2019年09月04日

兄弟、姉妹、双子と父母

先月の九州旅行で伊万里〜柳川あたりを車で走っていたときに、そういえば九州を舞台にした「奇跡」(是枝裕和監督、2011)という映画があったねという話になった。主人公の兄弟(前田航基・前田旺志郎演じる)は、離婚した両親に一人ずつつきそい、兄は母と鹿児島に、弟は父と福岡に住んでいる。九州新幹線開通の日、上り下りの一番列車がすれ違う瞬間を目撃したら奇跡が起こるという説を信じ、仲間とともに北と南から出発し、熊本あたりの中間地点で落ち合い……という少年少女冒険譚。兄弟が願っていたのは再び一家四人で一緒に暮らすことだったはずだが(「世界か家族か」というけったいな二択に陥ってしまい願掛けせず)、結局その「奇跡」は起きなかったようだ。この結末のありかたが気になったのは、最近読んだ『ふたりのロッテ』(ケストナー著)が似たストーリー設定で絵に描いたようなハッピーエンドだったのを思い出したから。両親の復縁の糸口までもっていけば作品の感動の要素も増して下世話な話だが観客動員の面で当たりも一層とれただろうに、そうしなかったのは、納得できる形でそこまでもっていく脚本を作るのが難しいということもあったやもしれぬが、監督のあざとさを嫌う映画思想から来ているのかもしれない。あるいは『ふたりのロッテ』を意識して、なぞるのではなくひねりを加えたということか。父親から兄に伝えられた「世界」の観念はさらに兄から弟へと伝わる、しかし帰宅した弟が「とうちゃん、世界ってなんなんやろな」と訊くとお父さんはボケに走り、答え合わせの答えが合わないところ、可笑しすぎる。
『ふたりのロッテ』は(『エミールと探偵たち』を読んだ勢いで同じ作者のこれも楽しんだ次第)、双子のロッテとルイーゼが主人公で、両親は双子姉妹がもの心つかない頃に離婚して、ロッテは母とミュンヘンに、ルイーゼは父とウィーンに住んでいる。夏休みの子供休暇村で偶然出会った二人は両親をもう一度一緒にさせようと、ロッテはルイーゼになり切ってウィーンへ、ルイーゼはロッテの振りをしてミュンヘンへ行く……という話。いろいろ波乱はあるものの、最後は父と母が仲直りするというハッピーエンドで終わる。児童文学ゆえの常套で、そうでなければ子供の読者からやだやだときびしく文句を言われかねない。子供のための物語だからそうしてあげたいというやさしい要請のほかに、ただの兄弟というのではなく双子であることで互いの思い入れ、協力体制がより強いのかもしれず、さらにロッテたちは「奇跡」の子供たちよりも実際的で踏み込んだ大胆な作戦を遂行している。運命の大きな地形図を変えてしまう双子マジックおそるべし。
双子と言えば、川端康成の『古都』がある。京都を舞台にし、四季の祭を要所に配した、われわれ田舎庶民には手も足も出ない京都の審美感が随所に光る小説。千重子と苗子は双子だが、千重子は捨て子で、中京の呉服問屋の夫婦に拾われて育ち、苗子は父の生業である林業の仕事につき北山で暮らしている。二人は祇園祭の夜に出会い……という話。「奇跡」や『ふたりのロッテ』で考えたハッピーエンドという問題について言えば、千重子たちの実の両親は既に死んでいて、パーフェクトな一家団欒の可能性はあらかじめ無惨に刈り取られている。では二人の行く末はどうなるのかというと、それを描く前のところで物語は終わっている。男女のやりとりなど恋愛物的な展開もあるにせよ、それがどうなるかという興味よりもむしろ、古都の風物を描き込むとともに、捨て子だからだろう、千重子の結婚についてもなんについても「両親には絶対服従」という苛烈な覚悟や、苗子の感じる千重子との「身分差」、千重子の幸福の邪魔には絶対になるまいという寂しい決意がひびかせる抒情を感じることが小説にとって大事だったのだろう。最後の場面、千重子の部屋で苗子が一夜を過ごす、雪が降ってくる、というシーンは、三好達治の詩「雪」の引用のようにも思われる。この詩は与謝蕪村の「夜色楼台雪万家図」につながっているというエピソードを今の我々はどこかで聞き知っているのだが、川端が執筆時にそのことを知っていたかどうかわからない、しかしこの雪景色の絵は京都の風景であろうし、この絵、そして詩「雪」にインスピレーションを得て、そこから逆算して作家は京都の太郎・次郎の物語を組み立てていったのではないかと想像してみるのも一興だ。引用と言えば、小説のはじめの方で谷崎潤一郎の『細雪』の一節も引用されている。しかし谷崎の描く女人と川端の描く女人はずいぶん違う。『細雪』の主人公の雪子はでしゃばるでもなく姉や妹と比べても大人しい性格だが、それでも見合い話を幾度となくつっぱねるなど我を通すところは遠慮なく通す。谷崎にとって女はエゴイスティックで肯定的な、地上の幸福を体現する存在だ。しかし『古都』の千重子は義理の両親に「絶対服従」と言うし、苗子は千重子とは身分が違うから「お嬢さんの、おしあわせに、ちょっとでもさわりとうないのどす」と誓う。この古いと言えば古い、今どきの女性からすれば頭が変なんじゃないということになるのかもしれない、そのような峻厳な覚悟を心に抱くパセティックな女性は、この『古都』に限らず川端の他の作品にもよく出てくるような気がする。ある型の心性の人間はこういう希有な女性像に近づき難い崇高なものを感じるのだ。両作家の志向や感性の違いがゆかしく考えさせられる。
『古都』は何度か映画化されているようだが、監督・中村登、主演・岩下志麻のヴァージョン(1963)は小説の発表からあまり間を置かずに撮られたので、呉服店の内部の様子や京都の街の雰囲気など小説でイメージされているほぼそのままを目にすることができる。湯豆腐の装置、帯の図案の案配、平安神宮の庭の池におかれた飛び石の具合、機織りの作業風景、北山杉の整然とした景観など細部にも目が留まる。音楽は武満徹で、こういう鬼火のような音楽をつける人はもういなさそうだ。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 18:45| Comment(0) | 日記