2020年01月05日

「男はつらいよ」の着地点

脚本は作品の単なる骨組みではない、思考であり思想であり意志表明である。
「みらいらん」の作業のすべてを終了した大晦日の前日、「男はつらいよ お帰り寅さん」(山田洋次監督)を見た。回想シーンでの寅さんの数々の語りには胸がジーンと来るし、歴代のマドンナたちのいい表情の映像の連射は神々しく圧巻だが、本筋の立て方はそれに劣らず衝撃的だった。寅さんの甥っ子でさくらの息子の満男(吉岡秀隆)が昔の恋人の泉(後藤久美子)に何十年ぶりかで再会するというストーリーなのだが、クライマックスは泉が高齢者施設に入居している父親に会いにいくところ、とくにその帰路に頂点があるように感じられた。しかしこの場面は決して華やかに盛り上がる物語の局面ではなく、むしろあまりにも凡庸でありふれた、みっともなく恥ずかしい、マドンナ泉にしてみたら自分で見たくもないし人に見せたくもない、親子の愛情生活のパンク、家族崩壊のうんざりの現実があらわになる、人生の底部のリアルが牙をむき出す場面なのだ。このような冷酷な痛々しいエピソードにクライマックスを持ってくる脚本はそうとうな度胸であり、制作責任者は心臓が縮むのではないか。男はつらいよシリーズ全体をマドンナのやるせない恥辱に着地させるこの逆ウルトラCのストーリーの組み方により、ファンタジックな車寅次郎絵物語が神話と歴史とがからみ合い融和するように我々の現実に地続きのものであるという感じがしてくるのだ。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 12:23| Comment(0) | 日記