2020年02月11日

岩井俊二という映画監督

先日、映画「ラストレター」(岩井俊二監督)を見た。一年程前まで手紙をテーマにした詩の連作を書いていたこともあり、また四半世紀前に同監督の「Love Letter」を見た記憶もおぼろにあり、興味をそそられて。巨大なスクリーンで、いい位置の席で見ることができたせいもあるかもしれないが、至福の瞬間が次から次へと現れ、静かな心の昂りが続いた。この監督の独自のマジックは健在のようだ。秋に行った石巻のReborn Art Festivalで廃墟の学校を見たのがじつに印象深かったが、この映画でも出てきて、あのときの衝撃が甦ってくるという事由も鑑賞を深めたかもしれない。
ある個性をいくつかの要素の組み合わせで規定してみるというのも一種のゲームとして面白い。たとえば、オードリー・ヘップバーンはコメディとロマンスとサスペンスの重なる領域で個性的な花を咲かせたのだろうし、ヒッチコックは恐怖への執着と幾何学精神と現代の心音によって特徴づけられると考えられようし、市川崑は直感的・比喩的に言い当てるなら絵と瞬間と煙草でできていると断じてみたい気がする。そのやり方で映画監督岩井俊二の性格付けを試みると「悪戯好き+光と空気+思春期(adolescence)信仰」という具合に考えればある程度いいところまで行くのではないだろうか。
悪戯はすべての場面を通していろんな形で仕掛けられているし、作品によっては制作過程から大規模に悪戯が働いている。数えていけばきりがないだろう。光と空気という重量を欠いた大道具のいくらか表現主義的な活用も特徴的で、この点については映像の専門家に語ってもらうのがいいだろう。思春期信仰については今回の作品のほかにも、過去の「四月物語」(1998)、「リリイ・シュシュのすべて」(2001)、「花とアリス」(2004)などを見ても顕著だ。岩井作品を好かない人の多くはこの点につまずくのかもしれない。しかし子供時代の終わりであると同時に大人時代の始まりでもあるこの特異な時期を大事にし、ここに人間性のすべてが濃密な状態でつまっている、本当に重要なものはここにしかないと考える人間観は、根拠のない偏った考え方と安易に切り捨てることもできないはずであり、私としては「みらいらん」5号で小特集「童心の王国」をやったばかりなので一層共鳴を覚えるというところもある。
思春期を特別に大切すると言ってもそれは光ばかりでできているのではなく、闇の部分ももちろんある。そこを徹底的に描いたのが「リリイ・シュシュのすべて」で、思春期の残酷、邪悪、汚穢がえげつなくも直截に物語られているのだが、しかし見ようによっては狂おしいまでに魅惑的で、岩井俊二というdevilは作ってはいけないものを作ってしまったのではないかという感想も胸をよぎる。「ラストレター」では終盤で明らかにされる“最後の手紙”が思春期信仰を決定的に宣言しており、そこには「リリイ・シュシュのすべて」ほどの深淵はあからさまに顔を見せることはないものの、この人の世界観にぶれはないのだと再確認することになる。
「岩井俊二においては、大人はコメディの演じ手であり、子供は真正な悲劇の演じ手である」この仮説はどこまで有効であろうか……はてさて。
(池田康)

追記
「リップヴァンウィンクルの花嫁」(2016)は、世界一愚図な女の子と絶壁に片手でぶらさがっている女の子とが仲良くなる話で、そこに軽妙悪辣なアルルカンがからむ。彼女たちの少女性が統べる時間では問答無用の物語がどんどんつき進むが、三人が大人である位相では(欺瞞は欺瞞として残りつつ)それなりに優しげなハピーエンドに着地しているようにも見える。
posted by 洪水HQ at 17:13| Comment(0) | 日記