2020年03月30日

『八重洋一郎を辿る』の書評2

鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』の書評が「週刊 新社会」3月3日に執筆=鈴木裕子氏で、また「沖縄タイムス」3月28日に執筆=新川明氏で、掲載されました。ぜひご覧下さい。
(池田康)
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2020年03月21日

解せぬこと

最近解せぬこと。その一。イタリアの悲劇的な状況。同じウイルスのはずなのになぜほかと比べて桁違いに死者が多いのか。中国を上回るって、なんで!?と戸惑う。これが夢かなにかの間違いではないのなら、シンプルに、不運の連続と対策の拙さが重なればその結果、最悪あそこまでいくのだ、という恐るべき真実なのかもしれない。
その二。マスク製造会社はまぜこんなにも商機を逃しつづけるのか。一週間程度商品がなくなるのはわからないでもないが、ここまで長引くのは解せない。いくら高級仕様とはいえ、マスクくらい簡単に製造できるだろうに。なんなら、簡易な型をちゃちゃっとこしらえて手ごろな材料で作ればいい。どうぞどんどん儲けて下さいと皆が思っているのだから遠慮はいらないのだが。(医療機関などに優先的に納入しているのだろう)
その三。流感covid19についていろいろ報道がなされるなかで、世界には石鹸がない家庭が多い地域が広く存在するという話も聞かれ、驚いた。もの心ついてこの方、家には常に石鹸があって当り前に使ってきた身としては、なかなか飲み込めない話だ。靴やパンツと同じくらい必需品ではないか。どれだけ貧乏とは言え、石鹸が買えないほど貧乏というのは想像を超える。それでも20年くらい前まではアジア諸国の貧しさについて強いイメージがあったが、最近ではタイやマレーシアなどから観光客が来日する時代になっているのだから、そんな赤貧洗うがごとき貧しさは、政情不安をかかえる国や地域を除いては、ほぼなくなったのだろうと勝手に思い込んでいたが、違ったようだ。石鹸が買えないほどの貧困もある、これも「恐るべき真実」だ。
ついでにもう一つ。これはどうでもいい「解せぬ」だが。
今日の午後、春の陽の下を歩きながら、どんな成り行きからだったか、オタマジャクシの名前について考えていた。蛙の子はなぜオタマジャクシというのか。おそらく料理で使うお玉に形が似ているからだろう。しかしここで、あれ?と思う。お玉の正式名称が玉杓子であるとしても、お玉をお玉杓子とは現実の生活の中では言わない。台所で母親が手伝いをする子供に「オタマジャクシ取って」と言うことはまずない。もともとの存在の名前としてはとっくに廃れたのだ。それなのに蛙の子のオタマジャクシという名前がちゃんと杓子定規に残っているのがなんともおかしい。そしてそこからさらに、音楽の楽譜の音符の愛称にもなっているのだ。オタマジャクシを見る機会がとんとなくなった今、オタマジャクシの名称が最後に残るのは五線譜上だろうか。(コロナという言葉も元々の存在=冠を目にする機会が少なくなるのであれば今後は主にウイルスの名前として残っていくのだろうか…)
(池田康)

追記
「新型コロナウイルス」という呼称はやや限定がゆるすぎないだろうか。病気の種類の特定ができているとは言いにくい。今のところはこれで通じるし、テレビ・ラジオのニュース番組は日々過ぎ去っていくものだからまだしも、紙媒体、特に新聞は何年か経って記事を見返した場合、間の抜けたもどかしい感じがするのではないだろうか。例えば台風の記事だとしたら、「新しい台風が来ました、新しい台風が東京を襲っています、新しい台風はかなり強力です」と書くようなものだから。国際機関が提示している「Covid 19」が使いにくいとしたら、19年式コロナウイルスとか、7種類目ということで七型コロナウイルスとか、あるいは干支を使って己亥感冒とか。たけき猪が駆ける。
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2020年03月07日

6号は吉岡実特集

夏に刊行予定の「みらいらん」6号では、詩人・吉岡実の特集を計画している。4号の田村隆一特集と同じく、城戸朱理氏の助力と導きを得て。御期待下さい。
それで、吉岡実の研究をということで、ざっと詩作品の全体に目を通すべく励んでいたのだが、いつの間にか吉岡実の庭からウラジミール・ナボコフの庭へ移ってきてしまっている。吉岡のある作品にナボコフの「青白い炎」が参照作品として挙げられていたため。探索中のナボコフの庭が広いのか狭いのかまだ見渡すことができないでいるが、かなり妖しい謎めいた庭であることは確かなようで、下手に魅了されると長らくここに留まることになりかねない。こんなふうに吉岡の周辺を、ルイス・キャロルの庭、西脇順三郎の庭、土方巽の庭、永田耕衣の庭とサーフィンしていくとしたら、いくら時間があっても足りない。道草や回り道は楽しいものだが戻って来られなくなる。わが悠長な雑誌もそれなりに締切やら決まった発行日があるから、カフェでの雑談のように話が逸れて、更に脱線して、再び三たびどこかへ飛んで、出発点を忘れたまま終わってお勘定、という具合にはいかないのだ。耕衣やルイスには申し訳ないが。
(池田康)
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2020年03月03日

新手の感冒

大陸発の新手の感冒が、猛威を振るうところまでいっているのかどうかわからないが、広まりつつあり、警戒と防衛努力でぴりぴりしている昨今。どれだけ恐れなければいけないかという点でいまいちピンと来ない所もある。かつてエイズが登場した時は背筋が氷る思いがした。エボラ出血熱の報道も心底ぞっとした。東日本大震災時の原発事故には「破滅」の二文字が目の前に点灯した。それらの危機と比べると今回の流行病(ハヤリヤマイ)は普通の風邪やインフルエンザの数割増程度の威力のようで、そんなに恐いかという気もするのだが、油断して対策を怠ると等比級数的に患者が増えそれに準じた割合で死者が発生するという理屈も理解できる。中国武漢の罹患者の数字はただごとではない。
現今、対策として催し等の中止や学校の休校が励行されているが、個人的な思いを勝手に言わせてもらえば、2月にコンサートや各種催しが行われることはそもそも基本的に願い下げなのだ。12月や1月は正月の前後で繁忙になることはある程度やむを得ないとしても、寒さの底の2月はあまり家を出たくない、極力じっと冬眠していたい、そんな期間であり、毎年きまってインフルエンザが流行る時期でもあるから、コンサート等の開催にはもっとも不向きなのだという留意があってもいいと思う(寝かせといてくれ!)。2月は眠り月、という俳句の季語にしたいくらいだ。以上あくまでも一個人の勝手な妄言であるが。
もう3月、植木鉢で育てている空豆が知らぬうちに花を咲かせていた。妙な形の花。
(池田康)
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