2020年03月21日

解せぬこと

最近解せぬこと。その一。イタリアの悲劇的な状況。同じウイルスのはずなのになぜほかと比べて桁違いに死者が多いのか。中国を上回るって、なんで!?と戸惑う。これが夢かなにかの間違いではないのなら、シンプルに、不運の連続と対策の拙さが重なればその結果、最悪あそこまでいくのだ、という恐るべき真実なのかもしれない。
その二。マスク製造会社はまぜこんなにも商機を逃しつづけるのか。一週間程度商品がなくなるのはわからないでもないが、ここまで長引くのは解せない。いくら高級仕様とはいえ、マスクくらい簡単に製造できるだろうに。なんなら、簡易な型をちゃちゃっとこしらえて手ごろな材料で作ればいい。どうぞどんどん儲けて下さいと皆が思っているのだから遠慮はいらないのだが。(医療機関などに優先的に納入しているのだろう)
その三。流感covid19についていろいろ報道がなされるなかで、世界には石鹸がない家庭が多い地域が広く存在するという話も聞かれ、驚いた。もの心ついてこの方、家には常に石鹸があって当り前に使ってきた身としては、なかなか飲み込めない話だ。靴やパンツと同じくらい必需品ではないか。どれだけ貧乏とは言え、石鹸が買えないほど貧乏というのは想像を超える。それでも20年くらい前まではアジア諸国の貧しさについて強いイメージがあったが、最近ではタイやマレーシアなどから観光客が来日する時代になっているのだから、そんな赤貧洗うがごとき貧しさは、政情不安をかかえる国や地域を除いては、ほぼなくなったのだろうと勝手に思い込んでいたが、違ったようだ。石鹸が買えないほどの貧困もある、これも「恐るべき真実」だ。
ついでにもう一つ。これはどうでもいい「解せぬ」だが。
今日の午後、春の陽の下を歩きながら、どんな成り行きからだったか、オタマジャクシの名前について考えていた。蛙の子はなぜオタマジャクシというのか。おそらく料理で使うお玉に形が似ているからだろう。しかしここで、あれ?と思う。お玉の正式名称が玉杓子であるとしても、お玉をお玉杓子とは現実の生活の中では言わない。台所で母親が手伝いをする子供に「オタマジャクシ取って」と言うことはまずない。もともとの存在の名前としてはとっくに廃れたのだ。それなのに蛙の子のオタマジャクシという名前がちゃんと杓子定規に残っているのがなんともおかしい。そしてそこからさらに、音楽の楽譜の音符の愛称にもなっているのだ。オタマジャクシを見る機会がとんとなくなった今、オタマジャクシの名称が最後に残るのは五線譜上だろうか。(コロナという言葉も元々の存在=冠を目にする機会が少なくなるのであれば今後は主にウイルスの名前として残っていくのだろうか…)
(池田康)

追記
「新型コロナウイルス」という呼称はやや限定がゆるすぎないだろうか。病気の種類の特定ができているとは言いにくい。今のところはこれで通じるし、テレビ・ラジオのニュース番組は日々過ぎ去っていくものだからまだしも、紙媒体、特に新聞は何年か経って記事を見返した場合、間の抜けたもどかしい感じがするのではないだろうか。例えば台風の記事だとしたら、「新しい台風が来ました、新しい台風が東京を襲っています、新しい台風はかなり強力です」と書くようなものだから。国際機関が提示している「Covid 19」が使いにくいとしたら、19年式コロナウイルスとか、7種類目ということで七型コロナウイルスとか、あるいは干支を使って己亥感冒とか。たけき猪が駆ける。
posted by 洪水HQ at 19:56| Comment(0) | 日記