2020年08月21日

南原充士さんの小説

猛暑の山脈はそろそろ高度を低くしていくのだろうか。しかし今日も並大抵でなく暑かった。汗をバケツ一杯くらい出したような気がする。
さて、南原充士さんが小説「喜望峰」をAmazonでデジタル刊行した。下記のURLよりご覧下さい。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B08G4PM9W1/ref=dbs_a_def_rwt_bibl_vppi_i1
紹介文によると、大手商社勤務の主人公がある資源開発プロジェクトにかかわり苦労するという話のようだ。394ページとあるから相当な長編だろうか。

(池田)
posted by 洪水HQ at 16:30| Comment(1) | 日記

2020年08月20日

自然の多層を撮る

先日、カリフォルニアで夢のような農場を作るドキュメンタリー映画「ビッグ・リトル・ファーム 理想の暮らしのつくり方」(監督=ジョン・チェスター)を見た。広大な荒蕪地で夫婦が一から農園を作る困難な過程を描く。土を糞やミミズといった有機肥料とともに整備し、さまざまな種類の果樹や野菜を植えて、羊や豚や牛や鶏を飼い、という絵本の中の話のような農の生活で、商売的には大儲けできそうな農法とは思えないが、生命の循環が具合よく組み合わさり融け合った、まさしく「理想的」なあり方のように見える。これを何十年かけてというのではなく7年ほどで達成しているのが信じられない。いい導師を得たということだろうか。さらに、コヨーテや鷹や蛇までもを生活の仲間として迎えようというところまで農業生活思想が短期間に発展成熟していくところ、これも予想を上回った。監督がカメラマンということもあって、生きものたちの映像が美しい。
自然の驚異を伝える映像作品ということで言えば、ややスケールが小さくなるが、「さわやか自然百景」というNHKの小さな番組をよく見る(日曜朝)。特定の地域に住む小動物を追うのだが、見せ方が大仰でなく、さりげないところがいい。このあいだは北海道の森の粘菌の生態を紹介していて、南方熊楠はこういうモノを調べていたのかと、イメージとイメージがつながった。
(池田康)
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2020年08月13日

『八重洋一郎を辿る』の書評4

鹿野政直著『八重洋一郎を辿る』の書評が新しく出た(「けーし風」107号)。新城郁夫氏による一文「鹿野政直氏の新著から考えること」。A5判の2ページ分だからかなりの分量だ。鹿野氏の思考方法、論じ方は、沖縄という既成イメージの陥穽におちいらないよう努力をしていて、それゆえの苦難や痛みもともなう、という指摘が重要ポイントか。以下は抜粋である。
「敵を指弾していれば沖縄「を」考えなくて済む。沖縄「を」問わないために問わせないために、必死になって沖縄「で」語るのである。このとき、沖縄は実に便利な方便となる。ところが、こうした書き方をこそ鹿野氏は遠ざける。あえて言えば、鹿野氏の沖縄に関する膨大な仕事の全てが、沖縄「を」沖縄「で」語ることへの抗いとして読みかえしていくことができると思うのである。」
「鹿野氏は、沖縄「を」語ろうとする自らの思考のなかに、沖縄「で」語ることのできない闇を抱え込む。しかし、この困難を迎え入れるときはじめて、沖縄「で」語ることのできない沖縄「を」予感していくことが可能となるだろうし、沖縄を生きようとする私たちのいのちのあり方が発見されていくことになるのかもしれない。八重洋一郎という「闇」を抱え込みながらいのちを問う鹿野氏の新著を読みながら、そうしたことを感じている。」
それから「図書新聞」3457号(7/25)の「2020年上半期読書アンケート」で鶴見太郎氏が本書を挙げて下さっている。
(池田康)
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2020年08月01日

遊音倶楽部 2nd grade その文学性

コロナウイルスの感染者がまた増えているそうな。もう「おしゃべり禁止」にするしかない。くだらない雑談も重要な打合せも直接面と向かってはダメ。会話は電話かメールか手紙でしてください。あるいは手話かテレパシーか伝言板か。沈黙は金、という格言をヴァージョンアップして、沈黙はダイヤモンド、にしよう。沈黙は純愛、でも、沈黙は仁義、でもよい。効果があるのなら。口に釦、舌に鎖。怪奇童話の世界だ。
余談はさておき。
絢香のカバーアルバム『遊音倶楽部 1st grade』はわが愛聴盤だが、このほど7年ぶりの第二弾『遊音倶楽部 2nd grade』が出た。聴いてみて全体的に感じるのは(この表現で射当てているか心許ないが)「文学性」への傾きである。それを説明するために、たとえばということで、中島みゆきの曲を挙げたい。『1st grade』には「空と君のあいだに」が入っていて、私としてはオリジナルの中島みゆきの歌唱よりも絢香のヴァージョンの方が好ましいように感じたのだが、それはなぜかというに、中島は芝居の感じで演じてうたっているのに対し絢香は真剣にその詞世界に没入してうたっているように聴こえるのだ。この曲はドラマ「家なき子」の主題歌だったから、フィクションですよという条件付けが中島の側にあるのだろう。絢香にはそういう意識はなさそうで、まさに「I mean it」というかんじでうたっている。そして今回の『2nd grade』には「糸」が収録されていて、やはりオリジナルと絢香ヴァージョンとは相当違っている。その違いが、今回の場合、文学性の方向への深彫りというふうに聴こえた。中島みゆきは歌詞を書く段階では言葉に寄り添って考え抜いて書いているだろうが、うたう段階では躊躇なく音楽的な美しさの高みを目指してうたい上げている。対するに絢香は朗誦風というか、音楽性への欲動を少し抑えて言葉をできるだけ裸形で表すように努力しながらうたっているように聴こえる。
「アポロ」や「フレンズ」でも同じようなことが言えそうだ。ポルノグラフィティの「アポロ」は、絢香がうたい始めたとき、「弱いな」と感じた。オリジナルの歌唱と比べ、楽曲の運動の速度も重量も抑えられている。この曲は難しいかと思いながら聴いていると、そのうちに説得され、聴き入ってしまっていた。そして何回か聴くうちにこのヴァージョンが「アポロ」だと思えてくる。純音楽的な強度を緩めながら、言葉をくっきりと立て、朗誦のゆとりの中に文学的なコメンタリーを刻み込むかのようだ。レベッカの「フレンズ」は、日本語でロック音楽は可能や否やの論争が激しかった時期を経て、自然に日本語ロック曲が作られ、うたわれ、流行歌としてロック愛好者のサークルを越えた大衆に浸透するようになる、そんな次の時期を代表するシンボリックな曲の一つであり、この曲をうたうとはその(ようやく自然に走れるようになった)ロックの疾走感とともにうたうことであるはずなのだが、絢香は走らせない。「脱ロック」を企てる。リズム感のやや乏しい弦楽中心の伴奏をバックに歩くモードでうたう。音楽の身体的運動性よりもむしろ言葉を彫り上げ刻みつけることに腐心するかのようだ。
ロックの身体運動重視に対してフォークシンガーは文学性が勝るとするも、絢香がフォークシンガーだというのは違うだろうが、言葉が言葉としてまざまざと立ち上がってくるうたいざまはフォークシンガーの理想型とも思える。島津亜矢もカバーアルバムを多く出しているが、この歌手は歌唱能力をポジティブに活かして音楽性の方向に思いきりアクセルを踏む仕方で独自色を作る。それに対してこのアルバムでの絢香は音楽性の方向へは適宜ブレーキをかけながら(グルーヴを殺して)、文学性とでも言うべき要素をそのゆとりの虚の部分に凝集させることによって自分の「自由研究」を営んでいるように見える。言葉と対話する歌唱。ポップソングを言語芸術として再誕生させようとする企図とも言えるだろうか。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:01| Comment(0) | 日記