2020年09月11日

佐藤聰明コンサートin東京「死にゆく若者への挽歌」

昨日、東京・南青山のMANDALAで開かれた、作曲家・佐藤聰明さんの作品を集めた上記コンサートを聴きにいった。都内へ赴くのは三ヶ月ぶり。こんな紛れもない都心に足を踏み入れるのは半年以上ぶりかもしれない。
第一部はピアノ曲二曲。ピアノ=佐藤慶子。最初の曲「星の門」は1982年の作品で、「この曲を書くまではわたしのピアノ曲といえば二台のピアノを多重録音したり、エレクトロニクスを用いた大音量の曲が多かったのですが、この曲を境に極端に音の少ない微弱な響きの音楽に一変しました。私にとって記念すべき曲です。」という作曲家自身の説明通り、音のまばらさに迷子になりそうな、幻のような浮遊感がある。
二曲目「藤田組曲」は映画「Foujita」(小栗康平監督)のために佐藤さんが作ったオーケストラ音楽をピアノ用に編曲し、組曲にしたもの。以前ある小さな会でこのピアノ版の一部を聴いたことがあり、そのときは鋭敏で透明な神経がすうっと伸びていって一本の樹木になるようなインスピレーションにみちた感覚があったが、今回は少し違っていて、冷静に用心深く音を置き重ねていく精密な創造活動というふうに聴こえたのは、組曲全体という絵巻を広げるためのデザイン的制御、すべてを予見する心配りが働いたからだろう。音を強く打ち出してその響きを十秒くらい聴いているといった箇所も印象的だった。重音の激しいフォルテシモの、パッションの爆発する瞬間があり、おそらく原曲のオーケストラ演奏では多数の楽器の音が豊かに重なって鬱蒼と鳴るところなのだろうが、ピアノだとその奥にひそむ作曲者のパッションの激した熱塊が前面に出てくる。オーケストラがコズミックなのに対して、ピアノは第一人称性が強いとも言えるだろうか。演奏する慶子さんは佐藤聰明氏の奥方だからさすがに曲に対する理解が深い。
第二部は歌曲集「死にゆく若者への挽歌」。バリトン=松平敬、ピアノ=中川俊郎。四曲からなる。一曲目はタイトル曲「死にゆく若者への挽歌」、これはWilfred Owenの詩で「どんな弔いの鐘があるというのか 家畜のように死にゆく者たちに」という詩句から始まる歌。もちろん英語でうたわれる。松平氏の質実剛健の歌声は、華麗に歌い上げるというよりも、歌声を石か煉瓦のように積み上げて堅牢な歌の建築をつくるような趣きがある。この曲は新しく作曲されたもので、あとの三曲はかつてニューヨークの音楽財団のために作られたものとのことだ。
二曲目は「凶器と少年」。やはりWilfred Owenの詩で、「さあ君にこの銃剣を触らせてやろう」から始まる。ピアノ伴奏のユニークな形のアルペジオ(分散和音)がとても魅力的で、きわめて美しい音の遊戯であり、いつまでも聴いていられる。しかし詩の内容は残酷で陰惨だ。
三曲目は「草」、これはCarl Sandburgの詩で、「高く積み上げよ アウステルリッツの死体と ワーテルローの死体を」で始まる。この曲のピアノは、佐藤さんの初期の曲を思わせるトレモロのような連続打鍵に終始し、その上に歌声が乗ると、やるせない、胸が塞がれるような感覚になる。
四曲目は「今日は死ぬのにとてもいい」、Nancy Woodの詩で、「今日は死ぬのにとてもいい」から始まる。この「Today is a very good day to die.」の部分が冒頭と中程と最後と三度にわたって繰り返され、素晴らしくよく響く。なだらかに上がっていくだけの単純な旋律なのに、なぜこんなにも感銘をもたらすのか、どうしたらこんなふうに訴求力強くうたえるのか。この夜の絶唱のピークをなしていた。
この歌曲集は戦争での若者の死をうたっているが、つい最近、S・キューブリックの「フルメタル・ジャケット」を見たばかりであり、またこのごろイタリアの詩人ウンガレッティが第一次大戦最中に戦場で書いた詩を読んでいたところだったので、相乗して余計に重く響いたように思われる。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 16:10| Comment(0) | 日記