2020年11月22日

ヤンソンスの最後の演奏会のこと

昨年の11月30日に76歳で逝去した指揮者のマリス・ヤンソンスの遺された演奏を今年になって意識的に聴いているのだが、夏にNHKFMで放送された昨年10月11日のミュンヘンでの演奏会がこの人の最後の公式の演奏とうっかり思い込んでいたのが、このたび「HIS LAST CONCERT」として、11月8日のニューヨーク・カーネギーホールでの、バイエルン放送交響楽団との演奏会のライブ録音CDが発売されたので、入手して聴く。曲目はメインが10月の会と同じブラームスの交響曲4番(その他にR. シュトラウスの歌劇「インテルメッツォ」交響的間奏曲)。全体に、とてもいい演奏と思う。とくに第四楽章の、フルートと弦楽の静かな掛け合い、そのあとの管楽器と弦楽の掛け合いなど、たしかな語り方をしている。音が次第に裏返っていくむずかしい部分も実に上手い。
演奏時間は、10月の公演が43分30秒、11月の公演が42分10秒。
10月のミュンヘン公演と、11月のニューヨーク公演を比べて聴くに、好奇心を刺戟し珍味を堪能できるという意味で面白いのは前者のように思われる。これは録音やミックスの具合にもよるのかもしれないが、舞台の違いも大きいのではないか。カーネギーホールといえば世界の晴れ舞台であるから、一流オケが萎縮することはないにしても、下手なことはできないから、どこかしゃっちょこばる。余計ともいえる遊びや冒険は控えてきれいに立派にまとめることになる。しかし地元ミュンヘンではその点くつろいで肩の力を抜くことができ、好きなように遊び好きなようにうたい、結果、随所で思いきった動きを見せて、その意外さ新鮮さで聴き手の耳をそばだてさせることになる。一種の研究演奏会の面もあるのかもしれない。工作が馬鹿丁寧で、とにかく細かく、切れのある速度感は出てこない。息づきが親密で、部分部分の濃さと妖しさが全体像をぼやけさせる。バランスを崩しかねない優艶ないびつさが気になる人もいるかもしれない。しどけない、という形容詞があるが、悪い意味に転ずることもあるものの、しどけなさの美ということもあり、これがより多く発揮されるのが地元の特権なのではないか。山はその所在地に行かなければ見ることも登ることもかなわないが、オーケストラも山と同じでその本当の歌声は本拠地とする場所に行って聴くものなのかもしれない。
以下、余談。
このヤンソンス&バイエルン放響のコンビで、この秋、ブルックナーの交響曲をあれこれと聴いていた。ベートーヴェンやブラームスは曲によって大きく趣向を変えるのだが、ブルックナーはそういう志向はあまり強く感じない。どれも「あのブルックナーの曲」というかんじで鳴る。一曲だけ選ぶとすればなんだろうか。9番か。7番から9番までの三曲を聴いておけばとりあえずブルックナーは語れる、と言えなくもない。ハイドン、モーツァルトからブルックナーぐらいまでは、晩年になるほど良くなるという傾向が共通してあるが、マーラー、シベリウス、ショスタコーヴィチあたりになると、必ずしもそうは言えず、簡単な話ではなくなる。これらの人達の生涯は、文明の大きな転換期にひっかかり、現代音楽の時代に重なっていて、現代音楽や現代芸術はいい意味でも悪い意味でも「子供の遊戯」という面が少なからずあることも関係しているかもしれない。
(池田康)
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2020年11月19日

佐藤聰明『幻花 ──音楽の生まれる場所』

幻花画像ss.jpg作曲家・佐藤聰明さんのエッセイ集『幻花 ──音楽の生まれる場所』がこのほど洪水企画の〈燈台ライブラリ〉の第4巻として刊行された。新書判・192ページ・本体1300円+税。
以前、雑誌「洪水」に連載された文章やその第10号の特集「佐藤聰明の一大音」のために書かれたエッセイを中心に、未発表の文章も含めて編纂され今回の本となった。世界的に著名なこの作曲家の最近十年ほどの思考の粋がここに凝縮されていると言ってもいいだろう。それとともに、この百年で書かれた最も厳しい音楽論にして芸術論ではないかとも思う。
巻頭に置かれた「幻花 ──音楽の生まれる場所」と最後の「花はなぜ美しい」はこの本の核をなす二篇であり、宗教や人類学の領域にも踏み込みながら音楽の本領を苛烈に探求する。これらを読めば作曲家佐藤聰明の現在の精神の在りかがおおよそ判るのではないか。「詩と呪文」は詩と音楽の関係について考え、「気配ということ」では能という日本独特の特異な演劇ジャンルの魅力の深みを語り、「映画、舞踊、そして音楽」は映画やダンスのために音楽を作曲した経験を回想しながら太古における舞踊と音楽のありようを幻視し、「歌うということ」は音楽創造の真の厳しさを理論でなく実地の位置から伝え、「青春 一」「青春 二」では若い頃の切なくやりきれない思い出を甦らせる。この一冊を読めば、道なき道を歩いてきた一人の音楽家の内側にどんな広大無辺で豊饒な世界が広がっているかがわかり目眩を覚えるだろう。ぜひご注文いただき、手に取ってお読みいただきたい。
(池田康)
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2020年11月13日

音楽の初心を思う

昨夜、「高橋アキ/ピアノリサイタル2020」を豊洲シビックセンターで聴いた。
前半はシューベルトの「4つの即興曲」(Op142, D935)。亡くなる前年、30歳の時に作曲したものだそうで、即興曲はOp90(D899)の方が有名だろうが、こちらもシューベルトらしい愛すべき素朴さ、無垢、あどけなさがよく感じられる。音楽の純真をここまで維持できるというのは驚異だ。なにげない構成がささやかな興を作るところも耳を素直に楽しませる。4曲目はリズムと音型の強い緊張、響きのちょっとしたエグミで聴く張り合いを与えられた。高橋アキがシューベルトを熱心に弾くことについては何故だろうと不思議に思うところもあるが、おそらく道でばったり出会って、なんとなく言葉を交わしているうちに友だちになったのだろうと想像する。シューベルトを通じて音楽の初心をおさらいできるとともに、「古き良き西洋音楽」に接続することは、現代音楽というおぼつかない大海を放浪してきたこのピアニストに優しい安堵をもたらすのだろう。
後半は、ピーター・ガーランド「発光(疫病の年からのメモ)」(世界初演)、八村義夫「インティメイト・ピーセス」、バニータ・マーカス「角砂糖」、ジョン・ケージ「スウィンギング」「果てしないタンゴ」、ヤニス・クセナキス「ピアノのための6つの歌」、という内容構成。聴いていて思うのは、アメリカの作曲家は音楽における原始的単純さを大切にして作曲する傾向があるようだということ。音楽の素心の発露というか。ガーランドにしてもマーカスにしても、シンプルな素材をシンプルに活かして組み立ててゆくという方法をとっており、楽想の表現欲は薄い。あたかも木に繁る多数の葉が陽に当たり風に揺れてちらちら輝くとか、流れる水が刻々に表情を変えるとか、そんな自然現象を眺めているような感じの音楽で、淡い清らかさがある。和音進行という音楽思考が行われていても、どこへ行きつくでもないあてどなさはいつしか環境音楽へと近づく方向とも思える。ここにはシューベルトの音楽の初心に通じるものがあるのかもしれない。ジョン・ケージ作品については、「敬愛していたエリック・サティの作品から「スポーツと気晴らし」の中の2曲を用いて、ケージ独自の不確定性の作品にしました。その指示に従って演奏家が音作りをします」という説明がプログラムに書かれているが、その楽想に表現欲は皆無!?で、音楽よりも感銘をおぼえたのは、ケージに親炙したこのピアニストがなんの構えるところもなく当たり前のように作品に入っていくその自然さであり、また曲が終わったあと拍手もなく次の曲に移っていくという、〈作品〉であることをとくに欲していない特異なジョン・ケージらしさだ。ジョン・ケージが其処にいたようだった。
こうしたアメリカ現代音楽の中に置かれて、八村作品は楽想の表現欲が濃厚で、その差異は顕著、妙なリズムをもって犇めき合い錯綜する不穏な音たちを的確に捌く演奏の手際は鮮やかだった。
クセナキスの曲は、若い頃の仕事ということだが、この作曲家としては意外な、メロディアスな曲で、やはり音楽の初心のみずみずしさが感じられた。
アンコールは武満徹「死んだ男の残したものは」とサティの「ジムノペディ」。
高橋アキさんのステージ上での話によれば、この日、テリー・ライリー氏が会場に聴きに来ていたとのこと。ピーター・ガーランドの「発光」の第二楽章がライリーにちなんでいるという機縁からだと思われるが、この大変な時期によくぞ、と思わないではいられない。
(池田康)

追記の注:
アンコールのサティの曲ですが、「ジムノペディ」ではなく「ジュトゥヴー」だそうです。お詫びして訂正いたします。
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