2021年04月14日

泉遥歌集『風の音 私の来た道』

風の音画像3.jpg泉遥さんの第一歌集『風の音 私の来た道』(洪水企画)が出た。四六判並製320ページ。税込2000円(本体1819円+税)。
泉さんは長野県飯田市に在住で、1938年生まれの83歳。戦争をくぐり、持病の心臓病を克服し、長年保育士の仕事をつづけてきた、その生涯を彩り、つぶさに語る歌たちは、真情に貫かれている。
帯の文は、泉さんも所属するぱにあ短歌会の代表秋元千惠子さんによる:
「戦時を生き抜いた厳しくも優しい父母との確かな家族の絆が心に沁みる歌集である。伊那谷、天竜川の風土に磨かれた詩情は、二十歳で斎藤史の強靭な精神と自在な作風に出会って独自の開花を遂げている。若くして病いの死線を越え、子を成してからも、三十八年間保育士を勤め、夫君を老老介護、看取りも終えた。人生の苦を全て前向きに歌い続ける八十代の快挙。この『風の音』は、国の礎となった後期高齢者の心の力にもなる。」
帯の裏側に載せられている代表歌五首は:

 雑沓を知らぬ大きな翼なり草原わたるコンドルの唄
 仄青き山脈の裳裾霧白くたなびく辺り天龍の川
 見るほどに愛し尊し書き置きの文字ふるえたる「ありがとう」は
 ふきを煮る香りただよい涙あふる「いいにおいだ」と言いし夫はも
 色も香も姿さえなき風なれど百歌を唄う千歌を歌う

三首目、四首目は、逝去した伴侶への挽歌。
上の五首には入ってないが、戦後生まれの読者にとっては、著者の子ども時代の、戦争時の歌が印象深いので、少し紹介する。

 ゲートルと言うをはじめて巻く父の手元をかの夏見つめておりき
 ゲートルを何故に巻くのかと問うわれに母は答えき「忙しいからよ」
 ゲートルを巻き自転車を漕ぎて行く父を見送りきエプロンの母と
 桑の皮を何にするのかと母に問う 軍服にするらしいと聞きておどろく
 薩摩芋ならいいのにと思えども芋はないのだ 戦地行きか
 庭先に正座で玉音放送を待ちき八月十五日 暑かりき
 農良着の男ら寄り合う中ほどよりふわふわと聞えし玉音放送
 地に伏せる男ら声を押しころし泣くを見つめし六歳の夏
 敗戦を告げられしあの日大人らの神妙なるが訝かしかりき
 駅前の柳の元を忘れない片足で立ちつくす傷病兵と募金箱

80年を越える波乱にみちた生涯をうたった短歌作品を一冊にまとめたもので、その重量感は相当なもの。斎藤史ゆずりの破調もところどころ現われてアクセントになっている。装丁も著者の手による。
(池田康)
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2021年04月09日

『幻花』の書評、佐藤聰明新作CD

今日発売の「週刊読書人」に佐藤聰明著『幻花──音楽の生まれる場所』(洪水企画)の書評が出た。評者は志賀信夫氏。ぜひご覧下さい。
さて、最近佐藤聰明さんの新しい作品集CD『水を掬えば月は手に在り/FOUJITA』(ALM RECORDS、3080円)が出たので、これも紹介しよう。このCDには二本の映画につけられた音楽作品が収録されている。サウンドトラックといえるものなのか、若干は仕立て直されているのかは不明。藤田嗣治の生涯を描いた映画「FOUJITA」(小栗康平、2015)についてはこのブログでも以前書いた(2015年11月21日)。もう一つの作品はごく最近のもののようで、私は未見だが、CD付属のブックレットに簡単な紹介文があるので引用する。
「陳傳興監督の中国映画「掬水月在手」(2020)は、伝説的な詩人であり中国文学者の葉嘉瑩(1924〜)の生涯を追ったドキュメンタリー・フィルム。葉嘉瑩は唐の詩人杜甫の研究者としても著名であり、陳傳興は佐藤にこの映画音楽に、杜甫の詩「秋興八首」にもとづく歌曲を依頼した。そして中国では滅んだ唐代の雅楽の楽器、笙と篳篥を用いるよう求めた。この映画は、中国のアカデミー賞といわれる第33回(2020年度)中国映画金鶏賞のドキュメンタリー部門で、最優秀賞を獲得した。」
音楽は「八首」を音楽化した8曲の歌曲からなり、ソプラノとバリトンにより歌われる。このCDでの演奏は(そのまま映画に使われた演奏ということになるか)工藤あかね(ソプラノ)、松平敬(バリトン)。伴奏は、篳篥・笙のほか、二十絃箏、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ。漢詩をこよなく愛するこの作曲家にとって、杜甫の詩を作曲する機会は天からの褒賞のような願ってもないものだったのではないか。音による杜甫の肖像が立つ思いがする。地方を流浪しているのか、詩で自らの薄幸を述べ立てている面も興味深い。「其四」は戦乱を叙していて目が留まるので和訳を引用してみよう。
「聞けば長安の戦況は囲碁の如しと。百年の世事は悲しみ絶えず。王侯の邸宅の主はみな新しく、文武の衣冠は昔時とは異なる。直北の国境は戦の鐘と太鼓が天地を震わし、西征の車馬からは急を告げる伝令が馳せ帰る。魚竜は底に潜んで秋江は冷たく流れ、故国への常なる思いが深まる。」
どの曲も悠然とした旋律の中に悲哀を染み通らせている。二人の歌い手はそれをしんみりと、あるは堂々と、迷いなく確信をもってうたう。中国語でうたわれるのだが、演奏者側の事前の準備が周到で全く問題がなかったようだ。玄宗皇帝と往時の長安をしのんだ「其六」は伴奏なしのソプラノ独唱で、ことに印象深い。工藤あかねさんはこの歌を持ち歌にしてしまってすべてのステージでアンコールでうたってほしいものだ。さらに詩の想念が広がる「其七」「其八」(ともにバリトン曲)も切迫感と重みがある。このお二人の歌手はご夫婦とのことで、どちらの方とも私はかつて言葉を交わしたことがあるのだが、あちらは覚えておられないだろう。
CDの後半に入っている「FOUJITA」の音楽だが、映画を見ながら聴いたときよりもちゃんと聴けた感じがあり、こうして聴いてみると映画音楽とは思えない独立の存在感がある(「掬水月在手」についてもそれは言える)。ゆるやかな勾配の上昇階段と下降階段が交互に不規則に続く、海山の気の動きのようなゆったりとしたリズムがあって、そこから外れる異様な和音奏やハープの細かな動きが時おりなにかの通信、碑文、魂魄の息のような衝撃を作る。我々の今日の計算ずくの日常生活にきっかり嵌るような音楽ではなく、たとえば住所表記もできないような山奥に茶室がありそこで過ごす時間があれば相応しいかもしれない響きと調べだ。演奏は、杉山洋一(指揮)、仙台フィル、篠崎史子(ハープ)。
(池田康)
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2021年04月01日

少年感覚なるもの

先日、NHKEテレで吉増剛造+佐野元春の対談の番組があり、興味深く見ていたが(佐野の詩文学に対する造詣の深さは並大抵ではない)、虚心の視覚に印象深く残ったのは佐野元春の喜びに満ちた若々しい面貌で、詩とビートを熱く語るその情熱とともに、永遠の少年性のようなものを感じさせた。
映画「アメリ」(2001年、ジャン=ピエール・ジュネ)を最近見たが、これも少年感覚にあふれるものだった。世界を大胆に横断し悪戯心をもって切り刻む歩行ぶりは、稲垣足穂の「一千一秒物語」を思わせる硬質なきらめきを発して少年感覚そのものなのだが、それなのにあえて女の子を主人公にするという捻れがこの作品の魅力の特異さを生んでいるように思われた。
春に桜をめでるのは大人の成熟した悲哀の嗜好であって、少年の琴線は、花を散らして遊ぶ気まぐれな風、床を裸足で歩くひんやりとした感覚、高い建築の屋上にのぼり空を触ろうとする透明な欲望、紙飛行機の実利ゼロのきれいな宙返り、たまさか路上に生じた水たまりの水鏡の風情、……そんなものに反応する。世間の流れ、生活の成り立ちに無頓着に発動する幼い乱暴な無垢の美意識。それはある種の詩の原基ともなりうる。
清浄な敬虔さで知られる八木重吉の詩も少年感覚を主要成分として含んでいるように思われる。

 空よ
 そこのとこへ心をあづかつてくれないか
 しばらくそのみどりのなかへやすませてくれないか

「秋の空」より。せっかくだから春の詩を引用しようと思ったのだが、秋の詩になってしまった。
(池田康)
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