2021年04月01日

少年感覚なるもの

先日、NHKEテレで吉増剛造+佐野元春の対談の番組があり、興味深く見ていたが(佐野の詩文学に対する造詣の深さは並大抵ではない)、虚心の視覚に印象深く残ったのは佐野元春の喜びに満ちた若々しい面貌で、詩とビートを熱く語るその情熱とともに、永遠の少年性のようなものを感じさせた。
映画「アメリ」(2001年、ジャン=ピエール・ジュネ)を最近見たが、これも少年感覚にあふれるものだった。世界を大胆に横断し悪戯心をもって切り刻む歩行ぶりは、稲垣足穂の「一千一秒物語」を思わせる硬質なきらめきを発して少年感覚そのものなのだが、それなのにあえて女の子を主人公にするという捻れがこの作品の魅力の特異さを生んでいるように思われた。
春に桜をめでるのは大人の成熟した悲哀の嗜好であって、少年の琴線は、花を散らして遊ぶ気まぐれな風、床を裸足で歩くひんやりとした感覚、高い建築の屋上にのぼり空を触ろうとする透明な欲望、紙飛行機の実利ゼロのきれいな宙返り、たまさか路上に生じた水たまりの水鏡の風情、……そんなものに反応する。世間の流れ、生活の成り立ちに無頓着に発動する幼い乱暴な無垢の美意識。それはある種の詩の原基ともなりうる。
清浄な敬虔さで知られる八木重吉の詩も少年感覚を主要成分として含んでいるように思われる。

 空よ
 そこのとこへ心をあづかつてくれないか
 しばらくそのみどりのなかへやすませてくれないか

「秋の空」より。せっかくだから春の詩を引用しようと思ったのだが、秋の詩になってしまった。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:33| Comment(0) | 日記