歌人の蝦名泰洋さんが7月26日逝去されたとのこと、兄妹のように親しかった野樹かずみさんから知らされた。昨年後半から病気に苦しんでおられたのは知っていたが、これは早すぎる、と恨み言をいいたい気分だ。
「洪水」の時代には毎号批評文を書いていただき、とてもお世話になった。鏤骨の走り書き、とでもいうべき独特の文章で、携帯電話を使って苦心惨憺書いておられたようだ。時々一緒に食事をして近況を聞いたり、それなりの友達付き合いも許してくれたのだが、一番の思い出は競馬だろうか。彼はそうとう好きだったようで、G1レースの感想などメールで交換したりもしていたが、一度だけ一緒に馬券を買ったことがある。2015年5月3日、この日は天皇賞があり、私はすみだトリフォニーホールでのコンサートを聴きに行く予定があったので、開演前の時間に錦糸町駅の近くで落ち合って、馬券売場(ウイング)で購入したのだ。私はゴールドシップの単勝を買って当たり、蝦名さんはキズナに賭けて負けていたことを思い出す。主に三連単を買うバクチの人で、当たることは少なかったのではなかったか。
今年1月に出した「みらいらん」7号に巻頭の短歌作品を依頼していたのだが、結局、病気で苦しくて書けないという返事だった。すでにそうとう進行していたのだろう。したがって小誌に最後に寄稿していただいたのが、5号の小特集・童心の王国のためのエッセイ「僧ベルナール ─季語の誕生」で、以下にそれを部分的に引用紹介する。
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古池や蛙飛び込む水の音
松尾芭蕉の有名な俳句ですが、あまりいい句ではないのにどうして有名なのかなとずっと思っていました。
同じように考える人が少なくないらしく、いろいろな人がいろいろの解釈をしてきたようです。何か深い意味があり何か謎めいた意図が想像され、それがわかれば句の魅力が理解できるというような何かを探して。
どんな池なのか、ほかに人はいるのか、かえるは一匹なのか二匹なのかもっとなのか。いなかったのか。かえるは一度飛び込んだのか。飛び込まなかったのか。最近の流行は、飛び込まなかったという解釈らしい。
〈〈中略〉〉
ならばどう読めばいいのでしょう。
この句に息づいているものはなんなのか、と思うのです。芭蕉がなにを意図したのか。どんなものを大事にして書いたのか。ふだんから俳諧に求めていたもの、ひるがえって俳諧が詩人に求めているものはなにか。そのように考えますとフォーカスは春の季語「蛙」に合焦します。
〈〈中略〉〉
芭蕉は、俳諧は三尺の童にさせてみたらいいと述べています。おおまかに言って素直な五感でものを感じるのがいいということでしょう。芭蕉の想いが蛙に凝縮したとき三尺の童が発動した。ベルナールのようにわたわた走り回って叫びたいんだけれども、そこは黒船来航前の日本人のこと、抑えたのです。しかももの言えば唇が寒い。この句はわびさびに通じる地味な表現になっていますが、詩人の心は逆にうれしく晴れがましさが勝っていたと想像されます。それを季語に託してみようという詩人の動作に見えます。
出光美術館に「古池や」の句が書かれた懐紙があります。ところがその懐紙にはもう一句
永き日も囀り足らぬ雲雀哉
という作品も並べて書かれています。古池の句よりわかりやすく直接的に春の喜びが表現されており、二句を並べたところに芭蕉の意図が見えるようです。どちらも十中八九フィクションでしょう。しかし、とうとう春が到来したといううれしさは写実的に表現されていると感じます。死生観は考えなくてもいいんじゃないかな。
芭蕉たちは、季語が大切なんだと想いつづけたのだろうと思います。季語の背後には巨大な季節が控えている、そのことを忘れないでいようと想いつづけたのではないでしょうか。俳諧からの詩人への期待もまたそうだと私は考えます。
季語は歳時記に載っているだけでは季語として十分だと言えません。季語はある言葉が俳句作品の中で季語として生まれ変わったときにはじめて季語と呼ばれるべきです。季語の誕生日と該当の俳句の誕生日は、一致します。
あまり良い句ではない、いいではないですか、蛙という季語が生まれ芭蕉の童心に春が来たのですから。
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5号のこの小特集を編集していた当時は、この原稿をもらって、何が言いたい文章なのだろうと首をひねった覚えがあるが、今読み返すと、少しわかる気もする。
詩歌人の玄人式の良し悪し判定の批評眼とは違う種類の、作品の重量(生きる風景の中の山となり川となるような重さ)をなさしめる軸があるのであり、その軸の一方の端は童子の感性が輝き、他方の端は言葉の営みが織り上げる人間の歴史=文化=季の世界の生成に向うのもであり、「芭蕉の童心に春が来た」とはある刹那この軸を握ることを得た詩人の「真実」なのだろう。この文章を書いた蝦名さんは晴れ晴れとしているように感じられる。
(池田康)
2021年08月23日
訃報・蝦名泰洋さん
posted by 洪水HQ at 16:53| Comment(0)
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