2021年10月30日

「詩素」11号

詩素11002.jpg「詩素」11号が完成した。今回の参加者は、海埜今日子、大仗真昼、大橋英人、小島きみ子、酒見直子、沢聖子、菅井敏文、大家正志、高田真、たなかあきみつ、七まどか、南原充士、新延拳、二条千河、野田新五、八覚正大、平井達也、平野晴子、南川優子、八重洋一郎、山中真知子、山本萠、吉田義昭のみなさんと小生。
巻頭トップは、酒見直子さんの「種」。これは、雑誌完成後の酒見さんからのメールでの裏話によれば、菊田守さんとの思い出をベースに書いたとのことだ。
そのほかに、野田新五・新延拳の両氏の作品が巻頭に入っている。
〈まれびと〉コーナーは山田隆昭さんをお招きした。
また、南原充士さんの企画で、詩の推敲についての、谷川俊太郎さんへの書簡インタビューを掲載している。
表紙は、11号から第二ラウンドということで色調をあらため、外国詩の詩句を載せることにして、今号はイエイツの「He wishes for the Cloths of Heaven」より引用している。
まだ残部ありますのでご注文下さい(500円)。
(池田康)
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2021年10月23日

この秋のはまりごと

この秋は、紀州有田産のみかんを試している。たまたまこの産地のSサイズのみかんを買ったら、よかったので。外皮をむけば、あとは薄皮ごと食べられる。薄くて脆い、あるかなきかの薄皮なので、これをいちいちむいて食べる方が難しい。というわけで、この産地のMサイズのもの、Lサイズのものと、順に試しているが、大きくなるにつれ薄皮も存在感が出てくるようで、上記の体験をより理想的な形で期待するなら小さめのものを選ぶのがよさそうだ。みかん三昧の季節がくる。
また、最近なぜか、米国のTVドラマ「ツイン・ピークス」(1990年。デイヴィッド・リンチが監督している。タイトルは日本語でいえば二上山のような意味か)を見返し始めている。なぜか……特別なきっかけがあったということでもないのだが、前世紀の末頃に見ていて、背筋が凍るようなシーンに出くわして、怖くなって途中で見るのを止めたようにおぼろげに覚えていて、それがどういうことだったか、「みらいらん」次号で恐怖を特集することもあり、確かめてみようという考えなのかもしれない。まだエピソード3まで見ただけだが(見たことのない人のために付言すれば、エピソード1の前に一時間半のパイロット版というものがあり、これから見ないと話がわからない)、登場人物がいずれも生彩があって魅了される。影のつけ方が巧み。余談になるが、映画「ノマドランド」で使われていたシェークスピアのソネット(あなたを夏の日にたとえようか…)がこのドラマでも出てきて(町の大立者が悪所で口ずさむ)、おやおやと思った。この詩は英語圏では誰でも知っている有名なものなのだろう。
もう一つ、夏から秋にかけて秋元千惠子作品集『生かされて 風花』の制作にかかりきりになっていて、それが終わった後も、蝦名泰洋・野樹かずみ両吟歌集『クアドラプル プレイ』、福島泰樹歌集『天河庭園の夜』、加藤治郎著『岡井隆と現代短歌』と、短歌に向かい合う時間が続いている。これらの本のことは「みらいらん」次号に書くと思うが、最後の『岡井隆と現代短歌』で歌人独特の言語感覚を感じた箇所があったので紹介したい。岡井隆の歌、

 ホメロスを読まばや春の潮騒のとどろく窓ゆ光あつめて

について、「この歌の核心は、ホメロスでも春の潮騒でもない。「ばや」という助詞の明るい音韻とほのかな願望が一首の要なのである」と解説している。専門家はそんなところに目がいくのかと驚いた。一般読者としては、ホメロスぐらい読もうじゃないか視野の狭い諸君よ見えない監獄の中のわれわれよ、と教養人岡井隆がやさしく慫慂している面は確かにあるように思うわけだが。もう一首、

 蒼穹は蜜かたむけてゐたりけり時こそはわがしづけき伴侶

「蒼穹」には「おほぞら」とルビがある。この歌については(宮沢賢治の詩との関連が指摘されたあとで)「この豊かで複雑な「蒼穹は蜜かたむけて」という像は「ゐたりけり」という強烈な韻律に引き絞られる。「ゐたりけり」こそ一首の要であり、短歌の存在証明なのである。風景は鋭くえぐり取られ、下句に手渡される。」と語られる。イメージより措辞に注目するところ、短歌の専門家は違うなと痛感するのだ。
(池田康)
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2021年10月13日

秋元千惠子作品集『生かされて 風花』

生かされて風花帯付きs.jpgこの一夏かけて制作していた秋元千惠子作品集『生かされて 風花』が完成した。発行=現代出版社、発売=洪水企画。A5判上製、776ページ(!)、発行日10月5日、定価税込8800円。
歌人・秋元千惠子の主要な文業の集大成であり、既刊歌集を網羅した全歌集のほか、主要評論、小説作品を収め、この歌人の世界を一冊で展望する。
帯には、
「時代の傾斜を幻視する、悲憤の祈りの行である歌と散文。
半世紀を超える短歌・評論・エッセイ・小説の多彩な文業がここに集結して一冊となり、鏡のように互いに照らし合うことで、自分の道を生き切る文学者の全貌が示される。文明の病いと戦う孤高の母性、昭和の生き証人の自負と責任は、言葉の重さ、調べの高貴さ、想の深さとなって短歌に凝縮され、散文においては切なる生命論として雄弁に語られる。比類なく真率なエレジーがここにはある。」
とある。
全歌集は歌集『吾が揺れやまず』、『蛹の香』、『王者の晩餐』、『冬の蛍』、『鎮まり難き』に加えて2016年以降の歌集未収録作品も収録する。評論集3冊『秋元千惠子集 自解150歌選』、『含羞の人 歌人・上田三四二の生涯』、『地母神の鬱 詩歌の環境』もすべて完全収録。そして若い頃に書いた短篇小説の中から5篇「霧の中」「ぶらんこ」「白い蛾」「すず虫」「花影」を収める。ほかに、上田三四二論の拾遺、山崎方代を論じた諸文章、エッセイ、書評の類で構成される。

昨年末から今年にかけての秋元貞雄作品集『落日の罪』の編集も大変だったが、今回の本は膨大なページ数のこともあり更に二倍も三倍も難儀だった。制作期間がおよそ3ヵ月半しかなく、その中で歌集5冊、評論集3冊、短篇小説5篇、その他のたくさんの既発表文章をまとめ上げる編集作業は、時間的余裕がまったくなく、ほかの用事は棚に上げてこれに全力集中するよりなかった。なんとか予定日付近に完成に至ることができて、胸をなでおろしている。
全歌集を編集するのは神聖さを帯びた特別な経験で、この本の中でも一番重要な部分であり、間違いがないか、何度も校正したが、どうだろうか、誤字などが残っていないことを祈るのみ。
巻末には、秋元千惠子年譜と、酒井佐忠氏の批評文「環境詠から宇宙的文明論へ」(「ぱにあ」104号掲載のもの)、そして小生が書いた解説「終末を幻視する歌」を収めてある。その解説の最後の部分を紹介する。(すこし前のところで「私はこの歌人の最終到達点を終末思想の歌に見出したいと考える。もっとも真正な終末観を示す歌人、それが秋元千惠子だと言ってみたい。」と書いていて、そのことを念頭においてお読みください)

「甲村下黒澤の沢の蟹 われら人類ほろぶとも生きよ

歌集『王者の晩餐』所収。これは終末歌の絶唱だろう。故郷を蟹に託す。この「愛」をどう形容したらよいのだろう。終末歌が望郷歌でもある未踏の境地だ。

まぼろしか 水清からぬ川の辺の茅の枯葉に冬蛍ひとつ

歌集『冬の蛍』のタイトル作。これは「まぼろし」である。冬に蛍はあり得ないのであってみれば、あえて反語的に描かれた幻想画。『秋元千惠子集 自解150歌選』にはこの歌の項に「終末を思わせる冬枯れの川、そこに光る一匹の蛍に、私はまだ望みを託している」と記されているが、望みというよりも、蛍の姿を借りた〈生命〉の霊が大地の死に対して読経しているかのような印象を受ける。世界像でもあり自画像でもある。初句の疑問形の微妙さが歌全体の虚実を揺動させる。秋元千惠子は初句で鋭い切れを作るような歌をときどき書くが、これはその中でも最高作だろう。

老い扨ても冬こそ相応うこのわれに地磁気狂えと烈火もたらす

これは歌集未収録の、二〇一九年の作。予言者の裂帛の気が感じられる。秋元千惠子の終末観をうたう歌は、レトリックの一環として、あるいは珍しい味付けとして、あるいはおどろおどろしい影をつけたいがために、終末的要素を用いるといったような表層的なものではなく、真正の終末図・終末歌たり得ている。それはこの歌人が自分のやむにやまれぬ文明論的思考を愚直にひたに貫いてきて、同時に「故郷」への愛を普遍的なまでに育んできた、その結果だと思われるのだ。峻厳な終末を詠む権能を獲た希有な歌人である。」

そして著者・秋元さんのあとがき(─蘇れ詩魂─)から、最後の部分を。

「夫の生れた満州でも、私の山梨でも、風花は儚いが懐かしい。希有にして出会った二人の先祖をおろそかにしてはならない。感謝を込めて両家の家紋、秋元の「揚羽蝶」、輿石の「左三つ巴」を、この秋元千惠子作品集『生かされて 風花』の表紙の装丁に戴いた。秋元貞雄作品集『落日の罪』と「比翼作品集」にした。ふたりの、ささやかな文学の営為も、父母、兄弟、友人の声援あってのことであり、感謝の念はつきない。
余談になるが、胃ガンの手術直後「いくつになってもお母さんは恋しいものですね」と看護師さんに言ったとか…記憶にない。

わが洞に羽音とよもすは始祖鳥か声ありて詩魂の蘇りたり   千惠子」


大冊で値段も張るが、是非入手してゆっくり繙いていただきたい。
(池田康)
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2021年10月02日

『ビザンチュームへの旅』の新聞記事

新倉俊一詩集『ビザンチュームへの旅』が9月19日の神奈川新聞にて紹介されました。「西脇順三郎に師事しただけに、本書の題材も幅広い」「全編に海の香りが漂う」「好奇心や遊び心がさりげなく表出している」など。巻末に収められたエッセイ「詩人の曼荼羅」への言及も嬉しい。ぜひご覧下さい。
また、城戸朱理氏も共同通信の記事「詩はいま」にて紹介して下さったようで、幾つかの新聞に掲載されたはずだ。城戸さんに見せて頂いたテキストによれば、二十世紀のアメリカ詩の源流とされるエズラ・パウンドを日本に紹介してきた業績から追悼を始め、本詩集所収の「ニケ」を引用した上で、「新型コロナウイルス禍についての言及も目につくのだが、最後にたどり着くのは「ニケ」に見られるような絶対的な自由であったことに注意しよう。それこそ詩の力にほかならない。」と結ばれる。
広く読まれることを期待したい。
(池田康)
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