2021年12月28日

のんびりしたはなし

「みらいらん」9号が完成した。この号については新年になってから改めて紹介するつもりだが、ともかくもゴールまで辿り着けてほっとしている。半年に一冊のゆったりとしたペースだが編集終盤の11月下旬から12月上旬にかけては非常に気ぜわしかった。その反動で今はやたらのんびりした気分になっている。雑誌の発送作業も基本のんびりやるのがコツで、必要以上に急がなければストレスにならず疲れない。
さて、二週間以上前に注文したCDがまだ届かないのだが……、ひょっとして海外から取り寄せている? インターネットでどんなことも瞬時に解決するこの時代でもモノのやりとりとなるとときにえらく時間がかかる。二週間を経ても届かないというのは全くのんびりした話で、このまま永久に届かないままなのではないかと疑い始めている。
小田和正が主催する祝祭コンサート「クリスマスの約束」(テレビで24日深夜に放映)を録画して2度視聴した。一年かけて準備するゆったりとしたリズムの企画なのだが、よく考えられ練られていて中身が濃く、桂冠シェフによるコース料理のよう。こうした音楽番組を2度通して見るというのは珍しいことで、師走は大型の音楽番組がいくつもあるが、かように上等なコース料理になっている番組はほかにないだろう。奏される音楽に慈しみがこもっている。ことに終盤の数曲に心打たれた。
夏に刊行した宇佐美孝二著『黒部節子という詩人』(シリーズ詩人の遠征11巻)も、著者の宇佐美さんが2003年から同人誌で発表し始めた論考をまとめたもので、18年間の積み重ねという長い時間があってはじめて生まれうるものだ。予想外の反響があり、在庫切れとなってご迷惑をおかけしたが、年明けには増刷ができてくるはずなので、ぜひご注文いただきたい。なお、昨日の公明新聞紙上で、小池昌代さんが本書を「2021年 私の3冊」に選んで下さった。こちらもぜひご覧下さい。
(池田康)
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2021年12月17日

虚の筏28号

虚の筏28号が完成しました。
下記のリンクよりご覧下さい。


今回の参加は、平井達也、神泉薫、久野雅幸、たなかあきみつ、小島きみ子、生野毅の皆さんと、小生です。
(池田康)


追記
下記の一篇は今号の画像を見ていて浮かんできた詩想のスケッチです。

傘の下には静かさがある
余計なことをしゃべらない安らぎ
なにも考えなくていい放下がある
天から降ってくるものを受け止め
そしてやさしく落とす──
それは宗教行為だろうか
傘の下
ひらかれつつ閉じる
小さな空間の秩序
の歩行
と静止
傘が美しいのは
柄を握る手に
天のかたことを伝えるから
地上の命の慄えを
見えない天にうったえるから

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2021年12月10日

英語のお勉強?

ラジオを聞いているとたまに英会話教室のCMが流れる。そういえば自分も若いころ一時期英会話教室に通ったことがあったなあと思い出す。中学・高校で勉強する英語と、英会話教室で出会う英語とは不思議に手触り肌触りが違ったものだ。あの微妙だが決定的な違いはなんだったのか。
最近、メトロポリタン歌劇場のライブビューイング(オペラ上演を収録した映像作品)をよく視聴するのだが、オペラ作品そのものの華のほかに、幕間で歌手や演出家、指揮者、その他のスタッフがインタビューを受けて話すのも興味深く、もちろん英語でのやりとりで、文化芸術の創造についてどのような表現で説明し、賞讃し、批評するのか、具体的な言い回しを実地に学ぶこともでき、生彩があって楽しい。字幕が逐語訳にはなっていない、そのズレもなるほどと思う。
そういえば今のNHKの朝ドラは、ラジオ英語講座の物語だそうで(まったく見ていないが…)、話の作り方によっては深刻なテーマとその掘り下げになりそうな気もする。それでわれわれの英語に対する苦手意識がいくらかでも克服できるとは思えないけれど。
文学ではまだまだ母国語が主流だが、流行歌では(こんなに英語が苦手な国なのに)英語表現を取り入れることが非常に多く、一時期さかんに話題になった(今でももちろん有効だろう)ポストコロニアルとかクレオール文学の問題、その苦楽を、われわれも、1/3か1/4か、あるいは1/10か1/100かわからないが、実は知っている、くぐっているのだと言えなくもない。あわれな劣等生として。
蛇足のおまけに。近所のマクドナルドハンバーガーがいま建替え中で、今日工事現場の傍らを通ったら、黄色い巨大な「M」の看板を巨大なクレーンで持ち上げようとしていた。クレーンの腕がまっすぐ高く伸び、青空にそびえていた。
(池田康)
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2021年12月01日

四人組とその仲間たち2021コンサート

昨夜、上野の東京文化会館小ホールで「四人組とその仲間たち2021」コンサートを聴いた。全音楽譜主催。
1曲目、金子仁美「H2O ―3Dモデルによる音楽VIII―」(vn.甲斐史子、pf.大須賀かおり)。水の分子構造を素材として作曲したとのこと。両楽器が高音でとても細かく動く部分、そして低音で大きな音塊を切り出す部分、どちらも音楽にするのが難しそう。演奏者はおぼつかなさを覚えながら演奏に臨んでいたのではと推察する。しかし力を込めてうたうような部分も終盤にあり、そこは熱いものが押し寄せてきた。
2曲目、西村朗「極光」(トランペット 菊本和昭、pf.新居由佳梨)。オーロラ(太陽風の残光)をめぐる幻想曲。こちらは楽譜通りにちゃんと弾けば間違いなく音楽になる曲。ただ、ピアノはともかく、トランペットは名手が必要とされそうだ(今回の演奏は申し分ない)。名手であればあるほど曲は輝くだろう。トランペットが非常に低い音域に行ったときホルンのような音色をひびかせるのは、普段なかなか目にできない相貌で、新鮮だった。
さて、この二曲を比べるに、金子氏が、この構築で音楽は離陸するだろうかと実験的に挑戦する学究派なのに対し、西村氏は音楽は飛んでなんぼだと確信犯的に佳曲を書いているようにみえる。これは西村氏が創造の可能性を見切れる円熟に達しているということに加え、全音楽譜主催というコンサートの性格上、演奏家や聴衆に喜ばれ何回も繰り返し演奏される曲が生まれることが望ましいという事情によるところもあるに違いない。トランペッターにとっては嬉しい一曲だろう。
3曲目、鷹羽弘晃「ガンマ・コレクション」(マンドリン 望月豪、ギター 山田岳)。デジタル映像の明暗補正技術から着想したとのこと。ミニマル音楽風の、比較的単純な音型で、さほどの強弱の変化もなく、一定のテンポ&リズムを刻み続ける曲。作品を成立させるためには、厳密に正確な進行が必要で、ギターとマンドリンという撥弦楽器では乱れが生じるとすぐにわかり相当大変だろう。六人とか十人とかのグループでガムランのように勢いをつけてのりのりの忘我状態で演奏するのがよいようにも思うが、それでは作曲者の意図とずれることになるのかもしれない。私にとっては懐かしい楽器たちで、その分楽しく聴けた。
4曲目、新実徳英「ソムニウム」(クラリネット 板倉康明、pf.中川俊郎)。夢(somnium)の狂気、不条理をイメージした曲。クラリネットが意識主体の有頂天、沈潜、彷徨、逡巡 etc.を表すとしたら、ピアノは夢に出てくるさまざまな奇怪な風景、シーンを表すと言えるだろうか? 両者の間のぎこちない対話のような部分も出てきて、そこが狂気や不条理の棲息するエリアをなすのかもしれない。悪夢か、いい夢かというと、そんなに悪くはなさそうだ。詩であれば、今の時代の集合無意識ならぬ集合夢的なものを作るとしたら、不気味で陰鬱な作品が出てきそうだが、音楽は強く逞しい、ということなのかもしれない、驚かされもするが気持ちよく聴ける夢だった。
5曲目、池辺晋一郎「バイヴァランスXVI」(ファゴット 長哲也・福士マリ子)。同じ楽器のデュオのシリーズ第16番。異なる性格の5章から成るので概括しにくいが、4・5章の旋律が出てくる場面も楽しく聴けるが一番興味深く思ったのは1章だった。ファゴットは曲面をつくる。一音一音区切って弾いていた2章ではそんなことはなかったが、1章では区切らず連続して違う音を行き来していたのでファゴットの音が曲線、曲面を生み出していた。ピアノでドレミレドレミレ……と弾けば階段状の形になるが同じことをファゴットでやると聴覚上のかんじでは段差のまったくない滑らかな曲線、曲面になるようなのだ。二本のファゴットが生み出す音の曲面空間の妖しくはてしない変幻変容を化かされたように聴き入っていた。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 13:13| Comment(0) | 日記