忘れないうちに最初に書いておくが、宇佐美孝二著『黒部節子という詩人』の第2刷ができ上がってきたので、興味のある方はぜひご注文いただきたい。
さて新年になって詩歌関係では、吉増剛造著『詩とは何か』(講談社現代新書)、三木卓著『若き詩人たちの青春』(河出文庫)の2冊をそれぞれ面白く読んだ。前者は2016年の『我が詩的自伝』の続編という位置づけで、大事に思う詩人たちを紹介しながら、詩という営為の本質を考える試み。ディラン・トマス、エミリー・ディキンソン、田村隆一、吉本隆明、吉岡実、フランツ・カフカ、パウル・ツェラン、石牟礼道子、黒田喜夫など、作品を挙げてかなり踏み込んで論じており、吉岡実の芸術至上主義の作品は嫌いとか、西脇順三郎はエロスの面で弱いとか、はっきりものを言っているところも実に興味深い。本の最後の部分に入っている、林浩平氏の質問による39のQ&A「実際に「詩」を書くときのこと」も、この神秘的な詩人の詩作の現場を開陳するとともに、本の前半で述べられた事柄をさらに深く追求していて重みがある。林さんのブログには次のように舞台裏が記されている。「今回も僕は制作のお手伝いをしました。全篇が話し言葉での語りによる展開、講談社の最上階のフロアの座談会用のスペースに座って担当編集者の山崎比呂志さんともども吉増さんのお話しを聴いた次第です。一回はだいたい二時間ほど、さあもう何度集まったことでしょうか。(中略)いったん体内化された言葉でもって、現代詩をめぐる言語哲学的な問題を具体的に語ったこの本、これは大きな収穫だと思います。」
『若き詩人たちの青春』の方は、昨年末から読んでいたのが最近読み終えたという形だが、著者が詩を志した若い頃に出会った詩人たちの姿が生き生きと活写されていて楽しく読めた。長谷川龍生、黒田喜夫、鮎川信夫、関根弘、堀川正美、谷川雁、木原孝一、清岡卓行、岩田宏……。戦後を代表する詩人たちであり、これを読めば戦後詩史のなまの風景を目の当たりにするような気になる。解説で小池昌代氏も「文学史を繙けば、当時のありようは、知識や情報として知ることはできる。だがその事実を生きることはかなわない。しかし本書は、あの時代の熱気、詩人たちの表情を、作品とともに伝えてくれる。読者はここに飛び込み、経験してみる他はない。/詩人たちは、人間臭さを存分に発揮しながら、詩を求めることにおいては極めて純粋だ。個を超えて、詩の未来を請け負って立とうという意気込みで、全身から湯気を立てている。」と書いている。当時の生活のありようがどうだったかも切々と伝わってくる。もともと単行本として2002年に出た本。
さてそれから、イギリスの作曲家、ヴォーン・ウィリアムズ(1872-1958)の交響曲全集のCDBox(通常の新譜一枚分ほどの値段!)を入手して少しずつ聴いている。去年の暮れに昔MDに録音した交響曲5番と6番を聴き返して、おや?と興をそそられてのこと。この作曲家の存在をはじめて知ったのはたしか篠田一士の音楽エッセイを読んだときだったように覚えている。その本をとり出して確かめてみると、平穏無為と言われても仕方ないところもあるが、その交響曲については、「はっきり言えば、全九曲のシンフォニーをじっくり聴きこむことが、イギリス音楽の魅力を知るうえでも一番の早道ではないかと思う。つまり、エルガーから始まる近代イギリス音楽を支配する、もっとも根源的なものはシンフォニーによる音楽思考で……(後略)」とも書いている(「平穏無為の音楽のために」「いささか途方に暮れるけれど……」=『音楽に誘われて』所収)。私としては1番はパスしたい気もするが、2番以降はゆっくり繰り返し聴けそう。ヴォーン・ウィリアムズには活発に劇的に動く曲もあるのだが、目的地なき逍遥、音楽的瞑想ともいうべき、穏やかで優しげな曲の方がいかにもこの作曲家を聴いているという感じになるのは妙なものだ。小品では、「タリスの主題による幻想曲」「揚雲雀」など、聴き甲斐がある。付属の解説冊子によると、彼はモーリス・ラヴェルに師事したが、ラヴェルは彼のことを「私(Ravel)の音楽を書かなかった唯一の生徒」と称したそうだ。
最後に、いただいたばかりのお知らせ。南原充士さんが新しい詩集『滅相』をアマゾンのkindle版で刊行したとのこと(343円)。下記よりご確認下さい。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B09QMC28Q7/ref=dbs_a_def_rwt_bibl_vppi_i4
(池田康)
2022年01月20日
大寒のおぼえがき
posted by 洪水HQ at 16:30| Comment(1)
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2022年01月17日
愛敬浩一著『遠丸立もまた夢をみる』

遠丸立(読み=とおまるりゅう)は1926年生まれの文芸評論家であり、『吉本隆明論』を最初期に刊行した一人で、詩も書く。「詩人としての林芙美子」の評価にも意欲的であった。同人誌『方向感覚』を主宰し、一般的な作家論や書評などとは一線を画す、自らのこだわりに従った批評活動を続け、2009年に没した。代表作に、『恐怖考』『無知とドストエフスキー』『永遠と不老不死』等々。本書は、遠丸立の批評を導きの糸として、文芸評論の可能性を探究する試みである。
著者の愛敬浩一氏は日本近現代の文芸評論に非常に詳しく、幅広く読み込んでいるが、若い頃から親しんだ遠丸立の評論の特色を、理論的で普遍的な思索へと向かい包括的なテーマの著作をあらわした点に認め、文芸評論家は多くいるがそうした方向に歩を進めた者は吉本隆明以外はほとんどいない、と語る。そして後半に展開される「恐怖」と「ユートピア」の対比が本書の思考の最高地点となると言えるように思う。その傍らでは、テレビドラマの話が出てきたり、遠丸立の詩作品が紹介されたり、広い視野で論が進められていて、論考の道のりの豊かさが感じられる。
あとがきで著者は、
「今、こうして書き終わって、この文章の中身に一番驚いているのは私自身である。
私は遠丸立に対して、これまでずっと、基本的には親しみの思いしか持っていなかった。ところが、久しぶりに彼の文章を系統的に読み返し、それを論評しているうちに、オマージュになるはずだった私の言葉が、いつの間にか鋭角的になり、しだいに非難じみたものになってしまった。」
と語っており、その通りで、遠丸立をひたすら崇拝する書にはなっていないのだが、同じ時代を懸命にやみくもに生きてきた、境遇も姿勢もちがう二人であるからには考えのズレは当然のことだろう。そこにかえって文芸評論という営みに対する愛敬浩一氏の真摯さが現れているように思われる。そして死よりも生のことを考えなければならないというその言葉には並々ならぬ重みを感じる。
(池田康)
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2022年01月12日
オペラ「アクナーテン」
フィリップ・グラスのオペラ「アクナーテン」をメトロポリタン歌劇場ライブビューイングで見た。現代音楽にこのような壮麗なシーンがあるとは(あったとは)、と驚く。ミニマル音楽の巨匠と承知はしていたが、シンプルな音型の反復というその原始的な手法で3時間のオペラの巨大な果実をみごとに実らせたのは作曲家の並外れた構想力の賜であろう。ミニマル音楽の可能性の射程がここまでカバーしていたのは意想外なことだった。ヨーロッパの音楽界ではミニマル音楽の作曲家は野人扱いされているという話を聞いたことがあったように覚えているが、こんな作品が現れたら認めざるを得ないだろう。「現れた」──この過去形には浅からぬ含意があり、つまり私が見たのは今年に入ってからだが、実際の上演は3年前に行われており、さらに作曲は1980年代というはるか昔のこと。このズレにたじろぐ(この文章の立て方がおぼつかなくなる)。だから「新作が現れた」というのとは違っているのだが、このメトロポリタン歌劇場の3年前のプロダクションは相当話題になったということだから、再演と言ってもよく知られた作品を装い新たにまた上演するという程度の目新しさではない、より重い意味合いがあるのも事実らしい。出演した歌手たちは各シーンを作る音楽の細かいはてしない波に呑み込まれて恍惚、トランス状態になると語る。その通り、マジカルであり、音楽の原始の神秘にひたされるような感じだ。登場人物たちの極度にのろい動作、何語とも分らない古代言語の意味不明のひびき、音符の図像化として多用されるジャグリング遊戯といった舞台を作る主要素も、儀式性を強め、このステージを光り輝く大壁画として屹立させるのに寄与している。オーケストラはヴァイオリンパートを省いているのだそうで、その点も異例な特色と言えるだろう。
物語の内容は、紀元前14世紀のエジプト王アクナーテン(アメンホテプ4世)が従来の多神教を廃して太陽神のみを崇める一神教を制定した事蹟を追う。カズオ・イシグロの小説「クララとお日さま」(最近読んだ)も少女ロボが太陽信仰のごときものを抱く話だったが、絶対神として太陽を観ずることは、宇宙物理学的に定義された恒星という物質的存在として太陽を認識している知性には、きわめて難しい。はるか未来のAI人形にとっても、三千年前のエジプト人にとっても、太陽は神秘そのものなのであり、ポエジーの夢幻空域を過ってクララからアクナーテンへと細い光の道が走る。舞台上でバケモノのように七変化し百変化する太陽のイメージもその把捉しがたい夢幻性をよく表現している。指揮者カレン・カメンセックの語るところによると、ミニマル音楽の方法で作られたこの曲の演奏は数え間違いなど起こりやすく非常に難しいのだそうだ。嬉しいことに、それなりの長さの堂々とした前奏曲がついているので、試しにそこだけ聴くのも有意義かもしれない。
(池田康)
物語の内容は、紀元前14世紀のエジプト王アクナーテン(アメンホテプ4世)が従来の多神教を廃して太陽神のみを崇める一神教を制定した事蹟を追う。カズオ・イシグロの小説「クララとお日さま」(最近読んだ)も少女ロボが太陽信仰のごときものを抱く話だったが、絶対神として太陽を観ずることは、宇宙物理学的に定義された恒星という物質的存在として太陽を認識している知性には、きわめて難しい。はるか未来のAI人形にとっても、三千年前のエジプト人にとっても、太陽は神秘そのものなのであり、ポエジーの夢幻空域を過ってクララからアクナーテンへと細い光の道が走る。舞台上でバケモノのように七変化し百変化する太陽のイメージもその把捉しがたい夢幻性をよく表現している。指揮者カレン・カメンセックの語るところによると、ミニマル音楽の方法で作られたこの曲の演奏は数え間違いなど起こりやすく非常に難しいのだそうだ。嬉しいことに、それなりの長さの堂々とした前奏曲がついているので、試しにそこだけ聴くのも有意義かもしれない。
(池田康)
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2022年01月03日
みらいらん9号

今号の特集は「恐怖の陰翳」。2020年からのコロナウイルス跋扈、そして野村喜和夫さんの対話シリーズの候補の一つとして広瀬大志さんとの恐怖対談が挙がったこと、さらに表紙を飾るオブジェに今回國峰照子さんの「悪夢」をもちいる予定だったので、これらから総合して、ほぼ必然的に「恐怖」という特集テーマになった。「陰翳」とつけたのは、はっきりした恐怖だけでなく、その予兆や可能性、潜勢態をも視野に入れたいという考えからである。野村・広瀬対談「恐怖と愉楽の回転扉」(広瀬さんがとても張り切って語って下さった)を軸として、エッセイや詩を神山睦美、望月苑巳、生野毅、瀬崎祐、田中庸介、愛敬浩一、山田兼士、細田傳造、八覚正大、添田馨、田中健太郎、北川朱実、浜江順子、菅井敏文、今井好子の諸氏に寄稿していただいた。さらに海埜今日子さんの連載掌編も恐怖のテーマにあたると思われたので特集の枠の中に入れた。記事の隙間には「恐怖十七景」と称して小説や詩作品などから恐怖シーンを引用した。
巻頭詩は中本道代、宇佐美孝二、高田真、二条千河、高橋馨のみなさん。短歌は、山川純子さん、そして蝦名泰洋さんの遺作。和合亮一さんの連載詩は今号が最後となる。
新倉俊一先生の追悼としては、八木幹夫さんの追悼詩「フェト・シャンペエトル」のほか、詩集『ビザンチュームへの旅』の書評を宮沢肇さんが執筆して下さっている。
なお、この号から美術コラム頁の担当が宇田川靖二さんから柏木麻里さんに替わった。
ぜひご覧いただきたい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 09:11| Comment(0)
| 日記
2022年01月01日
2022年元旦
新春のおよろこびを申し上げます。
快晴の元旦、近所の小さな山(湘南平)へ登り、海と山を眺めた。毎年やっていることながら、この2年はこもりがちの日々で運動不足の気味があり、予想通り非常にくたびれた。山頂で見はるかしての一つの発見は、山も青いということ。海や山が青いのは当然のことだが、遠くの山の影も青い。富士山も雪をかぶっていない部分は青い。青・青・青。そのことに気づいた朝だった。
本日届いた、中原秀雪さん主宰の詩誌「アルケー」に、宇佐美孝二著『黒部節子という詩人』(洪水企画)についての同人諸氏の感想エッセイを集めたものが挟みこまれていた(「アルケー通信」25号)。宇佐美氏も同人のようだからこうした手厚い特集風の編集がなされたのだろうが、詩人仲間の仕事に対するここまで念入りの好意はなかなか実現できることではないように思う。宇佐美氏のエッセイ「『黒部節子という詩人』出版前後」には、「反響は思った以上に好意的で、あちこちに“隠れ黒部ファン”がいたことに改めて確信を深めた。」とある。私の近辺でもNさんが黒部節子という詩人は前から知っているので是非読みたいと注文して下さった。何色の糸か知らないが、見えないところでつながっている文業の不思議。
前に、注文したCDが届かないと嘆いたあのCDが、問合せをしてみた結果、今日届いた。これを正月に聴けてありがたい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 16:36| Comment(0)
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