ウクライナで戦争が始まっている。超大国の絶対的権力者が魔王になったらどうなるかという〈ありえない悪夢の仮定〉のはずのことが現実に起こりつつあって、それを目撃することになるのだろうか。
ここ数日、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ルートヴィヒ」を見ていたが(ワーグナー関連作品。上映時間は4時間に及び、映画というよりもヴィスコンティがきわめて明確な夢物語を見ているというかんじ)、王と呼ばれる存在は、やろうと思えば放恣はいくらでも可能で、自身の精神、心を節度をもって平らかに英明に保つことがいかに難しいかを強く印象づけられる。私は謎だ、他人にとってだけでなく自分にとっても、とルートヴィヒ王(バイエルンの君主)は死の直前に独白する。
王侯でなくても、選挙によって地位についた長であっても、任期があまりにも長くなると、精神の健康・健全を損なうことなくすぐれた国政の船頭でいつづけるのは至難にちがいない。
(池田康)
2022年02月26日
ありえない悪夢の仮定の……
posted by 洪水HQ at 08:03| 日記
2022年02月13日
いろはのい、それ以前
身体運動の感覚は繊細微妙だ。最近、歩くのがなぜかしんどくなってきた、運動不足なのか、歳のせいかと悲観していたが、新しいぴったりサイズの靴を買って履いてみると、楽々と軽やかに歩けるので狐につままれた思いだった。どうやら長く使ってきたボロ靴がよくなかったようだ。ほんのわずかの条件の違いにすぎないようにも思えるのだが、まことに不思議。
冬季オリンピックが開催されていて、フィギュアスケートもなんとなく見るのだが、ジャンプが飛べるかどうかがどうしても注目されるが、ジャンプ以外のスケーティングが散文的な人よりも音楽性豊かに滑ってくれる人の方が見ている側としてはありがたく嬉しい。バレエダンサーはただ歩くだけでも美しく歩く。いろはの「い」の部分が花崗岩のように堅固に揺ぎなく、艶やかなまでに訓練されている演技者の所作はなにげない一瞬にもはっとさせられることがある。スポーツ競技としては、いろはにほへとの更に先で競うのだろうけど。
先日城戸朱理さんからいただいた「甕星」6号というとても立派なつくりの雑誌は、版元の表記も値段もなくて戸惑うが、平井倫行氏という美学・芸術学の研究者の方が編集しており、この6号は「舞踏」を特集していて(これに城戸さんが大きく関わっている)、笠井叡、麿赤兒といった舞踏家の人々の言葉、思想、方法論を紹介している。舞踏を実践する人達は総じて非常に独特に深く考えるというイメージがあるが、この特集を読むとそれが具体性をもって確認できる。「死体の生に到達したい」「死刑囚として歩行したい」という笠井叡の言葉、「ウイルスに侵されていくこと、それ自体が作品であり、そういうところへどうやって肉迫できるか」という麿赤兒の言葉、さらには土方巽の「私はいつも踊っていますよ」という境地、それらはいろは以前の根源の覚悟を発しているような気がして心打たれる。幽玄とは、いろはの先の工夫ではなく、いろは以前の心組みを磨くことだろう。未来をになう若い世代の舞踏家たちも紹介されていて、特集に広がりが出ていた。なお、「舞踏」という呼称は、必ずしも当事者たちの共通認識として積極的にかかげられているものではないようだ。
最後に。
マリス・ヤンソンス指揮のベルリン・フィルの2001年イスタンブール公演のDVDを中古で見つけて入手し、聴いていたら、付録としてイスタンブールの名所旧跡や文化的特色を紹介する映像が入っていて、見てみると、故新倉俊一氏が詩集『ビザンチュームへの旅』で詩行に書き入れていた聖堂ハギア・ソフィアも出てきてその偉容に感銘を受けた。イスラム教の僧のくるくる回転する舞踊もすこしだが映り(スーフィーと呼ばれるものだろうか)、この旋回の舞で僧侶たちは恍惚を体験するのだと説明されていた。フィギュアスケーターは片足を90度または180度上げながら急速旋回(スピン)するとき、どんな異様な感覚を味わっているのだろうか?
(池田康)
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2022年02月05日
立春のよしなしごと
わが家にはいま、植物の鉢植えが二つある。5年ほど前から同居しているガジュマルの木と、昨年末にある方から頂いたシクラメンの鉢だ。ガジュマルは最初は掌よりも小さいサイズだったが今は地面から40センチほどの高さにまでなっている。よくぞここまで成長したと感慨を覚えるのだが、木の高さを計る単位はふつうメートルであるから、0.4メートルの木はまだまだ赤ん坊だろう。ここのところ、鉢の地面を苔の類がおおっていて、その緑が沁みるようで好ましい。小さな雑草も生えていて、うるさくなったら取り除くのだが不死身に復活してくる。ガジュマルは寒さに弱いそうなので冬は室内に置き日中だけ外に出す、その作業が手間だ。
シクラメンは12月中は豪奢に咲いていて、1月になると花が次々にしおれていき、もう一輪も残らずの状態になった、と思ったら、葉の下に小さな莟がいくつかまたまた開花しようとしていて、エンドレスの生命力を感じさせる。シクラメンは葉も力強い存在感がある。実も三つならせて、時間を凝固させている。
……この項は以上で話は尽きるのだが、ついでにもう一つ散歩時のエピソードを加えると、ときどき近所できれいな緑色の小鳥を見かけることがあり、おそらくメジロではないか、いつもは木の枝など高所に見かけるのだが、昨日は地面でなにかをついばんでいるところを見つけ、こんな見おろすような角度で見られるのかと驚いたら、向うもハッとしたのか逃げていった。節分の豆でも落ちていたのだろうか。メジロの小さな口は大豆を食べられるのかどうか、一粒のみ込んだら相当満腹するだろう、小鳥の胃袋のささやかさ加減を寸時想像した。
(池田康)
シクラメンは12月中は豪奢に咲いていて、1月になると花が次々にしおれていき、もう一輪も残らずの状態になった、と思ったら、葉の下に小さな莟がいくつかまたまた開花しようとしていて、エンドレスの生命力を感じさせる。シクラメンは葉も力強い存在感がある。実も三つならせて、時間を凝固させている。
……この項は以上で話は尽きるのだが、ついでにもう一つ散歩時のエピソードを加えると、ときどき近所できれいな緑色の小鳥を見かけることがあり、おそらくメジロではないか、いつもは木の枝など高所に見かけるのだが、昨日は地面でなにかをついばんでいるところを見つけ、こんな見おろすような角度で見られるのかと驚いたら、向うもハッとしたのか逃げていった。節分の豆でも落ちていたのだろうか。メジロの小さな口は大豆を食べられるのかどうか、一粒のみ込んだら相当満腹するだろう、小鳥の胃袋のささやかさ加減を寸時想像した。
(池田康)
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