身体運動の感覚は繊細微妙だ。最近、歩くのがなぜかしんどくなってきた、運動不足なのか、歳のせいかと悲観していたが、新しいぴったりサイズの靴を買って履いてみると、楽々と軽やかに歩けるので狐につままれた思いだった。どうやら長く使ってきたボロ靴がよくなかったようだ。ほんのわずかの条件の違いにすぎないようにも思えるのだが、まことに不思議。
冬季オリンピックが開催されていて、フィギュアスケートもなんとなく見るのだが、ジャンプが飛べるかどうかがどうしても注目されるが、ジャンプ以外のスケーティングが散文的な人よりも音楽性豊かに滑ってくれる人の方が見ている側としてはありがたく嬉しい。バレエダンサーはただ歩くだけでも美しく歩く。いろはの「い」の部分が花崗岩のように堅固に揺ぎなく、艶やかなまでに訓練されている演技者の所作はなにげない一瞬にもはっとさせられることがある。スポーツ競技としては、いろはにほへとの更に先で競うのだろうけど。
先日城戸朱理さんからいただいた「甕星」6号というとても立派なつくりの雑誌は、版元の表記も値段もなくて戸惑うが、平井倫行氏という美学・芸術学の研究者の方が編集しており、この6号は「舞踏」を特集していて(これに城戸さんが大きく関わっている)、笠井叡、麿赤兒といった舞踏家の人々の言葉、思想、方法論を紹介している。舞踏を実践する人達は総じて非常に独特に深く考えるというイメージがあるが、この特集を読むとそれが具体性をもって確認できる。「死体の生に到達したい」「死刑囚として歩行したい」という笠井叡の言葉、「ウイルスに侵されていくこと、それ自体が作品であり、そういうところへどうやって肉迫できるか」という麿赤兒の言葉、さらには土方巽の「私はいつも踊っていますよ」という境地、それらはいろは以前の根源の覚悟を発しているような気がして心打たれる。幽玄とは、いろはの先の工夫ではなく、いろは以前の心組みを磨くことだろう。未来をになう若い世代の舞踏家たちも紹介されていて、特集に広がりが出ていた。なお、「舞踏」という呼称は、必ずしも当事者たちの共通認識として積極的にかかげられているものではないようだ。
最後に。
マリス・ヤンソンス指揮のベルリン・フィルの2001年イスタンブール公演のDVDを中古で見つけて入手し、聴いていたら、付録としてイスタンブールの名所旧跡や文化的特色を紹介する映像が入っていて、見てみると、故新倉俊一氏が詩集『ビザンチュームへの旅』で詩行に書き入れていた聖堂ハギア・ソフィアも出てきてその偉容に感銘を受けた。イスラム教の僧のくるくる回転する舞踊もすこしだが映り(スーフィーと呼ばれるものだろうか)、この旋回の舞で僧侶たちは恍惚を体験するのだと説明されていた。フィギュアスケーターは片足を90度または180度上げながら急速旋回(スピン)するとき、どんな異様な感覚を味わっているのだろうか?
(池田康)