気象庁が多くの地域での梅雨の終わりを宣言したらしい。これからずっと真夏の暑い日がつづくということだろうか。今年はベランダの朝顔は二鉢、成長は極めてゆっくりだが、もう蔓が螺旋運動をはじめている。
左川ちか(1911-1936)も詩を読むととても鋭敏に植物の生命に感応していたと思われる(「前奏曲」など)。
『左川ちか全集』(書肆侃侃房)で彼女の詩作品をざっと通読する。傍若無人なモダニズム、という言葉が浮かんでくる。普通、モダニズム詩の多くは、イメージ片をピンセットでつまむようにして慎重に組み立てる、知的な、計算し尽くした時計職人のような仕事であり、ときには標本箱に収められた詩の死骸といった感じさえ受けるのだが、左川ちかの詩は乱暴なまでの勢いで言葉とイメージを組み立ててゆく。そして突然、存在の不安を叫ぶような行が記される。そのような稀な回路でのポエジーの起爆がこの詩人の個性を成しているのだろう。同書解説(島田龍)にも指摘されているように、詩歴が馬の詩から始まって馬の詩で終わるのも、故郷の北海道が彷彿として印象的だ。
この解説で、わが昔日の愛読書『雪明りの路』の伊藤整との深い関わりも詳細に語られており、相当に詩風がちがうので怪訝なる驚きでもあった。
(池田康)
2022年06月28日
傍若無人なモダニズム
posted by 洪水HQ at 11:26| 日記
2022年06月18日
夏の系
夏が半透明の殻から抜け出した
虫の王国のあけぼの
逃げ水がどこまでも逃げていく
ラジオの戦争報道は波にのまれ
サーフボードを脇にスクーターが走る
真昼間の無常に斧をかける蟷螂
目覚めてにぶく動きながらまどろむ甲虫
昼寝は楽園への隧道
冒険をかぎあてる無為の散歩
王国に足を踏み入れると子供はセミ語をしゃべる
藪がウツソウ語を
川がサフサフ語を
競り合う天籟妖声の譜
夏は交響楽 夏休みの作文がつづる
夏は交響楽 詩が真似る
第一楽章のtuttiを少年が駆け抜け
風の管弦が追いかけ
大紫はうろうろ飛び迷うが
もうどこへ行く必要もない
朱夏こそ最終目的地
その頂は齢を四半にし
その淵で記憶は浄瑠璃となる
くももくもく 幼い素頓狂な声
入道雲の角力三昧
すわ雷雨燦然
木々は古代青の甦り
地上の虫言葉ふたたび蠢き
夜空ひそひそ語
銀漢のかなたの爆発
逃げ水を集めて螢は幽明の呂をまう
サーフボードはもう乾いている
少女の歌はまだ濡れている
…………………………………………………………
もうすぐ7月、いよいよ夏も本番。
ということで、ここに書きとめるのは、夏の子らに寄せる頌歌です。
いざ発表するゾ、というような晴れやかなことではなく、ちょっと出してみる、くらいの気持ち。
というのは、このような主題はありふれたものだろうし、それにつながる各部分の表現も誰かがどこかで似たことを書いているかもしれないので。
なお、「サフサフ」という表現は西脇順三郎「失われた時」から借りてきています。
(池田康)
虫の王国のあけぼの
逃げ水がどこまでも逃げていく
ラジオの戦争報道は波にのまれ
サーフボードを脇にスクーターが走る
真昼間の無常に斧をかける蟷螂
目覚めてにぶく動きながらまどろむ甲虫
昼寝は楽園への隧道
冒険をかぎあてる無為の散歩
王国に足を踏み入れると子供はセミ語をしゃべる
藪がウツソウ語を
川がサフサフ語を
競り合う天籟妖声の譜
夏は交響楽 夏休みの作文がつづる
夏は交響楽 詩が真似る
第一楽章のtuttiを少年が駆け抜け
風の管弦が追いかけ
大紫はうろうろ飛び迷うが
もうどこへ行く必要もない
朱夏こそ最終目的地
その頂は齢を四半にし
その淵で記憶は浄瑠璃となる
くももくもく 幼い素頓狂な声
入道雲の角力三昧
すわ雷雨燦然
木々は古代青の甦り
地上の虫言葉ふたたび蠢き
夜空ひそひそ語
銀漢のかなたの爆発
逃げ水を集めて螢は幽明の呂をまう
サーフボードはもう乾いている
少女の歌はまだ濡れている
…………………………………………………………
もうすぐ7月、いよいよ夏も本番。
ということで、ここに書きとめるのは、夏の子らに寄せる頌歌です。
いざ発表するゾ、というような晴れやかなことではなく、ちょっと出してみる、くらいの気持ち。
というのは、このような主題はありふれたものだろうし、それにつながる各部分の表現も誰かがどこかで似たことを書いているかもしれないので。
なお、「サフサフ」という表現は西脇順三郎「失われた時」から借りてきています。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:36| 日記
2022年06月17日
加納光於展「胸壁にて」 ほか
昨日は午後から上京。
京橋のギャルリー東京ユマニテで加納光於さんの個展「胸壁にて」を観る。これは1980年代に制作発表された連作で、40年ぶりに展示されたとのこと。奔放な色彩の発現と変幻をあじわう。ギャラリーの御主人から加納さんの近況をうかがう。
それから駒込の駒込平和教会で田中庸介さんの朗読会に参加。詩集『ぴんくの砂袋』が詩歌文学館賞を受賞したのを祝っての催し。精気にみちた声で、東京の地名をもりこんだ詩、学者としての活動に関する詩、家族生活から題材をとった詩など、朗読された。詩誌「妃」の執筆者諸氏も多く参集していたようだ。
この会は天童大人氏が主催する「詩人の聲」シリーズの第2084回。天童さんは昨年詩集『ドゴン族の神―アンマに―』を出している(アフリカ紀行が主題となっており、個人的には「Bine・Bine」という詩の静けさが印象的だった)。
新宿の紀伊國屋書店に寄ったら、一階部分も新装開店していて、誰がデザインしたのか、ぐっとファッショナブルな感じになっていた。
今回の上京とは関係ないが、何日か前から読んでいた、ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』を読み終えたところ。まったく奇妙な小説、ウルフの作品群の中でも異色作だろう。数百年の時代の変遷を点描するとともに不思議な人格構造論を試みながら、「樫の木」という一篇の詩の創造を軸に繊細な文学論を各所にちりばめている。すべてが集約される最後の十ページほどはとくに魅せられる。
(池田康)
京橋のギャルリー東京ユマニテで加納光於さんの個展「胸壁にて」を観る。これは1980年代に制作発表された連作で、40年ぶりに展示されたとのこと。奔放な色彩の発現と変幻をあじわう。ギャラリーの御主人から加納さんの近況をうかがう。
それから駒込の駒込平和教会で田中庸介さんの朗読会に参加。詩集『ぴんくの砂袋』が詩歌文学館賞を受賞したのを祝っての催し。精気にみちた声で、東京の地名をもりこんだ詩、学者としての活動に関する詩、家族生活から題材をとった詩など、朗読された。詩誌「妃」の執筆者諸氏も多く参集していたようだ。
この会は天童大人氏が主催する「詩人の聲」シリーズの第2084回。天童さんは昨年詩集『ドゴン族の神―アンマに―』を出している(アフリカ紀行が主題となっており、個人的には「Bine・Bine」という詩の静けさが印象的だった)。
新宿の紀伊國屋書店に寄ったら、一階部分も新装開店していて、誰がデザインしたのか、ぐっとファッショナブルな感じになっていた。
今回の上京とは関係ないが、何日か前から読んでいた、ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』を読み終えたところ。まったく奇妙な小説、ウルフの作品群の中でも異色作だろう。数百年の時代の変遷を点描するとともに不思議な人格構造論を試みながら、「樫の木」という一篇の詩の創造を軸に繊細な文学論を各所にちりばめている。すべてが集約される最後の十ページほどはとくに魅せられる。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 12:09| 日記
2022年06月12日
十薬
晴天からいきなり雷雨が降ったりもして夏らしくなってきた。
最近散歩していて目につく植物にドクダミがある。紫陽花は季節の花として愛されるが、ドクダミはそんなでもないだろう。第一、名前がよくない。誰がこんないやな濁り方をした名をつけたのか、花になりかわって文句を言ってやりたいものだ。辞書を見ると悪臭がするとあるが、花に鼻を近づけてもそれほど強烈な臭いは感じない。整腸・解毒などの薬効があるという。とすると薬草園なんかでは大事に育てられているのだろうか。歳時記を見ると、十薬(じゅうやく)の別名もあるようだ。花の形が十字形で、薬効があるから、この名前ができたのだろうか。こちらの方が感じがよい。例句が七句ほど並んでおり(そのうちドクダミで詠んでいるのは一句だけ)、俳人はこんな小さな道端の花にも目を向けるのだなと感心する。その中から。
ー黄昏れて十薬の花たゞ白し〜〜夢香
作者は柏崎夢香という俳人だろうか、まったく知らない人。たしかにこの花の白は、十字形ともあいまって、印象的だ。これが沈丁花のような芳香をもっていたらどんなに良かったろうと残念に思ったりもするが、この香りをとびきりの薫香として好む「蓼食う虫」もきっと存在するにちがいないと夢想する。
(池田康)
追記
グロテスク芸術を積極的に語る西脇順三郎ならばドクダミの名前も珍重するだろう。そう考えるとこの名も捨て難い気がしてくる。
そういえば、有働薫さんがなにかの詩でこの植物を書いていたのではなかったかと思い出して、詩集を探してみた。一番新しい『露草ハウス』のタイトル作でもちょっと出てくるが、12年前の『幻影の足』の「茗荷の港」では主役級で登場する。
ーどくだみの白い花が
ー見渡すかぎり咲いている野原を
ー明け方まだあたりが煙ったように
ー蒼くかわたれているなかを
ー朝霧に足元をぐっしょり濡らしながら歩いていくと
で始まり、一連の幻想体験が叙され、最後は、「突然まわりの談笑の声が/すーっと遠ざかって行った/わたしは少しめまいがした//気がつくと/どくだみの白い花に囲まれて立っている//茗荷の香りが口の中に残っている」で終わる(最終行の茗荷の香りというのは幻想体験の一シーンに関わっている)。詩人はドクダミに化かされたのか。こんなふうにドクダミと交感できるというのは、この詩人のユニークな資質の一端を示している。
posted by 洪水HQ at 15:59| 日記