阿部日奈子著『野の書物』(インスクリプト)が刊行された。1992年から現在に至るまでの30年間に書かれた59篇の書評を時系列で収める。したがって著者のこの間の思考や感性の変化も辿れるのでは、という気がするが、読んでみると阿部さんは阿部さん、若いころから現在まであまり変わっていないような感じもする。ずっと鋭く、ずっと真剣で、ずっと明朗だ。犀利な知性と教養をもって現代社会のあらゆる場所に精緻な問題意識の網を張り、それに引っかかる事件として諸々の本をとても上手に受け止め、読み込む。阿部さんにとって読むとは、気になる論点にメスを刺して血を流させることだ。目指されるのは小手先の書評を越えて、短いながらも、本と刺し違えるような渾身の論考となる。社会構造の問題であっても性の問題であっても眼差しは容赦なく透徹している。随所に露となるこの人の苛烈な気骨にはっとさせられること度々であった。
詩人として著者を知る者にとっては、この詩人の過去の何冊かの詩集に秘められた思いの一部を解き明かす「子供っぽさについて」「フーリエと私」「素晴らしい低空飛行」は必読。舞踊を愛する阿部日奈子という面では「バランシンとファレル」「舞踊家・伊藤道郎の見果てぬ夢」が興味深い。女性の生き方を同性の立場から見つめるという点では高見順「生命の樹」、大原富枝「眠る女」、素九鬼子「旅の重さ」、ルイーゼ・リンザー「波紋」などを論じた章が身体ごとの共鳴が感じられて熱い。
最後にあとがきのように置かれた「野の書物──多感な自然児の系譜」には「そう、官より民、仕官より在野、正当より異端、中心より周縁に惹かれるのは、十代半ばから現在まで変わらない私の好みでる。」という言葉があり、「『美女と野獣』を読んでも、野獣が王子に生まれ変わるラストには、かえってがっかりする。ベルが愛したのは野獣なのに、どうして王子に変身させられてしまうのだろう。」などという軽口まで出てくる。してみると、タイトルの「野」に込められているのは、物語の常套、思想の常軌を逸脱し突き破る精神の真実探求だろうか。そのようにして生まれた言葉を鋭敏に嗅ぎ分け、機関銃ではなく本を手に「快感!」と叫ぶことができるこの文系ヒロインは、本書所収の多くの文章を読むと意想外に戦闘的であることがわかり、読み進むうちに読者はいつしか感電している。
(池田康)
2022年07月25日
比べる
AとBを比べるという場合、両者にはなにか共通項がありながら画然とした違いも存在する、という関係にあるはずだ。なにも共通項がないと比べようがない、比較が意味をなさなくなる。比較するにしても、ただ単に優劣をつけるのは味気ない。AとBが互いを照らし合うその関係自体(一時的かもしれないが)を楽しむのが比較のより意義深い形なのではないだろうか。
「みらいらん」9号の野村喜和夫・広瀬大志両氏による対談「恐怖と愉楽の回転扉」に出てきた映画「遊星よりの物体X」(1951、クリスチャン・ネイビー)と「遊星からの物体X」(1982、ジョン・カーペンター)を最近観た。後者は前者をリメイクしたもの、という関係。しかし筋はかなり違っている。オリジナルの方は北極の地での恐怖譚に小気味よいユーモアをまじえて映画製作の腕前が冴えている感じがあり、リメイク版は音楽(エンニオ・モリコーネ)の現代性を噛みしめることができ、バッドエンドにかぎりなく近づこうとする脚本も真剣なサスペンス味がある。エイリアンの造型は植物の生命の理をベースにして理論づけようとする1951年版はよりSF的、1982年版は形状や運動がやたら恐ろしくホラー寄りと言えるか。どちらにしても外宇宙はかならずしも友好的ではないことが示され、不気味な冷気が北極の風景に沁みわたることになる。
ベートーヴェンの晩年のピアノソナタ(作品109〜111)をアンドラーシュ・シフと小菅優という二人のピアニストで聴き比べる(どちらも信頼できるピアニストであり、シフに関してはバッハの或る曲などグレン・グールドよりもシフで聴く方を好むこともある)。しなやかに流れ細かくスイングするシフ版に対して、各所で流れをゆるめながら音を立てるような小菅版は音のドラマの形、遊戯の姿がよりくっきりと見えてきて、私のような素人にはありがたく、耳をそばだてやすい。十分に余白をとって静寂を確保しながら音を鳴らし音に語らせる、不協和音も明瞭に打ち出す、大家然とした落着きと初学者のような素直さを兼ね備えた演奏は、何度でも聴きたいとおもわせる構築の強さがある。これらの曲はピアノ曲の歴史のなかでも一つの絶壁の縁をなすものであり、その危うさと絶景を体験することは特別な音楽秘境探訪である。両人とも付属の小冊子でこれらの曲について雄弁に語っているが、ここでは小菅優のコメントを少し引用紹介する。「作品109はもっとも美しいソナタのひとつだと思います。まるで川がもうずっと前から自然と流れていたような冒頭から始まり、ハーモニーの切なさや弱音の美しさは果てしなく遠いところへ手を伸ばしているかのようです。…(中略)…お客様がいなくても自分で自分のために弾きたくなることはあるかとときどき聞かれることがあります。作品110は私にとってそんな曲のひとつです。自分が慰めを求めているとき、音楽の美しさにすがりたいとき、悩んでいるとき……そんなときにこの曲を弾きたくなるのです。…(中略)…そして作品111。いきなり冒頭から嘆いているかのようで、ずっと最後のハ長調を探す迷路のようですが、人生もそのような迷路に感じることはないでしょうか。私は、人生はいつも見つからないハ長調を探しているようだなと感じることがあります。」
比べる、の究極は自分を自分自身と比べることだろうか。一年前、五年前、十年前、二十年前の自分と、今の自分を比べて、どうか。多くはそれほど変わってない、あるいは少しずつ退化している部分もある。それでも進展や新境地がわずかでも見つけられれば自己弁護の余地が生まれ、ほっとできる。自分が自分に対して不満を抱く、それは前へ進む最も基本的な活力ではあるが、へたをすると不幸の感覚に捕われる原因にもなる、そこがやっかいなところだ。ほどほどにしておくべきなのかもしれないが、といっても、自分の自分自身との比較は意識がある限り止めることのできない行為であり人間のサガと言うしかない。それが反復され重ねられ変奏されて〈人生の意味〉なるものの根幹をつくる(創造するor捏造する)のであろう、たぶん。
(池田康)
追記
マウリツィオ・ポリーニの演奏するベートーヴェンの後期ピアノソナタ(op109-111を含む)のCDも所有していたことに気づいた。このピアニストはそれほど近しく思ってなかったので記憶から消えていたようだ。さすがに上手に弾いている。
posted by 洪水HQ at 11:14| 日記
2022年07月23日
2022年07月10日
池袋界隈で
平穏という言葉が2020年以降つかいにくくなっている気がするが、ここのところ、選挙と凶行と戦争と疫病と、過剰に騒がしい世の中だ。ぐったり、家でじっとしていたいところだが、昨日は遠出した。
詩人クラブの会(板橋区立グリーンホール)にちょっとした用事で参加するため(二条千河さんの講演があった)。ついでに、午前中、田端駅前の田端文士村記念館に寄り、芥川龍之介の展示を観る。関連展示で「詩人・吉増剛造 芥川龍之介への共感」があり、〈東京の詩人・芥川龍之介〉の影を追った吉増さんの詩集や映像作品が展示されている。ずいぶん昔のものからつい最近の作まで長年月にわたっていて、傾倒の本気度がうかがわれる。奥の部屋には芥川の資料もたくさん展示されているものの薄暗い中で文字は読みにくく、漫然と眺めるのみだったが、芥川邸の模型にはなぜだか見とれた。太宰治の肉筆の手紙(のレプリカ?)も見ることができた。
東京芸術劇場のおにぎり屋のおにぎりを昼食とする。おにぎりなるもの、自分で握ってもうまくいかないし、コンビニなどで買ってもさほどおいしいと思うことはないが、ここのおにぎりはほろほろとした温とさがありがたく、試してみる価値あり。
ジュンク堂書店池袋本店にも寄る。セルフレジが設置されていた。一冊購入。操作性はスムーズだが、大丈夫なの?という不安がセルフレジなるものにはつきまとう。自販機と同じと言えば、そうなのだろう。
追記。吉増さんからテレビ番組のお知らせをもらっている。「縄文幻視行」というタイトルで、今月17日(日)午前0時30分(土曜深夜)からNHKBS1で放映予定とのことだ。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 16:08| 日記
2022年07月04日
みらいらん10号

今号の特集は「西脇順三郎 世界文学としての詩」、果敢にもこの巨大な高峰に挑戦した。今回も監修的役割を果たして下さった城戸朱理さんの発案が出発点になっているが、個人的には、何年か前に神保町の古本祭りの折に買い求めた『西脇順三郎全詩集』(筑摩書房、1963年)をいよいよちゃんと読む時が来たかという怯えと奮い立ちとが混ざり合った心境だった。この『全詩集』未収録の晩年四詩集も蒐集して謹読した。
特集の柱は吉増剛造・城戸朱理両氏の対談「西脇順三郎をふたたび考える」で、吉増さんの話の中で「生垣」や「女の舌」といった語が目立つ形で出てきたのでサブタイトルを「生垣・女の舌・異語の声」とした。この対談はホテル・ニュー・カマクラで行われ、吉増さんの疑義や事実確認に対して城戸さんが即答するという場面も印象的だった(対談の後の歓談も非常に愉しいものであった)。
さらに贅沢にも往復書簡企画が二つ並ぶ。一つめは、野村喜和夫・杉本徹両氏による「ポエジーのはじめに散歩ありき」、二つめは城戸さんの詩を英訳している英文学者の遠藤朋之さんと城戸さんとの「世界文学の視点から西脇順三郎を考える」。どちらも西脇順三郎の本領を問いただす生彩にみちた対話となっている。
そしてエッセイをご寄稿いただいたのは、石田瑞穂、岩崎美弥子、山内功一郎、山崎修平、田野倉康一、ヤリタミサコ、神泉薫、菊井崇史、カニエ・ナハ、広瀬大志のみなさん(広瀬氏は詩の形)。さまざまな角度から巨魁西脇順三郎に迫って下さった。
西脇順三郎は苦手という方もぜひ今回の特集をご覧いただき、それぞれにこの大詩人への入口を見つけていただければ幸いだ。
巻頭詩は小池昌代、愛敬浩一、岡本勝人、原利代子、岡田ユアン、萩野なつみの六氏。巻頭連載詩は今号から渡辺玄英さん(12号まで)。巻頭短歌は前川斎子さん(「日本歌人」編集人)。
それから嶋岡晨さんの連載詩だが、コーナー名変更となった。すなわち「深夜の詩・夜明けの歌」。刷新された舞台で新たなモードの詩が読めることを歓迎する。
巻末のジャンル別コラムに、この号から愛敬浩一氏がテレビドラマ担当で加わっている。氏は映画やドラマの評論も旺盛に書き、単行本も出していて、その批評は独自の視点に貫かれ、長年培った定見の上で颯爽と自立している。そして洪水企画から今年、〈詩人の遠征〉シリーズで『遠丸立もまた夢をみる』『草森紳一の問い』の二冊を刊行した。どちらも異色のタッチの活気ある文芸評論となっているので是非ご覧いただきたい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 14:13| 日記