先日、みらいらん次号に掲載予定の、野村喜和夫/カニエ・ナハ両氏の対談を行った。録音や写真撮影はいつもハラハラだが、大きなミスや事故もなく実施できて胸をなでおろした。
そのときの雑談の中で、書肆山田の大泉史世さんのご逝去の話も出た。私は安藤元雄さんの8月刊の詩集『恵以子抄』のあとがきで初めて知ったのだが、先ごろ季村敏夫さんから送られてきた「河口からVIII」の執筆者に大泉さんの名前があって驚いた。巻末の「歩く、歩かされる──あとがきにかえて」を読むと、1993年に発表された散文詩を再録したとのこと。大泉さんはもっぱらの裏方の人ではなく表現活動もされていたのだ(2、3回お会いしたことはあるが、深い話はしなかった)。その作品「しろいくも」の最初の章を引用紹介する。
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それは、とてもとても、とても不可能なことだと思えた。
またね、またいつかね──。
ぼくは、両手をポケットにつっこんで、どうやってもこみあげてきてとめられないルフランを鼻先から逃がしている……アンダ、ライフ、ゴウゾン。
──んげなごどえっだっではがなえごどにい。
「アンダ、ライフ、ゴウゾン」は後続の部分によれば「and a life goes on」のことのようである。
それから、弘前市から「亜土」115号が届けられたが、これは市田由紀子という私にとっては未知の詩人の追悼号となっていて、2冊セットで、1冊は故人の作品抄、もう1冊は詩人仲間たちの追悼詩や追悼文を収めている。実に手厚い追悼の儀礼だ。市田作品より少し引用する。
記憶というものにも曲り角があるんだ
いつもあと一歩というところで
角にだしぬかれてしまう
ブラウスの肩パッドのずれを
直したはずみに違った通りに出た
なつかしいような
出会いたくないような通りで
いきなり学校の鐘が聞こえた
前の方には
うまく越えて来たはずの角々が
「通りやんせ」をするように
並んで待ちぶせしている
これは「公園通り」という作品の「1 鬼ごっこ」の章。イマジネーションの動き方が魅力的だ。
鍵をかけて一日すごした
誰もこないのに
心の閂をはずしてみた
誰もこないのに
これは「四行詩のため息」の5の章。孤独の景の鋭さ。
(池田康)