
第一部の様子は、冒頭の作品「記憶の階段」を読むのがいいか。街の通りを女の人?が日傘を差して歩いており、その影が道にくっきりと落ちていて印象的で、背後の建物の細い隙間に上階へと上がってゆく骨だけの階段がわずかに見えている、そんな写真に、次のような詩テキストが添えられている。
泣き出したくなるほど
懐かしい なのに
どうしても 思い出せない場処がある。
写真と対話し、沈思し、からかい、戯れる、そんな雅な試みと見える。
第二部の自由線画については詩人自身の言葉を聞こう。
「自由線画は、何も描かない、無意識の悪戯描きのような手慰みである。何かに似てきたと気づいたら、物理的に抹消するのではなく、その線を生かしつつ、別のイメージとして描き続けねばならない。つまり描かれた線は抹消されない。(中略)わたしが、自由線画に求めたのは、おおらかな夢とユーモアと線の根源的な優美さと明晰さの四点である。例えば、ギリシアの壺絵のような──。」
“無意識の悪戯描き”の自由線画40点が載っており、眺めて楽しむのみ。夢なるものをある仕方で結晶させたらこのような形象になるのかもしれない。
第三部の「ダロウェイ夫人」論はとても犀利で、刺戟を受けること間違いない。
「あらゆる対象(オブジェ)・他者には、自我に対する喚起力が潜んでいる。そうした意味で、鏡である。逆にその喚起力が働かなければ、他者でもなければ鏡でもない。窓辺の老婦人が真の喚起力を発揮するためには、セプティマスの悲惨きわまりない自殺を、衝撃をもってクラリッサが受け止めなければ、老婦人の静謐なたたずまいが、他者として対象とは決してならず、自己肯定的な陶酔的なドリアン・グレイ流の肖像にしか過ぎない。老婦人とクラリッサとの間に深刻な断絶あるいは断層を想定して始めて二人の間にシンパシィーが成立するのだ。」
とか、
「ピーター・ウォルシュとは、だれであろうか、ケンジントン公園のピーター・パン、すなわちポエジーの化身なのだ。」
とか、ドキリとさせられることがたくさん書かれていて、非常に重みのある評論となっている。
ぜひ時間をかけて丹念にご覧いただきたい。
(池田康)