本ブログ昨年9月6日の項で、ストラヴィンスキーとの関わりで作曲家フロラン・シュミットに言及し、初めて聞く名前とも書いたが、最近わけあってモーリス・ラヴェル関連の文献を読んでいて、その中にラヴェルの音楽学校の同級生としてこの人物が出てきた。ラヴェルもフロラン・シュミットの音楽を相当に認めていたようだ。
ラヴェルはドビュッシーと並び称されることが多いが、年代的にはむしろストラヴィンスキーと並べるのが妥当のようで、二人でムソルグスキーの曲のオーケストレーションの共同作業をしたりもしている。シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」を聴いて感銘を受けたストラヴィンスキーがラヴェルと語らって同じような編成の歌曲組曲をそれぞれが作ったという出来事もある。ストラヴィンスキーと、ラヴェルを含むフランス人作曲家たちとは親しくしていたようであり、それでフロラン・シュミットとストラヴィンスキーとのかかわりも生まれてくるわけだが、H・H・シュトゥッケンシュミット著『モリス・ラヴェル その生涯と作品』(岩淵達治訳、音楽之友社)には次のような記述もある。
「ロシア音楽に対するラヴェルの神経質な感受性は、彼を早くからストラヴィンスキーの先駆者かつ友人に仕立てあげた。一九一〇年から一九三二年に至る年月の間、このふたりの音楽家の間には、親密な一致と多面的な相互関係が存在していた。その関係は、純粋に色彩的なものを越えた和声的、リズム的な語法においても確認できることである。ストラヴィンスキーのバレエ総譜は、『春の祭典』に至るまで、ラヴェルをモデルにした二、三の箇所なしには考えられない。」
またジャン・エシュノーズのラヴェル晩年を描いた小説『ラヴェル』(関口涼子訳、みすず書房)では、1927〜8年のアメリカ渡航時、「ラヴェルは五十二歳で栄光の頂点にあり、世界でもっとも重要視されている音楽家の座をストラヴィンスキーと二分している」との記述もある。互いに認めあった二人だったから、音楽上の有形無形の貸し借りはあるのだろう。
ラヴェルの生涯には、ローマ賞を得られなかった件、ハウプトマンの「沈鐘」のオペラ化を第一次大戦によって断念したこと、悲愴感にみちた従軍のエピソード、死に至る数年の悲劇など、哀切な事どもも多い。そんな中で瑣細なことを持ち出すのは恐縮なのだが、ラヴェルについての謎の一つは、彼が愛好した煙草の銘柄はなんだったのかということだ。シュトゥッケンシュミットの本ではラヴェルは「カポラル」にこだわったと書いてあるが、エシュノーズの本には彼は「ゴロワーズ」をトランク一杯につめてアメリカ旅行に持っていったとある。ラヴェルの音楽に似合いそうなのはどちらだろうか?
(池田康)