2023年08月23日

ラヴェルがふかした煙草は……

本ブログ昨年9月6日の項で、ストラヴィンスキーとの関わりで作曲家フロラン・シュミットに言及し、初めて聞く名前とも書いたが、最近わけあってモーリス・ラヴェル関連の文献を読んでいて、その中にラヴェルの音楽学校の同級生としてこの人物が出てきた。ラヴェルもフロラン・シュミットの音楽を相当に認めていたようだ。
ラヴェルはドビュッシーと並び称されることが多いが、年代的にはむしろストラヴィンスキーと並べるのが妥当のようで、二人でムソルグスキーの曲のオーケストレーションの共同作業をしたりもしている。シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」を聴いて感銘を受けたストラヴィンスキーがラヴェルと語らって同じような編成の歌曲組曲をそれぞれが作ったという出来事もある。ストラヴィンスキーと、ラヴェルを含むフランス人作曲家たちとは親しくしていたようであり、それでフロラン・シュミットとストラヴィンスキーとのかかわりも生まれてくるわけだが、H・H・シュトゥッケンシュミット著『モリス・ラヴェル その生涯と作品』(岩淵達治訳、音楽之友社)には次のような記述もある。
「ロシア音楽に対するラヴェルの神経質な感受性は、彼を早くからストラヴィンスキーの先駆者かつ友人に仕立てあげた。一九一〇年から一九三二年に至る年月の間、このふたりの音楽家の間には、親密な一致と多面的な相互関係が存在していた。その関係は、純粋に色彩的なものを越えた和声的、リズム的な語法においても確認できることである。ストラヴィンスキーのバレエ総譜は、『春の祭典』に至るまで、ラヴェルをモデルにした二、三の箇所なしには考えられない。」
またジャン・エシュノーズのラヴェル晩年を描いた小説『ラヴェル』(関口涼子訳、みすず書房)では、1927〜8年のアメリカ渡航時、「ラヴェルは五十二歳で栄光の頂点にあり、世界でもっとも重要視されている音楽家の座をストラヴィンスキーと二分している」との記述もある。互いに認めあった二人だったから、音楽上の有形無形の貸し借りはあるのだろう。
ラヴェルの生涯には、ローマ賞を得られなかった件、ハウプトマンの「沈鐘」のオペラ化を第一次大戦によって断念したこと、悲愴感にみちた従軍のエピソード、死に至る数年の悲劇など、哀切な事どもも多い。そんな中で瑣細なことを持ち出すのは恐縮なのだが、ラヴェルについての謎の一つは、彼が愛好した煙草の銘柄はなんだったのかということだ。シュトゥッケンシュミットの本ではラヴェルは「カポラル」にこだわったと書いてあるが、エシュノーズの本には彼は「ゴロワーズ」をトランク一杯につめてアメリカ旅行に持っていったとある。ラヴェルの音楽に似合いそうなのはどちらだろうか?
(池田康)
posted by 洪水HQ at 16:19| 日記

2023年08月15日

宮崎駿新作とパルジファル

宮崎駿監督の新作「君たちはどう生きるか」は戦時中の一少年の心的体験の物語だが、亡き母が残した一冊の本の表紙に描かれた鳥がアオサギとなって主人公をファンタジー世界に案内するのだとしたら、このファンタジー部分は彼がこの本を読む行為に相当し、夢魔的(神経症的)空想を最大限に羽ばたかせて創造的読書を完遂したのだとも考えられる。
人間の役者を使ってリアリズムベースでドラマや映画にするとしたら、母の妹と父親とがどのように親しくなったか、母と妹との関係、この叔母(継母)と主人公との過去の出会い、などについて近代文学式に丁寧に書き込んで物語を重厚にするところだろうが、そこを省いて一気にファンタジー世界へと飛ぶところがアニメでありジブリの論理なのだろう。
ところで、この「君たちはどう生きるか」は、ワーグナーの舞台神聖祭典劇「パルジファル」にどこか通じていないだろうか?
そんなことは映画を見ている間はまったく考えなかったが(そんなひらめきが即座に出てくるほどワーグナー通ではない)、先日、2008年バイロイト上演の「パルジファル」をMDに録音してあったのを聞き直していて、ふと、そんな考えが浮かんだのだった。ファンタジー(クリングゾルの城)に飛ぶところもそうだが、時代の根幹が負った傷、社会が幾代も引き継いできた深い傷(それは悪でもある)と向き合い、癒しの可能性を問う、という点で近いところがあるように思われる。巨匠が晩年にそのような人類宿痾の問題に目を向け、それをシンボリックな物語の構成の中で神学的にあるいはメルヘンの理法で救済したいという思いと努力は両者に共通する志向として感じられる。老大家の熟れ切ったマナコがなにかを検知し懸命に見定めようとする凝視から、このような超現実の色濃い霊的怪作が生まれてくるのかもしれない。
(池田康)

追記
調べてみたら「パルジファル」の録音は上記のものに加えて、2005年バイロイト、2006年バイロイトと三種類あった。このころはワーグナーに熱を上げていたのだろう。この作品のタイトルは「パルシファル」だと思い込んでいたのだが、諸々の資料で「パルジファル」となっているのでそうしておいた。シンガーがジンガーになるとか、ドイツ語では濁って発音するのだろう。濁音がない方がきれいだが。
今ではFM放送のエアチェックは我が家では難しくなった。そこそこいい音で受信できるのだが、室内アンテナだからか、録音機をオンにすると何か拾うのか少しノイズが出るのだ。ICレコーダーを使う方法もあるが、ステレオミニプラグは不安であるし、音量調整が厄介だし、音声データのまま残しておくのはおぼつかないし、音楽用CDに焼くにしても80分しか収まらないし……と消極的要素が多くて実行する気になかなかなりにくい。
posted by 洪水HQ at 09:05| 日記

2023年08月13日

愛敬浩一著『草森紳一は橋を渡る』

草森紳一は橋を渡る表紙S.jpg愛敬浩一さんの草森紳一論の第三弾『草森紳一は橋を渡る』が完成した。サブタイトルは「分別と無分別と、もしくは、詩と散文と」。〈詩人の遠征〉シリーズの第15巻で、212ページ、税込1980円。
袖の案内文は愛敬さん自身がまとめたもので、
「草森紳一の絶筆≠ニも言うべき連載「ベーコンの永代橋」では、死の間際までマンガ『スラムダンク』読み続け、その意志的な「雑文」のスタイル≠ェ天上の高みへとのぼりつめる。二〇〇八年三月十九日、永代橋近くの、門前仲町のマンションにおいて、草森紳一が七十歳で亡くなってから、十三忌も過ぎた。本書は『草森紳一の問い』、『草森紳一「以後」を歩く』に続くシリーズの第3弾。未刊の連載原稿(副島種臣論など)は、今後どうなるのか。慶応義塾大学中国文学科卒業後、ごく短い編集者生活を経て、様々なジャンルの文章を書き続け、毎日出版文化賞を受賞した『江戸のデザイン』の他、草森紳一の専著は六十四冊(増補版や復刊も含む)、対談本が一冊、共著が一冊。改めて、若き日の『ナンセンスの練習』の重要性に思い至る。」
となっている。
「橋を渡る」とは草森紳一の連想の働き方、思考の歩み方をシンボリックに表現したもので、ことに一つの現実存在「永代橋」は草森自身の生活拠点であり重要とされる。
絶筆の連載「ベーコンの永代橋」を読み込んで草森の雑文スタイルの意味を考える第一部が本書のメインとなると言える。草森論三冊目にして愛敬さんの思考は問題の本丸に最接近したかのようだ。草森紳一晩年の風呂敷を縦横に広げる文筆スタイルをこの時代の批評のもっとも可能性を孕んだあり方の一つとして、愛敬さんは評価しようとしているのではないか、そんな気がする。
第二部では、ドラマ『妻は、くノ一』を出発点とする松浦静山論、小説集『鳩を喰う少女』の「橋」的な眼目、『歳三の写真』の写真術創成期と土方歳三の生涯との交点の考察、対談集『アトムと寅さん』に見る草森の映画観、といった事柄が論じられる。
草森紳一の見えにくい本領にさらに一歩近づく一冊と言えるだろう。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 08:28| 日記