このカリカリは擬音語ではなく、あゝじれったい、むしゃくしゃする、やりきれない!の方の意味である。その一番の要因は、「みらいらん」次号に予定している小特集「『夜のガスパール』と詩の場所」に参加してくれる人を探しているのだがなかなか見つからないこと。テーマが特殊だから仕方がないところもあるが、そうするとほぼ一人で仕上げなければならず、これはひじょうな重圧であり難題だ。
この小特集の資料として書籍をネット経由で古書店に注文するも、待てど暮らせど届かず、諦めかけていたところようやく届いたのだが、スマートレターで投函して8日目に届くという法外なのろさ、ありえない悠長さ、ひょっとしたら誤配達などを経由していたのだろうか、郵便局にはしっかりしてもらいたいもの。
壁画13号を作った。下記リンクからご覧下さい。連休のつれづれのおなぐさみに。
http://www.kozui.net/artnote/hekiga/hekiga13.pdf
(池田康)
2023年09月23日
カリカリの日々、そして壁画13号
posted by 洪水HQ at 12:16| 日記
2023年09月07日
虚の筏32号
「虚の筏」32号が完成しました。参加者は、小島きみ子、生野毅、伊武トーマ、神泉薫のみなさんと、小生。下記リンクからご覧下さい。
http://www.kozui.net/soranoikada32.pdf
なお今回は、この夏に出会った百合たち(山百合、鬼百合、かのこ百合、鉄砲百合とその亜種)で飾った。
ついでに。
この夏は「星時計の書」という詩誌の制作にもかかわりました。こちらもご覧になる機会があったら注視していただければ幸いです。
(池田康)
http://www.kozui.net/soranoikada32.pdf
なお今回は、この夏に出会った百合たち(山百合、鬼百合、かのこ百合、鉄砲百合とその亜種)で飾った。
ついでに。
この夏は「星時計の書」という詩誌の制作にもかかわりました。こちらもご覧になる機会があったら注視していただければ幸いです。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 09:02| 日記
2023年09月02日
日々つづる思索の書
清水茂『カイエ・アンティーム』(土曜美術社出版販売)は昨年11月に刊行されたものだが、いただいたもののずっと棚上げになっていた。1983年から2001年にいたる日記のような覚書きを集めた550頁を越える大冊であり、ちゃんと読み通す根気を維持するのは難しそうで。
今回、本の山から取り出してみると、白いカバーが少し汚れてしまっていて、それで申し訳なく思い、現在の自分の関心に重なるような記述はないかと、かなり丁寧に頁を繰ってみた。
音楽についての覚書きが目につく。清水さんとは何度かお話しする機会があったが、音楽の話は出なかったので、これは意外だった。ミカラ・ペトリやフランス・ブリュッヘンといった木管楽器(リコーダー、フルート)の名手についての記述があり、これらの人たちの演奏は私も妙に感じるところがあって、たとえばブリュッヘンが演奏するコレッリのソナタはそんな特別な名曲というのでもない一通りのバロック音楽だが、なぜか聴き入ってしまうのだ。
ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場の「フィガロの結婚」を上野の文化会館で見た感想は熱が入っていて、モーツァルトの天才ぶりが力説される。私もつい最近DVDでカール・ベーム&ウィーンフィルの「フィガロの結婚」(1975年。往年の名歌手たちが出演している。映像は舞台そのままではなく別撮りで映画風に再構成されていて変な感じもする)を視聴し、モーツァルトはなんとしてもオペラ作品を聴くべしと痛感したところだったので、共感するところ大だった。
395頁の詩人論、403頁の夢論も目に留まる。夢といえば、最後のセクション「雲の動きのように1999-2001」では実際に見た夢の記述がいくつか残されていて、清水氏の意識が今そこにあるかのように生々しい。
次のような率直な、研ぎ澄まされた記述もある。
「いまここに、私はいて、ほとんどもののレヴェルで存在していて、その限りではテーブルや椅子やコーヒー茶碗と何ら変りないのに、その私がこうして考えたり、書いたりしているということの不思議さ。これはほとんど奇蹟のようなものだ。このことの最良の部分を愚にもつかないつまらないことのために費い尽してしまってよいものだろうか。」
この本に劇的なハイライトがあるとすれば、イヴ・ボヌフォアが愛媛県の正岡子規国際俳句賞第一回大賞を受賞して講演のために来日した時、駆けつけて再会を果したシーンだろうか。歓喜の特別の輝かしさが感じられる。
清水茂氏は2020年1月に逝去されている。
(池田康)
追記
アーノンクール&ウィーンフィルの「フィガロの結婚」(2006)もDVDで視聴、こちらは舞台上演をそのまま映像にしていて(ところどころで拍手も入る)、この方がポエジーの成分が多いような気がするのは、演出家の劇創造のリズムと狙いが純正な形で響いていくるからだろうか。「辛口の演出」と形容されていて、コメディであるはずの劇が今にもシリアスな出口なしへと突っ込んでいきそうな危うさがある。
posted by 洪水HQ at 18:00| 日記