2023年09月02日

日々つづる思索の書

清水茂『カイエ・アンティーム』(土曜美術社出版販売)は昨年11月に刊行されたものだが、いただいたもののずっと棚上げになっていた。1983年から2001年にいたる日記のような覚書きを集めた550頁を越える大冊であり、ちゃんと読み通す根気を維持するのは難しそうで。
今回、本の山から取り出してみると、白いカバーが少し汚れてしまっていて、それで申し訳なく思い、現在の自分の関心に重なるような記述はないかと、かなり丁寧に頁を繰ってみた。
音楽についての覚書きが目につく。清水さんとは何度かお話しする機会があったが、音楽の話は出なかったので、これは意外だった。ミカラ・ペトリやフランス・ブリュッヘンといった木管楽器(リコーダー、フルート)の名手についての記述があり、これらの人たちの演奏は私も妙に感じるところがあって、たとえばブリュッヘンが演奏するコレッリのソナタはそんな特別な名曲というのでもない一通りのバロック音楽だが、なぜか聴き入ってしまうのだ。
ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場の「フィガロの結婚」を上野の文化会館で見た感想は熱が入っていて、モーツァルトの天才ぶりが力説される。私もつい最近DVDでカール・ベーム&ウィーンフィルの「フィガロの結婚」(1975年。往年の名歌手たちが出演している。映像は舞台そのままではなく別撮りで映画風に再構成されていて変な感じもする)を視聴し、モーツァルトはなんとしてもオペラ作品を聴くべしと痛感したところだったので、共感するところ大だった。
395頁の詩人論、403頁の夢論も目に留まる。夢といえば、最後のセクション「雲の動きのように1999-2001」では実際に見た夢の記述がいくつか残されていて、清水氏の意識が今そこにあるかのように生々しい。
次のような率直な、研ぎ澄まされた記述もある。
「いまここに、私はいて、ほとんどもののレヴェルで存在していて、その限りではテーブルや椅子やコーヒー茶碗と何ら変りないのに、その私がこうして考えたり、書いたりしているということの不思議さ。これはほとんど奇蹟のようなものだ。このことの最良の部分を愚にもつかないつまらないことのために費い尽してしまってよいものだろうか。」
この本に劇的なハイライトがあるとすれば、イヴ・ボヌフォアが愛媛県の正岡子規国際俳句賞第一回大賞を受賞して講演のために来日した時、駆けつけて再会を果したシーンだろうか。歓喜の特別の輝かしさが感じられる。
清水茂氏は2020年1月に逝去されている。
(池田康)

追記
アーノンクール&ウィーンフィルの「フィガロの結婚」(2006)もDVDで視聴、こちらは舞台上演をそのまま映像にしていて(ところどころで拍手も入る)、この方がポエジーの成分が多いような気がするのは、演出家の劇創造のリズムと狙いが純正な形で響いていくるからだろうか。「辛口の演出」と形容されていて、コメディであるはずの劇が今にもシリアスな出口なしへと突っ込んでいきそうな危うさがある。
posted by 洪水HQ at 18:00| 日記