2023年12月31日

突き抜けていく矢

矢の如し、というが矢よりも速いのではないかと疑うくらい、あっという間に大晦日だ。
「みらいらん」13号はなんとか無事完成した。
書店によってはすでに店頭に出ているところもあるかもしれない。といっても、取り扱いいただけるのはわずかの数の店に限られるが。
いろんな方へお送りするのは、もうしばらくしてからになりそう。運送会社の業務が正月三が日以後でないと本格化しないようなので。
この号の内容の案内も、もうしばらくしてからにさせていただく。
どうかよいお年を。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 19:49| 日記

2023年12月22日

四人組とその仲間たち2023

昨夜、「四人組とその仲間たち2023」のコンサートを東京文化会館小ホール(上野)で聴いた。プログラムは、西村朗「オン・マニ・パドメ」&「カラヴィンカの歌」、金子仁美「恒星」、長生淳「モートゥス・アニミ」、新実徳英「荒地」、池辺晋一郎「ちろ そろ ちろそろ」。
9月7日に急逝した西村朗さんが本公演のために準備していたのが無伴奏チェロ曲「オン・マニ・パドメ」。曲は完成しなかったが、作曲家の考えを受け取った山澤慧氏(vc.)が足りない部分を補って演奏した。西村さんの曲はいずれも緊密で力強いという特質があるが、遺作のこの曲は大部分が低音の狭い音域をさまよい(一時的にかすれた高音も奏でられる)、弱さが終始前面に出ていて、最期の声を聴いているようで悲痛だった。「カラヴィンカの歌」も無伴奏チェロ曲で、やはり山澤氏によって演奏されたが、ウィーンフィルの首席チェロ奏者のために2017年に書かれた曲とのこと、コダーイの無伴奏チェロ・ソナタに接続する曲として構想された。タイトルは「迦陵頻伽」を意味するらしい。堂々とした大曲という印象があり、緊密で力強く、このころはまだお元気だったのだ。チェロがこんなによく鳴る楽器なのだと改めて驚嘆した。
金子仁美「恒星」は「3Dモデルによる音楽XIII〜西村朗氏に捧ぐ〜 ヴァイオリンのための」というサブタイトルがついている。金子氏はきつい前衛路線を追求する人という印象があり、そのようなノイズにみちた楽音が発せられる部分もあったが、ヴァイオリンという楽器の本然の「うたごえ」が朗々と美しく持続する場面もあり、そのバランスが聴き所と思えた。「恒星にあっては、重力によって水素が圧縮され、ヘリウムに変化する。この作品では、素材としてのヘリウム原子が核となる。星は、水素がヘリウムに変化するプロセスで生まれる膨大なエネルギーにより光を放つ。それは私にとって西村さんの音楽と重なる。」(パンフレットより) 無伴奏ヴァイオリン曲を作るのは勇気がいるだろうが、よく練られた構築が感じられて弾き甲斐がありそう。vn.=玉井菜採。
長生淳「モートゥス・アニミ」(心の動き、の意)は「2人のサクソフォン奏者のための」のサブタイトルを伴う。3つの楽章からなり、それぞれ「喜」「怒」「哀」を表現していると言う。サックスという楽器の機敏な運動性が存分に発揮されていた。それはジャズにあっても聴けることだが、この曲のように2台のサックスが時計の歯車が噛み合うように緻密に音を合わせて有機的・有目的的に音楽を構築するというのはジャズではないだろう。スケルツォというか嬉遊曲風に遊ぶ場面も多い中、第3楽章がもっとも真率さが強くこもっていて心に迫った。sax.=彦坂眞一郎・彦坂優太(二人は父子とのこと)
新実徳英「荒地」は、T.S.エリオットの詩「荒地」に基づいて書かれた曲で、作曲者いわく「エクフラシス」─詩や絵画のエッセンスを音楽に移し替える意味らしい─を方法論とする。ピアノと打楽器(ドラムセットとビブラホン)という編成。とても若々しく、奔放で冒険的で、どこかシュルレアリスティック。それはこの曲の根本的な「柔構造」から来ているのだろうか。つまりピアノと打楽器は音楽としては合わせなければいけないのだが、精確に合わせるのが非常に難しく書かれていて、つねに細かな亀裂が一瞬走っては消えるという危うげな感覚が曲全体を揺らめかせる。きしんだりぶつかったりという不可測の運動が得体の知れないものを追求する若々しさをもたらしていて、そこがなんとも愉快だった。この両パートのきしみは、詩における音韻と意味連関との交錯、さらには書き手であるエリオットと詩の「編集」にかかわったエズラ・パウンドとの関係をも反映すると夢想したくなる。パンフレットの曲説明で作曲者は「スリリング」「奇妙な歪み」といった表現を使っていて、きわめて意図的な制作だったことがうかがわれる。「豊穣と荒廃、秩序と無秩序、……文明とその終末」という詩の読解のイメージを内側に投影した、不埒な生命を帯びた音楽作品と言えるだろうか。pf.=中川俊郎、per.=上野信一
池辺晋一郎「ちろ そろ ちろそろ」はハーモニカとピアノの曲。タイトルは大手拓次の詩「夜の時」の一節とのこと。この曲もまた詩とのコレスポンダンス(交感)を根とするのだ。ピアノもハーモニカもヴァイオリンなど弦楽器と違って音程がはっきり決まっている楽器であり、音程関係の構築を「うた」に変換する技の冴え渡ること、名人の域と思われた。こちらも名人芸のハーモニカの音色は強く惹かれるものがあった。harm.=和谷泰扶、pf.=石岡久乃
第一部と第二部の冒頭、池辺・新実両氏が西村朗追悼の言を舞台上で話されたのも心打たれることだった。
(池田康)
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2023年12月19日

トークイベントと『全身詩人 吉増剛造』

南青山MANDALAで昨夜、吉増剛造・萩原朔美両氏のトークイベント「映像往復便(新作)をめぐって… 石が浮いた!」が行われた(司会は樋口良澄氏)。このタイトルは、先般前橋文学館で開催された吉増剛造展に関連して、両氏が短い映像作品を往復書簡のように取り交わした経緯を指していて、石が浮いたというのはその第一信の萩原朔美作品で利根川の河原の石が浮かび上がる魔法の驚嘆から来ている。萩原朔美さんは朔太郎の孫で、映像作家で前橋文学館館長、かつては寺山修司の劇団天井桟敷の一員だった。その関係で寺山の話題も多く出てきて、そそられた。水のゆらめきを帯びる景、カウベルとサヌカイトとハンマーの音楽、鳥瞰図ともぐら図の反転関係など、話題は尽きず。
後半は、吉増さんの久し振りの詩の新作(「現代詩手帖」1月号に掲載予定とのこと)についての話とその朗読。石巻の大川小学校に赴いて見た赤いランドセル、それは東日本大震災で犠牲になった児童(ハナちゃんという少女)のもので、目にして衝撃を受け、それをモチーフにして詩を作ろうとしたのだが、なかなかうまくいかず、1年数ヶ月もかかってやっと完成したという話だった。これで、思い当たることがある。「みらいらん」11号(今年1月刊)で吉増さんから詩をご寄稿いただいたのだが、その制作の過程で、昨年秋口の頃には、赤いランドセルの詩になりそうとおっしゃっていたのだ。それが実際に頂いたのはヨナス・メカスの追憶の詩「光」だった。つまりそのときは赤いランドセルの詩を書くことがどうしてもできず結局一年半以上かかった、ということだろう。テーマが崇高すぎたか、小学生の少女を知らず姿が見えてこなかったのか、その辺は分からないが、「怪物君」では迸るように何百行も何千行も滔々と書いた詩人が、この小さな作品で立ち尽くして一年以上も沈黙するというのは尋常ならざることだ。朗読は激しいものだった。十年ほど前に聴いた吉増さんの詩の朗読は優しげにうたうようなかんじだったのが、今年4月に恵比寿の書店Nadiff a/p/a/r/tのイベントで聴いたときはすごぶる荒々しくて驚き、今回もギンズバーグではないが獣が「吠える」ようで、異形の声を目前の空間に魔のように呪符のように現出させようとする気迫があった。小品ながら、吉岡実の「死児」と響き合うもの(悲痛な遥かさ?)があるような幻覚もかすかにおぼえた。

さて、林浩平著『全身詩人 吉増剛造』(論創社、2600円+税)が誕生した。288頁に林さんの吉増論がみごとに凝集している。林さんのクリティックとしての運動神経、視野と度量の広さを感じさせる一冊だ。詩に携わる人間は実はなかなか詩人・吉増剛造を正視して適切な評言を記すことができない。矩(のり)をこえずという表現があるが、吉増さんは矩をこえて、こえて、どんどんこえて進む人であり、儒教的窮屈さを笑う老荘の蝶であり、見えない細々した矩に従順に詩を書く多くの人間たちにとっては捕まえようがない、批評の俎板に載せようがないといったところがあり、ちょっとした吉増論を書くにしても横目でちらっと見て印象記風の書き方をしてしまう。むしろ、美術館で吉増剛造展をやったときの図録の学芸員たちの論考の方が真摯にこの詩人の仕事に向き合えていると感じた。だからこそ、林さんが今回のこの本で真向から詩人・吉増剛造を見つめ活動全域にわたって批評的記録を残そうという大仕事を完遂しているのには心底驚嘆するし、その思想的裏打ちをそなえた分析にも学ぶところ大なのだ。さらには、この本を読むと、吉増さんの詩業が美術館で展覧会として世に紹介されたりテレビで活躍されたりという目覚ましい展開の裏には林さんが仕掛人として活躍していたことが分かり、唖然とするばかりだ。
本書で最も鮮烈に印象に残ったのは往復書簡の次の箇所。
「吉増さんの「詩を彫刻態に」とは、まさに若林奮流の、存在論としての作品展示=彫刻態化を詩に対して行うことと受けとめました。そうなれば、書物の物理的形態から離れて、詩人には美術館のホワイトキューブの空間こそが必要になるのです。」
ホワイトキューブの空間、これは際立ったイメージだ。吉増剛造は紙という文字にとって絶対的なタブララサから離れて時空四次元の「ホワイトキューブの空間」を詩のタブララサとすることとなった、と読める。もっともこの詩人は、つるつるのホワイトキューブよりも街の雑踏や野原の草や石のほうがいいよと言うだろうが。
この本、書店にはクリスマスの頃に出るそうだ。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 15:57| 日記

2023年12月11日

『ニジンスキー 踊る神と呼ばれた男』

みらいらん13号をようやく印刷所に入れたところ。今回は小特集「『夜のガスパール』と詩の場所」を作るのが大変で精力の大部分がそちらに行ってしまっていたので、なにかとんでもないポカをやらかしていないかと心配。
さて、ある方から示唆を頂いていた、今夏に刊行された鈴木晶著『ニジンスキー 踊る神と呼ばれた男』(みすず書房)を読む。ワツラフ・ニジンスキーの悲劇的な人生が詳細に辿られる、と同時に、バレエ史の要点となるもろもろの局面も丁寧に記されるので、この舞台芸術ジャンルへの見晴らしがぐんと広がる。伝説のディアギレフのバレエ・リュスもこの本の流れで成り立ち・展開を親しく辿ってみると、ずいぶん行き当たりばったりのどたばたした興行プロジェクトだったことがわかる。
それから妹のブロニスラワ・ニジンスカが重要人物のようだ。兄と同じく帝室バレエ学校のエリートダンサーであり兄に従ってバレエ・リュスに加わり、仕事の手伝いをしただけでなく、ニジンスキーの精神病発症後、バレエ・リュスや他のグループの重要な演目(「ボレロ」をふくむ)の振付けをやったりしているようだ。ブロニスラワが振付けした「結婚」(1923)がバレエ・リュスの最高傑作であるという記述もあり、1910年代前半を越えてそんなあとあとまで勢いを保っていたということで、バレエ・リュスが想像以上に奥行きと広がりのある舞踊作品創造の運動だったという感触が得られる。
「ラ・シルフィード」はショパンの作品をオーケストレーションし耳触りの良い軽音楽にしたもののような思いなしだったが、バレエの歴史的重要演目だということはこの本で教えてもらった。ニジンスキーがラヴェルに頼んで新たに作ってもらった「ラ・シルフィード」があったようで、興行がうまくいかず楽譜は散逸してしまったとあり、ラヴェルの研究書に載っている作品目録にも「ラ・シルフィード」は未発見となっていて、これは惜しいことだ。実はみらいらん13号の小特集のためにラヴェルの資料を何冊も読んだのだが、バレエの曲に関しては本書を読むとダンサー側の物語が鮮やかに立ち上がってきて、パズルのピースがぴたりとはまる爽快な感覚があった。
ニジンスキーの舞踊の映像がまったく残っていないというのも驚き。当時は映画の黎明期から成長期へ、という段階だったろうが、チャップリンにも会っているのだから、フィルムが残っていてもよさそうなものだ。
ニジンスキーの結婚を裏切りと感じ、断絶を決意したディアギレフと、この絶縁によっておかしくなっていったニジンスキー、という奇妙で無残な成り行きの痛ましさが最終的な読後感として焼きついて留まる。ディアギレフの案外な純情さがニジンスキーを殺したということか。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:12| 日記