一人の詩人がどのように詩を書くかを詳細に語ってくれるとしたら、それは定めし興味深い話になるだろう。
高階杞一氏のこのエッセイ集(昨年夏刊行、澪標)はまさしくそんな本だ。若い頃からいかにして詩の世界に足を踏み込み、どのような試行錯誤を経て自分の詩の道を築いてきたかが平明にセキララに語られる。余計な肩の力が入ってないところがこの詩人らしい。
「スタイル」を重視する、というのは、方法論とか趣向といった言い方もできるのだろうか、藤富保男経由でシュルレアリスムやモダニズム、“詩的冗談”を取り込んだ上は、どんな冒険もできたのだろう。そこから、家族の不幸を経ての『早く家へ帰りたい』での虚飾を排した自然体での書き方への帰着は、悲劇的にして劇的。
高階さんの人柄がよく出ているエピソードは、自作の曲を約半世紀前の時点ながら自前でオープンリールレコーダーに録音してレコードを自主制作したり、高価な日本語タイプライターを入手して同人誌をこしらえたり、誰しも夢想はしてもなかなかできないところまで果敢に踏み込んで自力でやってしまうバイタリティというか何でも屋の工の(ホモ・ファベル的?)好奇心が強健で楽しい。演劇やマンガから詩のヒントを上手に摘み取るところもこの人のこだわりのない全方向性を示す。
自分の詩に「空」とか「遠い」といった言葉が多く出てくるのはなぜかを探る章では、他人(神尾和寿・藤富保男・山田兼士)の批評の言葉を全面的に信頼し依拠しながら考えようとするところにこの人の人間性のよさが滲み出ていると言えそう。
最後になるが……大昔、詩の雑誌に投稿していたころ知った同年代の詩人たちのことを語る本書の最初の数章は、消息不明になった人も多く、ペーソスというよりももう少しうら淋しい、淡い悲哀が感じられ、印象に残った。
(池田康)
2024年02月24日
高階杞一『セピア色のノートから ─きいちの詩的青春記─』
posted by 洪水HQ at 09:28| 日記
2024年02月18日
物語と場所に関するとりとめのない考察
ポール・オースターは「闇の中の男」の中で小津安二郎監督の映画「東京物語」のことをかなり詳細に論じている(登場人物に語らせている)のだが、映画の中の老夫婦が住んでいる場所はわからない(映画の中で語られなかったか聞き逃した)と書いている。その場所の地理的知識がなくてもこの映画を十分に鑑賞できるんだと興味深く思ったのだが、実は私もうろ覚えで岡山だと思い込んでいて、ある集まりでそう発言したら、いや尾道でしょうと訂正された。尾道は広島県だから間違いと言っても大きくはずしてはいないのだが、とにかく首都からそのくらいに離れた中国地方の町に老夫婦は暮らす、しかも新幹線がまだない頃だから汽車で何時間もかかる、そのことを念頭に置きながら我々は見るので、旅の大変さは物語の中でたしかに一つの要素を成す。かといってロード・ムービーというわけでもない。尾道から出発して同じ場所に戻って来る往復が予め物語の結構として決定しているわけで、これはさしたる目的もなく任意の場所を移動する(そして究極的にはどこぞで無意味に客死する)、台本の存在が希薄なロード・ムービーの開放形のあり方とは異なる。
同じことが現在公開中の映画「哀れなるものたち」(ヨルゴス・ランティモス)にも言え、ロンドンから始まりヨーロッパの各地を遍歴しロンドンに戻ってくる道中はロード・ムービー的側面がなくはないが、全体としては堅牢な円環運動になっていて、主人公ベラの出自の謎の解明の関係でこうするほかないと考えられるので、ロード・ムービーのあり方とは相容れない。リスボン、アレキサンドリア、パリという諸都市は我々も漠然とイメージでき、南欧・地中海の地図がぼんやり浮かんでくるが、リスボンやアレキサンドリアの描かれ方からするとその当時のリアルな都市描写というわけでもなさそうだ。
以上のことは大枠でそう言えるという話だが、「東京物語」では老夫婦の戦死した息子の嫁の紀子は身の寄せどころが覚束なく、寄る辺ないという点でロード・ムービー的雰囲気を帯びていると言えるし、「哀れなるものたち」では主人公を誘惑して旅へ連れ出した弁護士の予定外の身の破滅はなにやらロード・ムービーぽい。
人生というものの素の姿は台本を欠いたロード・ムービー型の不安定なものであろうが、それを確固と設計された型にもっていき安寧を築きたいという台本主義の願望はつねにあるだろう。その機微が映画の作りと重なる。
最近見た「KAMIKAZE TAXI」(1994、原田眞人)は東京と伊豆をめぐるロード・ムービーと紹介されることもあるようで、たしかにその要素は強く感じられるのだが、主人公のタツオは最終的には復讐の成就のために出発点に戻ることを固く決心しているわけだからロード・ムービーの型にははまらない。他方、彼に付き添うもう一人の主人公のタクシー運転手・寒竹にとってはこれはほぼロード・ムービーそのものであり、彼の父親の代からの家族の遍歴を思うと一層その無残な故郷喪失ぶりが切ない。そのような台本レベルの混ざり具合がこの作品の個性を成しているのだろう。
「闇の中の男」にもアメリカの地名がたくさん出てきて、なんとなく聞いたことのある地名だなぐらいで具体的にイメージするに至らぬまま読み流してしまうのだが、合衆国に暮らしその歴史と地理に精通する読者ならばもっと立体的なイメージを持ってこのやたらとフィクショナルな(台本を書き切っていない感じの)物語を読むのだろうと推測する。
追記。「哀れなるものたち」の音楽(イェルスキン・フェンドリックス)は異様に奇怪ながら一つ一つのシーンにぴたりとついていて、驚愕だ。
(池田康)
同じことが現在公開中の映画「哀れなるものたち」(ヨルゴス・ランティモス)にも言え、ロンドンから始まりヨーロッパの各地を遍歴しロンドンに戻ってくる道中はロード・ムービー的側面がなくはないが、全体としては堅牢な円環運動になっていて、主人公ベラの出自の謎の解明の関係でこうするほかないと考えられるので、ロード・ムービーのあり方とは相容れない。リスボン、アレキサンドリア、パリという諸都市は我々も漠然とイメージでき、南欧・地中海の地図がぼんやり浮かんでくるが、リスボンやアレキサンドリアの描かれ方からするとその当時のリアルな都市描写というわけでもなさそうだ。
以上のことは大枠でそう言えるという話だが、「東京物語」では老夫婦の戦死した息子の嫁の紀子は身の寄せどころが覚束なく、寄る辺ないという点でロード・ムービー的雰囲気を帯びていると言えるし、「哀れなるものたち」では主人公を誘惑して旅へ連れ出した弁護士の予定外の身の破滅はなにやらロード・ムービーぽい。
人生というものの素の姿は台本を欠いたロード・ムービー型の不安定なものであろうが、それを確固と設計された型にもっていき安寧を築きたいという台本主義の願望はつねにあるだろう。その機微が映画の作りと重なる。
最近見た「KAMIKAZE TAXI」(1994、原田眞人)は東京と伊豆をめぐるロード・ムービーと紹介されることもあるようで、たしかにその要素は強く感じられるのだが、主人公のタツオは最終的には復讐の成就のために出発点に戻ることを固く決心しているわけだからロード・ムービーの型にははまらない。他方、彼に付き添うもう一人の主人公のタクシー運転手・寒竹にとってはこれはほぼロード・ムービーそのものであり、彼の父親の代からの家族の遍歴を思うと一層その無残な故郷喪失ぶりが切ない。そのような台本レベルの混ざり具合がこの作品の個性を成しているのだろう。
「闇の中の男」にもアメリカの地名がたくさん出てきて、なんとなく聞いたことのある地名だなぐらいで具体的にイメージするに至らぬまま読み流してしまうのだが、合衆国に暮らしその歴史と地理に精通する読者ならばもっと立体的なイメージを持ってこのやたらとフィクショナルな(台本を書き切っていない感じの)物語を読むのだろうと推測する。
追記。「哀れなるものたち」の音楽(イェルスキン・フェンドリックス)は異様に奇怪ながら一つ一つのシーンにぴたりとついていて、驚愕だ。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 16:14| 日記
2024年02月15日
東京ウィメンズ・コーラル・ソサエティ
昨夜、東京ウィメンズ・コーラル・ソサエティのコンサート「作曲家個展シリーズVol.4 新実徳英」を聴いた(渋谷区文化総合センター大和田・さくらホール)。岸信介指揮。曲目は、1.「三つの優しき歌」(詩・立原道造)、2.「無声慟哭」(詩・宮沢賢治)、3.「愛のうた 三題」(詩・吉原幸子・谷川俊太郎、委嘱初演作品)、4.「われもこう」より(詩・谷川雁)。
この合唱団は、寸分たがわぬ鋭角的な精密さというのはさほどないかもしれないが、音を重ね合わせるときの果敢さ、嫋々と詠唱する歌心のふところの深さがあり、たとえば四曲目の「われもこう」は「白いうた 青いうた」から派生した組曲で、これは児童合唱のイメージが強くてかわいい小ぶりの楽曲のような気がしていたが、この合唱団がうたうとふくよかな構えの大曲であるかのように聞こえる。またソプラノにオペラ歌手のような発声ができる人がいるのか、その力強い発声が勘所でよく効いて、あたかもオペラのクライマックスを聴くかのように耳にガツンと響いてくる。これは合唱コンサートとしては珍しい体験だった。
「三つの優しき歌」では第二章「落葉林で」がとても聴きごたえがあった。ときに異次元の奇妙な響きを発しながら幾層も重なる歌声の大きな流れがゆるやかに変遷していくさまが刺戟的。第三章「夢みたものは…」の明るさも心に残る。
「無声慟哭」は“修羅”の寂しさとでもいうべきものが強く感じられた。ある方への追悼の意が込められた曲とのこと。
今回初演の新曲「愛のうた 三題」は新実さん本人が指揮をしての演奏。立原道造や宮沢賢治なら漠然と作品世界がイメージできるが、吉原幸子と言われてもなかなかイメージが像を結ばない。詩テキストがパンフレットに載っているとよかったのにと思ったが、音楽を聴いていると、戦後現代詩の苦いエスプリが浮かび上がるように作曲されていることが分かり、そこら辺で作曲意図がなんとなく伝わるような気がした。
このコンサートのどの曲も伴奏のピアノはかなりの程度独立独歩の動きをしていて、よくこれでうたえるなと思うのだが、経験を積んだ合唱団はそんなこと苦にしないのだろう。器楽と声楽のとても効果的なアンサンブルを成していた。
(池田康)
この合唱団は、寸分たがわぬ鋭角的な精密さというのはさほどないかもしれないが、音を重ね合わせるときの果敢さ、嫋々と詠唱する歌心のふところの深さがあり、たとえば四曲目の「われもこう」は「白いうた 青いうた」から派生した組曲で、これは児童合唱のイメージが強くてかわいい小ぶりの楽曲のような気がしていたが、この合唱団がうたうとふくよかな構えの大曲であるかのように聞こえる。またソプラノにオペラ歌手のような発声ができる人がいるのか、その力強い発声が勘所でよく効いて、あたかもオペラのクライマックスを聴くかのように耳にガツンと響いてくる。これは合唱コンサートとしては珍しい体験だった。
「三つの優しき歌」では第二章「落葉林で」がとても聴きごたえがあった。ときに異次元の奇妙な響きを発しながら幾層も重なる歌声の大きな流れがゆるやかに変遷していくさまが刺戟的。第三章「夢みたものは…」の明るさも心に残る。
「無声慟哭」は“修羅”の寂しさとでもいうべきものが強く感じられた。ある方への追悼の意が込められた曲とのこと。
今回初演の新曲「愛のうた 三題」は新実さん本人が指揮をしての演奏。立原道造や宮沢賢治なら漠然と作品世界がイメージできるが、吉原幸子と言われてもなかなかイメージが像を結ばない。詩テキストがパンフレットに載っているとよかったのにと思ったが、音楽を聴いていると、戦後現代詩の苦いエスプリが浮かび上がるように作曲されていることが分かり、そこら辺で作曲意図がなんとなく伝わるような気がした。
このコンサートのどの曲も伴奏のピアノはかなりの程度独立独歩の動きをしていて、よくこれでうたえるなと思うのだが、経験を積んだ合唱団はそんなこと苦にしないのだろう。器楽と声楽のとても効果的なアンサンブルを成していた。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 12:01| 日記