2024年03月27日

文旦を食べて若返る

3月後半は、「みらいらん」次号特集の座談会を収録したり、「詩素」誌の研究会を開いたり、新しい仕事の打合せで遠方への出張があったり、それぞれジャンルや方向性がちがっていて気の安まる暇がなく、歳を三つほど余計に重ねてしまいそうな、かつてなく乗り越えるのが大変な十日間だった。やっとその難所を抜けて一息ついたところ。
そんな忙しい中での大いなる慰みは、パール柑を四つほど食べたことだろうか。たまたま今年は文旦を食べたいなと思っていて(そういえば去年もそう思っていたが果せなかった)、しかし近所の店では扱っておらず、ネット販売を利用するのも面倒だしと二の足を踏んでいたが、ちょっと離れたところにパール柑を置いている店があってラッキーだった。文旦とパール柑とどれほどの違いがあるのか知らないが(私としてはパール柑と言うよりも文旦とかザボンとか呼びたい気持ちが強い)、ひとまずこれで念願の文旦を食べたことにしておこうと独り決めしている。
この大型柑橘類の特徴は皮をむきにくいところ。悪戦苦闘。とにかく手こずる。しかし外側の皮をむいてしまえば、中の果肉はすごぶる素直だ。その味覚のすっと来る素直さ、透明さが魅力だろうか。四月が到来するまでにもう一つ二つ食べて若返りたい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 09:06| 日記

2024年03月10日

『玉井國太郎詩集』

カバー画像3.jpg『玉井國太郎詩集』が完成した。
A5判上製、220頁。2200円(本体2000円+税)。2024年3月23日発行。
火野葦平の家系につらなり、高校時代から文学を志し、ジャズを中心にピアニストとして活動するかたわら、1980〜90年代に「ユリイカ」などに硬質でイメージと霊感に満ちた詩を発表し、2010年に自死した、音楽と詩の領土を自由に行き来した詩人・玉井國太郎の詩業を妹・友田裕美子さんの編集で一冊にまとめたもの。作家の多和田葉子さんらとともに高校から文学の創作に取り組んだ彼の詩は、現在確認できる限りで30年の間に30篇余りと、作品数は多いとは言えないが、いずれも緻密に香り高く書かれており、この一冊にその全てが網羅されていると言える。
帯には多和田さんの文章を使わせていただいた。次の通り。
「わたしたちの脳の中の映画館は自己欺瞞で一杯だ。鳥はいつも空より小さいと思い込んでいる。だから歴史が見えないのだろう。玉井君の詩は空を見せてくれる。地球の滅亡直前の時間を踊る人たちの姿の中に、詩人個人の死の原因を捜しても仕方がない。映像化しようとする機能を止められないまま映像化できない言葉を一つ一つ読んでいきたい。多和田葉子」
これは「ユリイカ」2011年9月号で玉井國太郎追悼の記事企画が組まれたとき、多和田さんが寄稿された文章の一部であり、「鳥はいつも空より小さいと思い込んでいる。」という部分は詩集冒頭に収録された「或る報告(鳥の影の下で)」の最初の数行にかかわっている。引用すると、

 地鳴り
 一つの空の大きさの鳥が
 眼差しの幅いっぱいに立ち上がる
 羽ばたきはなく
 輪郭は水蒸気にうすれ
 もたげたくちばしは天頂に溶けている
 うごかない一つの眼には
 星を撃ち落とす知識をたたえ
 時をこわし
 この世の悪を数えることに罪はなかった
 (後略)

詩作品に加えて、合唱曲の歌詞として書かれた「26人格のアリア ─合唱のためのドラマ─」も収録。
詩人の最期の場面を書き留めた友田さんのエッセイ「みぞれを絡う桜」も収める。
カバーと表紙には詩人と親しかった画家の井上直さんの線描が使用されていて、これは玉井國太郎がピアノを即興的に弾くのを聴きながら描いたものとのこと。さらに本文中には井上さんの絵画作品「伝説の森で a」「使者を待つ森 B」が口絵として収録されている。
装丁は友田裕美子さんの希望をぎりぎりまで取り入れながら巌谷純介氏が制作した。
重厚な造本の一冊、ぜひ手に取ってご覧いただきたい。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 08:37| 日記

2024年03月04日

作曲家・伊藤祐二の音楽

昨夜、井上郷子ピアノリサイタル#33「伊藤祐二作品集」を東京オペラシティ・リサイタルホールにて聴く。作曲家・伊藤祐二氏は井上さんの伴侶であり、小誌「みらいらん」の音楽のページに毎号執筆して下さってもいる。このリサイタルでは氏の若い頃(約半世紀前)から現在までの作品が並び、その乱れのない足跡を辿ることができ、最初の一歩から方法論や志向が一貫していたのだなと個性というものの確かさに感銘を受けたことだった。
伊藤氏の作曲は、音を音として存在させることに集中する。旋律とかリズム構成とか、ふつう音楽を作る上で重視される事柄にさほど意を払わない。「私は、関係性の中から、それら一つ一つの音を聴き出すことに興味があり、それ以上の高次の構造には興味が無い」と言い、「雲の背後に隠れていた月が雲間から現れ、輝く瞬間。「表現」とは無縁の、すばらしく魅力的な現れの瞬間。曲の始めから終わりまで、現れるすべての音一つ一つが、そのような美しい現れとして聴こえるような音楽を夢想する。」とも言う。
このような志向は、若い頃、松平頼暁、近藤譲といった上の世代の作曲家たちに親近したことにもよるのだろう。音楽の通常の魅力には背を向け、お決まりの型の罠にはまらないように距離をとり、音に真向かうという音楽の論理的原点の姿勢を堅持する。この「距離」が氏の「詩」の初期条件をなすのだろう。リズムであおるでもなく、ユーモアを醸すでもなく、酔いを排除して淡々と音を並べて、特徴のなさそうにも見える音風景を作っていく行為は、ポップスや19世紀までのクラシック音楽に馴染んだ耳にはとっつきにくく、困惑を覚えなくもないが、しかし氏の専一なる半世紀の歩みを思うと厳粛さに刺し抜かれる。
リサイタルの前半は、「ゆるぎなき心」(2019)、「振り返り I」(1977)、「ソロイスト」(1996)の3曲。この中では最後の「ソロイスト」が奇妙な音や濁った音が多く出て来て良い驚きをもたらして最も聴きごたえがあった。「振り返り I」は大学1年生のときの作品とのこと、出発点に触れることができたのは貴重だった(ヴァイオリン=松岡麻衣子)。どの曲もとくに演奏の高等技術は使われておらず、ただ音を出すだけというかんじで作られていて、これならプロでなくても弾けそうで、たとえばいっそ作曲者自身が弾くことだってできるだろう。それも面白いかもしれない、音を並べた本人が、いま弾いた音を聴きながら次の音を一つずつ微調整して生み出していけるとしたら、これは理想的ではないだろうか!?
全体を通して言えることをもう一つ。私の好みからすると、低音がやや少ない気がする。高い音には華があるが低い音にはたっぷりとした影がある。もう少し低い音を多用してくれると私の好みのストライクゾーンに近くなるはず……とこれはあくまで個人的要望。
リサイタル後半は「ヴァシレ・モルドヴァンの7つの詩」(2002)、「メレタン」(2014)、「偽りなき心 II」(2015/2022)、「誰もが雪の結晶を持っている」(2024、新作)の4曲。「ヴァシレ・モルドヴァンの7つの詩」はルーマニアの詩人の俳句を歌曲にしたもの(ソプラノ=長島剛子)。ピアノは強くひびき、歌声は豊かに清冽に流れる。声のリアルが重しとして乗るからか、非常に立派な曲のような印象を受けた。伊藤祐二作品の中で音楽的質量のたしかな、最もポピュラリティを持ちうる作品ではなかろうか。作曲者は「詩に音楽を書く方法は、いまだにわからない。」と作品解説で書いていて、これの作曲には相当戸惑いがあったようだが、むしろ逆説的に、伊藤祐二はオペラの作曲を目指すべきだ! という意見を具申したいようにも思うのだ、無茶ではあるが。
「偽りなき心 II」はもともと木管五重奏のために書かれた曲だそうで、それをピアノにアレンジしての演奏だったためか、変な感じの響きがところどころに聴かれて興味深かった。この曲は去年のリサイタルでも聴いたようだ。
新曲の「誰もが雪の結晶を持っている」はペダルの操作により、スタッカートのような短く切れた音と、長く余韻をひびかせる音とがまざり合っていて、モールス信号をモチーフにしたにぎやかな絵画を見ているようで楽しかった。モールス信号ならば短い音の連打があってもいいところだが、これはこちらの勝手な妄想であるから文句は言えない。伊藤作品では最後の数音が抒情的フレーズをなして終わるときがあるが、この曲はそうなっていなくて、いきなり断崖で切れる感じだった。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 14:51| 日記