
愛敬浩一著『荒川洋治と石毛拓郎』が完成した(詩人の遠征シリーズ16巻)。このところ草森紳一論を精力的に世に問うていた愛敬氏だが、この本では心機一転、対象を詩人に変えた。荒川洋治・石毛拓郎の二人とも氏が長い間にわたって仕事を近い距離で注視して来た詩人ということで、その論は理解度が深く細やかだ。どちらも最新詩集(『真珠』と『ガリバーの牛に』)を中心にしての評論となっているが、過去の詩業にも自在に遡って論議を深めている。荒川洋治はよく知られているが、石毛拓郎の詩は初めてという人も多いのではないだろうか。
「石毛拓郎の詩集『阿Qのかけら』のいくつかの詩篇を読んできて、「国家へ憎悪」という言葉にたどりついたところで、ようやく、石毛拓郎の根源的なモティーフに触れることができたように思う。と同時に、ほぼ同じ地点で、石毛拓郎が〈詩〉をあきらめたことの意味の一端が分かったような気もしている。もう、詩など役に立たないのだ。考えてみれば、吉本隆明の『戦後詩史論』(一九七八年)の最後で引用されている詩「都市の地声」が、石毛拓郎のものであったというのも象徴的なことのようにみえてくる。」
「石毛拓郎は、英雄ではなく、決して歴史に取り上げられることはない無名の人々を、比喩的に「阿Q」として語ろうとしたので、それは「屑の叙事詩」となり、「レプリカ」となったわけである。」
こうした批評の言葉によって、この詩人の求める詩の場所の危険な厳しさがなんとなく想像できる。石毛・愛敬両人が所属したかつての同人誌「イエローブック」への愛着も熱いものがある。
また第一部・荒川洋治論の冒頭には、詩を読む難しさを語った文章が置かれている。
「詩の読み方が分からない、という人は多い。小説の読み方が分からない、という人はほとんど聞かないが、分からない小説というものもある。もんだいは、分かるか、分からないかではなく、それが言語表現として、私たちを読みへと誘う♂スかを持っているかどうか、の方ではないだろうか。
さらに言うなら、分かりやすいという同じ小説を読んだとしても、そこから受け取るものは、人によって全く違う。ただ、あらすじだけが読み取れて分かったと思い込んでいるだけなら、おそらく、その人は「読む」ということを誤解しているのだ。分かりやすい〈詩〉を書くべきなどという議論も論外である。
荒川洋治『文庫の読書』(中公文庫・二〇二三年四月)を読みながら、改めて、「読む」こと≠ノついてあれこれ考えさせられ、さらに、彼の〈詩〉をどう読んだらいいのか、考え始めてしまった。
もちろん、この問い≠フ裏側には、多くの〈詩〉を書く人々も、〈詩〉を分かっているのかどうか、自分の〈詩〉を書くだけで、そもそも、他人の〈詩〉を読んだことがあるのか、という疑義もある。もしかしたら、「詩の読み方が分からない」という素直な人より、〈詩〉を書いているつもりの人の方が、始末も悪いかもしれない。」
この読むことの初心のみずみずしさを保持しながら(不明の部分はわからないと言いながら)最後のページまで実のある論考が継続されており、読者は大いなる信頼とともに読み進んでいけるのではないだろうか。
(池田康)