5日日曜日、午前中に両国の江戸東京博物館会議室でひらかれた「第19回TOKYOポエケット」(詩の同人誌のマーケット)を初めて見学し、予想より多くの人たちと言葉を交わした後、駅の反対側のシアターχに赴き、上映会「久高オデッセイ」(大重潤一郎監督)に参加した。音楽を担当された新実徳英さんのご案内による。
午後の部は三部作のうちの、今年完成した第三章「風章」の初公開上映とシンポジウムがあった。この連作は沖縄・那覇の数キロ沖にある小島・久高島(人口は約200人)の生活風習を記録するドキュメンタリーで、神の島と言われているこの共同体の宗教性に重点を置き、諸々の祭や年中行事、そして日常の無数の小さな時間を追う。珊瑚礁(イノー)を特色とする海浜の風景が島の表舞台だ。月や太陽の映像も美術品のように美しい。神女の歌の草木の形状なす曲線、男たちのカチャーシー(沖縄の踊り)の風のような自由さと楽しさ、新しい生命としての赤子の成長、そして海亀の産卵。多くの見所がありつつ、商業フィクション映画を見慣れた目には、淡々と場面が進んでゆく、作り込みの全くないことに由来する平板さはやや違和で、ドキュメンタリーが飾らない日常の光景を捉える必然のリズムなのだろうと納得していたのだが……見ている間は気付かない、島共同体にとっての巨大な悲劇的事実がこれら風景の裏側に存在することを、シンポジウムでの話から知らされた。島の宗教行事として最も重要な、イザイホーと呼ばれる12年ごとに行われるはずの神女継承式が1978年を最後に途絶えたままになっているのだ。新しい神女(カミンチュー)はようやく現れたのだが、撮影の最終年の2014年もとうとうイザイホーは復活せず、若い神女は泣く。秘儀は海の底にかくれた。島の共同体の一番深処にある重要な火が消えてしまっているというこの事実はもちろん生活の近代化と密接な関係があるのだろう。この島はニライカナイそのものだという監督の言葉はあるのだが、そう言える部分が豊富にあるとしても、それは中心部分に悲痛な欠損を抱えたニライカナイなのだ。そして更にこの久高島の姿はそのまま日本の姿であり、現代の世界の姿であるという象徴作用まで視野に入れると、「久高オデッセイ」三部作の扱うドラマの大きな普遍性が理解されてきて、映画の語り口の訥々とした静けさとのあまりの対比に電撃を受けるのだ。
新実さんの音楽はピアノとチェロによる明澄な構成のもので、リズムを活かした小気味いいフレーズもあり、全体に組曲の小宇宙をなすかのようなまとまりが感じられ、ドキュメンタリーはフィクションのドラマよりも音楽はかなりの自由度をもってつけられるような印象を受けた。シンポジウムでは「レ」を主音にした琉球旋法に準じた旋律とその変奏、という説明がなされ西洋音楽の標準との差が興味深かった。
シンポジウム(鎌田東二(司会、製作者)、島薗進、新実徳英、堀田泰寛、阿部珠理、宮内勝典の諸氏および映画制作スタッフが語った)は病床の大重監督(沖縄)もスカイプを介して発言参加する、密度の濃いもので、特別な時間の積層した上映会だったのだなと主催者の思いの大きさと重さをひしと感じた。
(池田康)