次から次へ、とっかえひっかえ、音楽を聴く──これが普通よくやる聴き方だが、時々ふと繰り返しのループが生まれることがある。今は、マリオ・ブルネロが弾くバッハの「無伴奏チェロ組曲」を繰り返し聴いている。CD1(3番・1番)の次は、CD2(4番・5番)、その次はCD3(2番・6番)、それからまたCD1……というように。これは2010年にペルージャのサンタ・チェチリア礼拝堂で録音されたとある、かなり前に手に入れたもので、CDの棚でたまたま目についたからプレーヤーに乗せたのだった。多くの音楽家たちはこの演奏をどう聴くのだろうか。考えが含まれすぎ? すべての楽音に彼の意思が宿っているように聴こえる。十分な思考をもって一つ一つの音を置いている。だから、ごつごつした感じもする。もっと音楽を流麗にするためには、無意識で機械的にうごく部分もあった方がいいのかもしれない。グレン・グールドもテンポはかなり機械的に流したりしている。マリオ・ブルネロの一音一音のタッチの思慮深さ、執拗さは、ゴッホの絵のタッチに似たものがあるとも言えるかもしれない。ゴッホの悲劇性がこのチェリストにあるわけではないだろうが。彼はCD付属のブックレットでこんなことを言っている。
A new interpretation generally comes about after a long period of familiarity, when the work has acquired a shape, a precise place in the mind of the performer. At that point details can take on an importance that can shift the centre of gravity of each small form within the Suite, and it is on this that I have concentrated my attention.
一音一音の所作とうごめきを聴け、ということか。
(池田康)
2015年07月30日
マリオ・ブルネロのバッハ
posted by 洪水HQ at 13:42| Comment(0)
| 日記
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