2016年05月24日

吉田義昭詩集『空気の散歩』

kuukinosanpo.jpg吉田義昭さんの新しい詩集『空気の散歩』がこのたび洪水企画から出た(1500円+税)。前回の『海の透視図』(2010)は昔の作品(詩集に未収録だったもの)を中心とした集だったのに対して、今回の本はここ15年ほどに書かれた散文詩作品を集めたとのこと。四部に分れていて、あとがきの言葉を借りれば、第1部と第3部は「ガリレオやその周辺の科学者たちを登場させ、科学史風な作品に仕上げた」、第2部は「臨床心理学関係の作品を集めた」、第4部は「故郷長崎をテーマとした作品とした…(中略)…長崎を訪れる度に故郷への郷愁は強くなっていったように思う。これらは叔父さんから聞いた生の言葉が含まれている。私の原点となった作品たちである」。この第4部「東シナ海」は前詩集の内容とつながっているところがある。最後の「星と星との距離を」は祈りがこもっているように感じられ、「私が今、生きていること、それも、太陽系のこの地球という星の上で生まれたこと。それはただの偶然ではないと思います。いつもどこかの星から、誰かが私を訪ねてくるような気さえしているのです」との言葉も新鮮な響きで耳を打つ。
ガリレオ関連の詩篇はガリレオの弟子(架空の人物?)の視点から叙され、ガリレオの行為、仕事もねじれを帯びて相対化されるところが面白い。なにしろこの弟子は「実験なんて卑怯者のすることだと信じていた。正しいことは考えることでしか生まれないと。」(枯葉の理論)などと呟いたりするのだ。また禁書を持っていたら危ないということで本を火に投じて焼く場面は特別の緊迫感がある。
詩集タイトルとも関係がある「風と光の見える日」の冒頭三連を引用紹介しよう。

風が見える日があるとガリレオが言う。夏だった。低い青空に雲がゆったりと移動していた。名前もない、匂いもしない、果実も実らない木々たちが揺れていた。町へ向かう細い石の道を歩きながら、淡い黄緑色の葉を見つめ、自分の力で揺れることはできないのだからと言う。風は何でできているのだろうかとさらに呟く。

風など見えるわけがない。私には彼の問いの意味が分からない。風は空気、風は心。土と火と水と空気と、その四つの物質ですべての物ができていることなど、哲学者なら誰でも知っているはずだ。それなのに、いくら真実を見つけても、またその次の真実への疑問が現れてしまう。私にはやり残したことが多すぎると悲しげに言う。

光が見える日もあるとガリレオが言う。太陽を見過ぎたために失明しかかっているという噂は聞いていたが、いくら私が尋ねても、彼はその質問に答えてはくれない。まだ微かに風景は見えていたのだろう。太陽が私たちの周りではなく、私たちが太陽の周りを回っていると断言したが、私は絶対に誰かに告げてはいけないと口止めをしていた。

(池田康)
posted by 洪水HQ at 17:08| Comment(0) | 日記
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