2017年11月01日

野村喜和夫詩集『デジャヴュ街道』

野村喜和夫さんとは、11月4日に対談イベント(作曲家の篠田昌伸さんと野村さんとの。このブログの10月7日の項を参照)を共催する計画があって近ごろよくお話しする機会があり、このイベントで話題になるだろう、篠田さんが野村作品のテキストに作曲した三曲のうちの一つが詩集『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』(河出書房新社、240頁!)を題材にしているということなので、この詩集も最近読んだのだが、野村喜和夫という詩人は、詩の可能性についての考え深さや果敢にエロスの道を拓く四通八達の感性・志向は別にしても、言語エンジンが高性能で、統御力、駆動力、空間構築力が並外れているという印象が強くする。作り出される作品の柄の大きさは、あたかも巨大な建築を目の当たりにするようで、驚愕とともに茫然と見上げ、踏み込めば内部の迷宮に酔うことになる。
さて、今年六月に刊行された詩集『デジャヴュ街道』(思潮社、232頁!)だが、空に道が見えたという二十代の幻視に起源を持ち、その十数年後に「デジャヴュ街道」という詩が生まれ、さらに五十代の旅先で「空いちめんに多数多様な道の浮かび上がるのがみえた」という経験があって今度の詩集に収められた作品群が誕生してきたということらしい。直接うかがったところによると、金子光晴の足跡をたどるアジア各地への紀行が発想のベースにあるそうだ。どの作品も強靭なリズム、狼藉を働くとでも言いたくなる無法の生命の荒々しさでつねに躍動している。音楽的、と評したい面も多分にあり、ことに「炎熱街道」にはそれを強く感じ、書かれながら同時に作曲もなされているかのようで、この詩なら素人の私でも一晩で作曲できるのではないかとさえ思った。ランボーとともにニーチェへの言及的示唆も目立つのは、この詩の旅は生の価値の極限を問う旅だという意識があるからだろうか。
もう一篇、忘れ難いのは本の最終章にある「エデンホテル」だ。今年の名古屋での中日詩賞授賞式に訳あって参加することになったのだが、その中の講演の講師が野村さんで、一時間にわたってこの詩篇「エデンホテル」の成り立ちを説明するという話の構成だったので、作者の補足説明を含めたっぷりと深くこのテキストを読んだ気分になったのだった。イスラエルのガラリヤ湖の近くのホテルに泊まった実体験を元に書かれたとのことだが、前に進む旅ではなく省察が深く沈潜していくようで、現代の精神的荒廃も描写に刻印され、この詩集中の位置付けにおいても「旅の果て」の、最終的に生の意味を問う場所をなしているような印象がある。一部を引用する。

 エデンホテルに、ひとはだから、長くとどまるべきではない、
 地の底に沈み込むような、劣悪なベッドのうえで、
 数泊もしないうちに、私たちは、
 いうなれば、生の基底にまでふれてしまう、
 するとあらゆる言葉を、たとえ睦言であっても、
 遠く、湖を越えてゆく音のように聴く、

 「わたしが死ぬときには、蠅が窓から入ってきて、
 ぶーんと、暗い唸りをあげるの」

 心の内奥などというものは、もはや自律的には、
 蠅である、したがって滞在とは、
 私たちがすでに、使い回された実在であると知ること、
 にひとしい、イヴよ、
 たまらなくひとしい、
   (「エデンホテル」より。括弧内はエミリー・ディキンソンの引用)

(池田康)
posted by 洪水HQ at 12:00| Comment(0) | 日記
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