2018年02月28日

文化コードを考える

散歩に出ると梅が花盛りだ。椿もそうだが、もうちょっと暖かくなるまで待てばいいのに、こんな厳しい季節によく咲くよと感心する。花には花の事情があるのだろう。
椿や山茶花は演歌などによく出てくるが、梅はあまり聞かれないように思われるのはなぜだろう。梅には一年の始まりを寿ぐというめでたさの性格付けが歴史的・文化的になされていて、それが演歌の主流が求める悲哀路線(心中を扱う浄瑠璃に通じる)と相容れないのかもしれない。文化コードが違うらしい。ならば洋楽系のポップスに出てくるかというと、花としての梅はなかなか思い出せない。梅の親戚の桜はどちらのジャンルでも広く歌われる。そのまた親戚の薔薇はポップスでは平気で主役級の顔で出てくるが演歌では登場しにくい感じがする。これも文化コードの相違か。
最近、島津亜矢が吉田拓郎の「落陽」を歌っているのを聴いたが(『SINGER4』)、この人が歌うと演歌曲のように聞こえて、驚いた。演歌の主な性格として、モダンに対する反逆=「反近代」、そして日本的文脈の遵守つまり「和風」であることが挙げられるかと思うが、「落陽」は北の地のうらぶれた男を描く歌詞内容から言ってもそういった演歌の厳しい文化コードチェックにパスするのだろう(社会や国のあり方を批判している部分はやや違っているかんじもするが)。日本のフォークソングは等身大の若者の生活を描くことが多く、シンガーソングライターである歌い手その人が歌の主人公のようにも聞けるところが親しみやすい人気のもとにもなっているのだろう、この「落陽」も吉田拓郎が実際に北海道でサイコロ好きのジイサンに会ったんだと想像して聴いてもさほど不自然ではない(作詞は岡本おさみ)。島津亜矢がうたうとその構図が演歌的芝居の次元に自然に移行するのだろう。フォークソングで、ロックの演奏形態で歌われても、演歌に聞こえる、という融通無碍の不思議がおもしろい(これら流行歌のジャンルは離れているようで梅と桜と桃のような近さの関係にあるのか)。音楽がみずからの文化コードを変えていく冒険は概念を揺さぶり変革する刺戟があって案外の驚きをもたらす。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 19:25| Comment(0) | 日記
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