2018年03月06日

苺を食べると

「苺を食べるとカーリングがうまくなる」とか「左右色違いのゴーグルをつけるとスケートが速く滑れる」というおとぼけ言は、愚かな勘違いだと笑っていい。
しかし「スマートフォンを持てば賢い生活ができる」はどうだろうか、素直に笑いにくくなる。「知識をたくさん獲得すれば優れた人間になれる」とか「お金があれば人生が買える」とかになると、そんな因果関係がダイレクトに存在するような気がしてきて、笑おうとする表情がひきつる。
先日、東京オペラシティで開催中の「谷川俊太郎展」を訪れた。面白い、興味をそそる展示がいろいろあって楽しめたが、この展覧会に集っている人々も、なにか趣のある雰囲気で、しかし詩歌関係者というよりはもう少し一般寄りの感じがして、この人たちの心世界の中で詩はどういう配置と働きのものになっているのだろうと、展示の一部として覗いてみたい気がした。チケットもぎりのところで白紙を渡してなにか書いてもらうとよいのではないか、と。「苺を……」式に、「詩を読むと****」を考えてもらうわけだ。「詩を読むと谷川俊太郎になれる」ーーこの回答は、不可能だろうの笑いが伴う点で“おとぼけ誤コピー”として“正解”に近いか。
「美」と「詩」は、少し違うだろうと考えることがある。美はなにか強いもののイメージがある。生命的に、プラス、ポジティブな「良さ」が美に昇華していくのだとしたら、詩は逆に、弱さ、欠落、喪失、歪み、といったネガティブな素因にかかわり生成してくることが多いのではないか。弱さの形を呈示することが詩につながっている面はあるだろう。対世間の鎧の下の生身の裸を、詩は夢み、現実に見せる。
「詩を読むと裸になれる」は有り難みもあり、一種の理想論として当たっているかもしれない。「詩を読むとすかんぴんになれる」は果してありがたいのかどうか、しかし警句としてかなりいい線いっているのではないだろうか。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 12:01| Comment(0) | 日記
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