2018年07月30日

モルポワの「リリシズム」

猛暑、台風、そしてまた猛暑と、サバイバルの意識を持たざるを得ない日々が続いているが、そんな中でも桃やスモモをかじったり西瓜を食らったり、機会を逃さず夏を楽しもうとする、生きるということはいつも貪欲だ。
ここ一週間ほど、有働薫さんが訳したジャン=ミッシェル・モルポワ『イギリス風の朝』(思潮社)を読んでいた。
知的に絢爛で鋭利な詩句があらゆる場所で見出されて、まばゆい。とりわけ次のような箇所に惹かれた。
「生きること、それは愛するすべての物事の間で途方に暮れることだ。母親を探す子供のように。」(「散歩についての短い賛辞」)
「私たちは最初の一条の日の光が灰色がかった水をしみ出させるこのよごれた雪だるまを、私たちの心と呼ぶ。」(「わびしい街はずれ」)
「わたしは心のなかに空想家の眼をした迷子の子供を持っている。白い壁の部屋のなかの一ふしの音楽のような。」(「子供じみて」)
モルポワはこの本で「リリシズム」という語を使って自分の詩の思想を収斂させようとしている。それは既成の文学形式の方法論ではなく、生そのものと表現とを結ぶなにかとても重要な秘密の道であるようだ。それはたとえばこんなふうに語られる。
「書くという冒険の極限の場所に、空白のページが震えるときに、長い間保留にされていた唯一の質問――それは歌かどうか――が生まれる。リリシズムとはこの不安のことである。」(「序曲」)
「リリシズム、自分のねぐらをけっして見つけないように強いられた、さまよう言葉。」(「リリシズムの言葉」)
「リリシズムのなかには対立した二つの熱望がある。一つは祝祭への熱望であり、他方は死へのあこがれである。」(「リリシズムの言葉」)
「リリシズムの状態とは、われわれの運命が突然明らかになったときにわれわれをとらえるこの興奮のことである。霊感とは、それが私たちの存在だけしか照らさないのではなくて、それと共に世界全体を照らすようなものである。リリシズムは陶酔を手に入れ、そこから竪琴の伝説が始まる。」(「イギリス風の朝」)
彼にとってはリリシズム論は真の人生論なのかもしれない。
書名は、ルソーの「新エロイーズ」の一節を論じたエッセイから来ている。「親愛の理想郷」の感動を捉えようとする試みと言えるだろうか。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 20:24| Comment(0) | 日記
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