2019年07月16日

曲の架橋

ある曲が別の(昔の)曲を呼び出し参照することで特別な意味やより大きな歌世界を獲得する、そんなリンク、あるいはブリッジが架かることがある。大正時代の「船頭小唄」をもとにして「昭和枯れすすき」(さくらと一郎)があることはよく知られているし、民謡を本歌取りの種にしている流行歌もたくさんある。サザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」も「勝手にしやがれ」(沢田研二)と「渚のシンドバッド」(ピンク・レディ)を踏まえているとされている。キャンディーズの引退曲「微笑がえし」はこのグループの過去の代表曲からの“引用の織物”を試みていて感慨を大きくしていた。小田和正の「秋の気配」と「たしかなこと」も続編の関係だと小田自身がいつだったか語っていた(愛情の生理の春夏秋冬)。さだまさしの「関白宣言」には内容をまったく逆転させた続編があり、時代の変遷を暗示する異色の姉妹曲関係になっている。
渡辺美里の「シャララ」は近ごろ格別のhappinessを感じるようになった。前段のしゃべり歌いの部分の綱渡りの緊張感がよろしく、児童合唱団が加わっていることも効果大だが、「見上げてごらん」の詞の部分で坂本九がうたった名曲「見上げてごらん夜の星を」に直結する感じがあり、星空を媒として歌世界が遠く広がる(作曲者の岡村靖幸のセルフカバーも聴いてみたい)。
さてボブ・ディランの「風に吹かれて(Blowing in the Wind)」は、フォークの古曲「ドナ・ドナ(Dona Dona)」につなげて聴けるのではないかと最近考えている。両曲はこの世の理不尽の根源的疑問に対する「reason」「answer」を求める心、そして「風(wind)」でつながる。「ドナ・ドナ」は屠殺される可哀想な仔牛の歌として広く理解されているのかもしれないが、少し距離をとって、寓話的構図を描いてみせた歌としてとらえるのがよいのではないかと思う。仔牛とは現世の苦境や桎梏に囚われている我々であり、苦役・隷属・虐待・犠牲の普遍的符牒である。それをどう乗り越えるのか。お前は仔牛でいなければならない理由はなにもない、空飛ぶ燕のように翼を持って自由になればよいではないか、と歌は語る。「燕のように飛べるようになった者は自由を宝のように大切にする」。
「ドナ」とは英語の発音感覚で推し量れば「don't」だろうか。「Don't kill me」ということか。
「ドナ・ドナ」と架橋して「風に吹かれて」を聴くならば、世界の理不尽を問う幾多の疑問に対する「answer」とは、「blowing the wind」つまり燕になれ、飛ぶことを覚えろ、風の笑いを笑え、現世の重い桎梏から自由になる翼を持て、ということになるだろう。単純に「翼を」と言っても状況によってなすべき行動は様々変わってくるだろうが、そこは一切省いて自由の希求という理念だけ強く打ち出す。
もちろんこの架橋を絶対的なものとして確定してしまうと詩の韻きの広がりがなくなってしまうからあくまで一つの可能性として考える方がよいだろうが、60年代の思想詩の本質的洞察を示し重い問題意識を樹立する無視できない「幻影の橋」のように思われる。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 12:37| Comment(0) | 日記
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