2020年04月05日

疫の奔流の行方

コロナ・マスカレードの不気味な祭が世界規模で続いている。数字とグラフにおののく朝夕。ペストやコレラ級でなくても疫が大津波となって襲来すると対処が難しい。ゾンビに咬まれたら自分もゾンビになる……というホラー映画の嫌な筋立てに似た、叫びたくなるシチュエーションを、罹患者に距離ゼロで接しなければならぬ医師や看護師たちは身をもってくぐり抜けているのだろう。
カミュの「ペスト」がいま広く読まれているそうな。昔読んだとき、主人公の医師の周辺にいる男の、ペスト禍の絶望的状況の中で熱心に(状況と無関係な)詩を書いている姿が奇異でひどく印象に残ったが、コンサート中止で時間ができた音楽家もいま一年後にうたう陽気なラブソングを作っているのかもしれない。非常時にひとつまみの平常の時間をどう自分で創出するか、という努力は精神の健全を保つために、前向きの呼吸をするために必要なのだと思う。
このところ、石牟礼道子著「椿の海の記」(河出書房新社・日本文学全集巻24『石牟礼道子』所収)を読んでいた。世界との交感のレベルの深度において驚くべき小説。ものごころがつき始めたばかりの子供が見る世界はこんなにも豊饒なのか、そして悲哀はこんなにも裸なのかと感嘆する。主筋ではないが、コレラが流行った時の様子が少し書かれている。
「それはどうやら、浜町にいたとき、コレラの流行ったときの光景らしかった。春乃も罹患して……中略……このときのコレラで死んだものたちはおびただしく、死人たちを、浜の真砂の上にじかに並べて焼き続ける大廻りの塘の煙の中から、兵隊たちが小さな舟で、いくさに出て行ったのだった。そのような煙の流れる故郷を後に眺めながら。」
死者が万を越えたら大震災レベルといえるだろう。すでに越えている国もあるし、徐々に近づいている国もある。まだ序の口とそわそわしている国も。疫病の数学のテストで合格点を取ることはマクロ経済の数学と同じくらい難しい。
「いかなる幽霊の姿勢で/全員で吊りさがればよいのか?」(吉岡実「コレラ」より)
(池田康)
posted by 洪水HQ at 16:40| Comment(0) | 日記
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