2020年08月01日

遊音倶楽部 2nd grade その文学性

コロナウイルスの感染者がまた増えているそうな。もう「おしゃべり禁止」にするしかない。くだらない雑談も重要な打合せも直接面と向かってはダメ。会話は電話かメールか手紙でしてください。あるいは手話かテレパシーか伝言板か。沈黙は金、という格言をヴァージョンアップして、沈黙はダイヤモンド、にしよう。沈黙は純愛、でも、沈黙は仁義、でもよい。効果があるのなら。口に釦、舌に鎖。怪奇童話の世界だ。
余談はさておき。
絢香のカバーアルバム『遊音倶楽部 1st grade』はわが愛聴盤だが、このほど7年ぶりの第二弾『遊音倶楽部 2nd grade』が出た。聴いてみて全体的に感じるのは(この表現で射当てているか心許ないが)「文学性」への傾きである。それを説明するために、たとえばということで、中島みゆきの曲を挙げたい。『1st grade』には「空と君のあいだに」が入っていて、私としてはオリジナルの中島みゆきの歌唱よりも絢香のヴァージョンの方が好ましいように感じたのだが、それはなぜかというに、中島は芝居の感じで演じてうたっているのに対し絢香は真剣にその詞世界に没入してうたっているように聴こえるのだ。この曲はドラマ「家なき子」の主題歌だったから、フィクションですよという条件付けが中島の側にあるのだろう。絢香にはそういう意識はなさそうで、まさに「I mean it」というかんじでうたっている。そして今回の『2nd grade』には「糸」が収録されていて、やはりオリジナルと絢香ヴァージョンとは相当違っている。その違いが、今回の場合、文学性の方向への深彫りというふうに聴こえた。中島みゆきは歌詞を書く段階では言葉に寄り添って考え抜いて書いているだろうが、うたう段階では躊躇なく音楽的な美しさの高みを目指してうたい上げている。対するに絢香は朗誦風というか、音楽性への欲動を少し抑えて言葉をできるだけ裸形で表すように努力しながらうたっているように聴こえる。
「アポロ」や「フレンズ」でも同じようなことが言えそうだ。ポルノグラフィティの「アポロ」は、絢香がうたい始めたとき、「弱いな」と感じた。オリジナルの歌唱と比べ、楽曲の運動の速度も重量も抑えられている。この曲は難しいかと思いながら聴いていると、そのうちに説得され、聴き入ってしまっていた。そして何回か聴くうちにこのヴァージョンが「アポロ」だと思えてくる。純音楽的な強度を緩めながら、言葉をくっきりと立て、朗誦のゆとりの中に文学的なコメンタリーを刻み込むかのようだ。レベッカの「フレンズ」は、日本語でロック音楽は可能や否やの論争が激しかった時期を経て、自然に日本語ロック曲が作られ、うたわれ、流行歌としてロック愛好者のサークルを越えた大衆に浸透するようになる、そんな次の時期を代表するシンボリックな曲の一つであり、この曲をうたうとはその(ようやく自然に走れるようになった)ロックの疾走感とともにうたうことであるはずなのだが、絢香は走らせない。「脱ロック」を企てる。リズム感のやや乏しい弦楽中心の伴奏をバックに歩くモードでうたう。音楽の身体的運動性よりもむしろ言葉を彫り上げ刻みつけることに腐心するかのようだ。
ロックの身体運動重視に対してフォークシンガーは文学性が勝るとするも、絢香がフォークシンガーだというのは違うだろうが、言葉が言葉としてまざまざと立ち上がってくるうたいざまはフォークシンガーの理想型とも思える。島津亜矢もカバーアルバムを多く出しているが、この歌手は歌唱能力をポジティブに活かして音楽性の方向に思いきりアクセルを踏む仕方で独自色を作る。それに対してこのアルバムでの絢香は音楽性の方向へは適宜ブレーキをかけながら、文学性とでも言うべき要素をそのゆとりの虚の部分に凝集させることによって自分の「自由研究」を営んでいるように見える。言葉と対話する歌唱。ポップソングを言語芸術として再誕生させようとする企図とも言えるだろうか。
(池田康)
posted by 洪水HQ at 11:01| Comment(0) | 日記
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