2020年11月13日

音楽の初心を思う

昨夜、「高橋アキ/ピアノリサイタル2020」を豊洲シビックセンターで聴いた。
前半はシューベルトの「4つの即興曲」(Op142, D935)。亡くなる前年、30歳の時に作曲したものだそうで、即興曲はOp90(D899)の方が有名だろうが、こちらもシューベルトらしい愛すべき素朴さ、無垢、あどけなさがよく感じられる。音楽の純真をここまで維持できるというのは驚異だ。なにげない構成がささやかな興を作るところも耳を素直に楽しませる。4曲目はリズムと音型の強い緊張、響きのちょっとしたエグミで聴く張り合いを与えられた。高橋アキがシューベルトを熱心に弾くことについては何故だろうと不思議に思うところもあるが、おそらく道でばったり出会って、なんとなく言葉を交わしているうちに友だちになったのだろうと想像する。シューベルトを通じて音楽の初心をおさらいできるとともに、「古き良き西洋音楽」に接続することは、現代音楽というおぼつかない大海を放浪してきたこのピアニストに優しい安堵をもたらすのだろう。
後半は、ピーター・ガーランド「発光(疫病の年からのメモ)」(世界初演)、八村義夫「インティメイト・ピーセス」、バニータ・マーカス「角砂糖」、ジョン・ケージ「スウィンギング」「果てしないタンゴ」、ヤニス・クセナキス「ピアノのための6つの歌」、という内容構成。聴いていて思うのは、アメリカの作曲家は音楽における原始的単純さを大切にして作曲する傾向があるようだということ。音楽の素心の発露というか。ガーランドにしてもマーカスにしても、シンプルな素材をシンプルに活かして組み立ててゆくという方法をとっており、楽想の表現欲は薄い。あたかも木に繁る多数の葉が陽に当たり風に揺れてちらちら輝くとか、流れる水が刻々に表情を変えるとか、そんな自然現象を眺めているような感じの音楽で、淡い清らかさがある。和音進行という音楽思考が行われていても、どこへ行きつくでもないあてどなさはいつしか環境音楽へと近づく方向とも思える。ここにはシューベルトの音楽の初心に通じるものがあるのかもしれない。ジョン・ケージ作品については、「敬愛していたエリック・サティの作品から「スポーツと気晴らし」の中の2曲を用いて、ケージ独自の不確定性の作品にしました。その指示に従って演奏家が音作りをします」という説明がプログラムに書かれているが、その楽想に表現欲は皆無!?で、音楽よりも感銘をおぼえたのは、ケージに親炙したこのピアニストがなんの構えるところもなく当たり前のように作品に入っていくその自然さであり、また曲が終わったあと拍手もなく次の曲に移っていくという、〈作品〉であることをとくに欲していない特異なジョン・ケージらしさだ。ジョン・ケージが其処にいたようだった。
こうしたアメリカ現代音楽の中に置かれて、八村作品は楽想の表現欲が濃厚で、その差異は顕著、妙なリズムをもって犇めき合い錯綜する不穏な音たちを的確に捌く演奏の手際は鮮やかだった。
クセナキスの曲は、若い頃の仕事ということだが、この作曲家としては意外な、メロディアスな曲で、やはり音楽の初心のみずみずしさが感じられた。
アンコールは武満徹「死んだ男の残したものは」とサティの「ジムノペディ」。
高橋アキさんのステージ上での話によれば、この日、テリー・ライリー氏が会場に聴きに来ていたとのこと。ピーター・ガーランドの「発光」の第二楽章がライリーにちなんでいるという機縁からだと思われるが、この大変な時期によくぞ、と思わないではいられない。
(池田康)

追記の注:
アンコールのサティの曲ですが、「ジムノペディ」ではなく「ジュトゥヴー」だそうです。お詫びして訂正いたします。
posted by 洪水HQ at 16:00| Comment(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: